第二章 四話 『愛してる』

 ――そしてそのチャンスは小さな形で訪れた。

 

 ガタン!と大きな音と揺れが馬車を襲った。







 突然の揺れに膝枕をしてもらっていたロリアは慌てて目を覚ます。汚れた白金の髪が馬車の揺れと同期しながら動く。


「!?」

 

 ロリアは不安な顔をして姉アビーを見る。

 しかしアビーもまた状況が読めず同じような顔をして周りをうかがっている。

 馬車が止まる。


「あぁクソ最悪だ!」


 馬車の先頭から父親の叫び声が聞こえる。

 ロリアとアビーは強く抱き合いながら耳を澄ませる。


「なにがったんだ親父!」

「くそっ……脱輪だよ! 左の後輪が落ちてやがる! だから気を付けろって言ったろうが!」 


 道は荷台がひとつ通るのが精いっぱいの細さだったため内輪差によって左の後輪が落ちてしまっていた。


「ど、どうすんだよ親父!」

「うるさい! 今考えてんだよ! 大体お前がちゃんと手綱を握ってなかっただからだろうが!」

「わ、悪かったよ! ちょっと考え事をしてたんだ!」

「バカ息子が! ったくよぉ!」

「すまねぇって! 俺はなにすればいい!?」

「だからどうするか考えてるんだろうが!」


 アビーは二人の怒鳴り声が飛び交うほうへと視線を向ける。

 親子は何か話し合った後、父親は先方の馬車へと走る。

 先方の手綱を握る男といくつかの会話を交わした父親は、再び急ぎ戻る。


「お、親父どうなった?」

「あぁ……いくつかの香辛料を渡す代わりに乗せれる分の積荷は運んでもらえるよう頼んだ」

「馬はどうする?」

「馬は引いてく。まずは向こうのいくつかの積荷を下ろせ。そのあとこっちの黒唐辛子を一瓶と蜂蜜バターを樽ひとつ向こうに渡せ。運賃だ。あとは出来る限りの積荷を運べ」

「分かった。親父は?」

「儂はエルフの縄を柱から外す。お前にはもう任せれんからな。積荷はエルフの分は空けとけよ」

「す、すまねぇ。急いでやるよ! 日持ちする香辛料と干し肉を中心でいいか?」

「あぁそれででいい。ったく……今一番の儲け話はエルフだからな。売れりゃ置いてく馬車なんて些細な事だ。だから急げそろそろ夜が明ける。もたもたしてると正午に間に合わねぇ」

「分かった急ぎでやってくらぁ!」


 息子は止まっている先方の馬車へと走っていく。

 父親が荷台へと足を踏み入れる。

 荷台の床の木が太った体重のせいで軋(きし)む。

 

「話は聞こえていただろ? 移動するから暴れるなよ? 喋りもするな」


 優しい声で太った父親はアビーとロリアに話しかけた。

 右手には躾け用に使われる鉄の鞭が握られている。


「ひっ――」


 それを見た途端ロリアは慌てて目を逸らす。ガタガタと震える。ロリア恐ろしくてたまらなかったからだ。記憶が呼び覚まされえる。それは躾けという名の拷問。焔環魔術によって熱された鉄の鞭。 

 男は震えるロリアを見ると、


「そうだ、それでいい。黙ってろ」


 悲鳴を上げそうになるロリアをアビーは必死に背中へ隠した。もう妹が怖いものを見ずにすむように。

 商人である父親の躾けは正常に作用していた。ロリアにはもう抵抗する気力すらない。男の顔と熱された鉄の鞭さえ見ればこの三日間のことが鮮明に思い出されるようになっていた。

 そして、それはアビーも変わらない。

 心臓がバクバクとなる。脂汗がにじむ。

 アビーとロリアにとって、鉄の鞭をもった男は恐怖の塊となっている。


「お願いです……私たちを解放してください……!」


 柱についた縄を解こうとしている時に、アビーは絞り出すような声で話しかける。

 それは服従であり懇願でもあった。

 父を殺し村を焼いた糞野郎に抵抗することを諦め、良心に訴えるほかなかった。

 そうするしかロリアを守る方法がなかったから。

 ピクリと男の眉が動く。

 

「いま何て言った?」


 だが世界は残酷だった。

 男は静かに近づき、ひんむいたような目でアビーを見る。


「どうか……私たちを解放して――「儂はしゃべるなといったよな?」


 男は右手に持った鞭を高く上げ――ヒュン、と音を鳴らす。

 男が力いっぱい鞭を振ったのだ。

 鉄鞭は狭い荷車の中、限界ギリギリの放物線を描きアビーの足へ向かう。

 細く長い鞭の先端はアビーの足の甲に当たり――

 ボキッ――と骨が折れる音。 

 

「ぁぁぁああ!」


 足の甲が赤く腫れあがる。皮膚の一部が裂け血が滲む。


「次喋ったらお前の妹にも同じことをする。痛みで叫んでも同じことをする。いいな?」

「――!」

 

 アビーは必死に奥歯を噛み悲鳴を押し殺しコクコクと頷く。

 どんどん痛みは増す。赤く腫れあがる。

 涙が目に浮かび泣き叫びたくなる。

 だがアビーは声を出さない。決して。

 悲鳴を上げず堪え続ける姉の行動を良しと取ったのか、商人の男は柱につけた鍵を取り出し縄をほどく。


「ほらいくぞ」

 

 アビーとロリアの縄を引っ張り荷台に降りる。

 アビーは右足を引きずりながら歩く。

 男はそれが気に食わなかったのか、力強く縄を引っ張る。


「っ!」


 縄錠を強引に引っ張られ右の甲に痛みが走る。ロメスは自分の顔が歪む。 

 ロリアとアビーは縄を引っ張られながら商人の馬車を後にする。

 山道。崖路。渓谷。


 男は「おーい」と声をかけ、前にいる息子に森人族(エルフ)を運んできたことを知らせる。息子は前の馬車からいくつも積荷を下ろしロリアとアビーのスペースを作っている。

 前の馬車には同じ村のエルフが積まれていた。

 死んだような、生きすら放棄する顔。

 私たちもああなってしまうのだろうと、アビーは理解した。


 距離はわずか数十歩。

 アビーとロリアはただ縄に従い前へ進む。

 

 寒空の夜だった。

 右足はまともに機能していない。足を引きづりながら歩く。しかしそれはもはや気にならなかった。

 ――そっか私死ぬんだ。アビーは思った。


「ロリア……ごめんね」  


 エルフは耳がいい。男には聞こえないような声――小さく優しく諦めた声で、アビーは謝った。


「ダメなお姉ちゃんでごめんね」


 どうしようもないのだ。だって世界はそうできている。

 奇跡なんて起きやしない。

 奇跡と呼ばれるものは所詮、好意的に見た偶然でしかない。

 ――私たちが死ぬのも偶然なのだろう。

 アビーは命を諦めた。ロリアの命を諦めた。

 抵抗する気などこの三日間で消え失せた。最初は男たちの喉をなんど噛み切ろうかと思ったか。何度切り刻んで魔獣のエサにしようと思ったか。

 そんな思いを断ち切ったのは、ある意味ロリアだった。

 ロリアが泣き叫ぶのを見ると守らずにはいられなかった。

 ロリアが殴れれているのを見ると変わらずにはいられなかった。  

 ただアビーは妹を守りたかっただけなのだ。

 ――でもそれももう終わり。

 アビーは謝る。

 守れなかったこと。苦しい思いをさせたこと。

 そして――妹と自分のを命を諦めたこと。



「お姉ちゃん大丈夫だよ」


 諦めるアビーに対し、ロリアは優しく答えた。

 それはまるで理屈のない安心のように。

 

「お姉ちゃんはね、ダメなんかじゃないよ。いつも私を守ってくれたもの。いつだって側にいてくれたもの。私はそれだけで嬉しかった。お姉ちゃんの妹で私とっても良かったの」


 ロリアは笑う。


「私ねいつかどこかで恩返しが出来たらなぁって思ってた。お姉ちゃんが守ってくれたように私もお姉ちゃんを守ってあげたいなぁって」

「ロ、ロリア?」

「いつももらってるたくさんのものを……少しでも返したい。きっとこれは神様がくれたチャンスだって私は思うんだ」

「なにを――」


 ロリアはアビーに近づき、縄で結ばれた両手を姉の胸元に置いた。


「お姉ちゃん私ね、生まれ変わったらまたお姉ちゃんの妹になりたいな」

「えっ――」


 その瞬間――ロリアはアビーを崖へと押した。

 力の弱いロリアでも、足を怪我しているアビーを押すことは容易だった。


「逃げて生きてね。大好きだよ」

 

 アビーの時間がゆっくりと流れる。

 まずは空が見えた。暗い空。夜空だ。


 崖のギリギリに立っているロリアの背中が見える。妹は両手をつながれたまま――視界の端にいる商人のほうへ走る。

 ――商人は驚き口を大きく開けている。おそらく叫んでいるのだろう。

 妹は商人へと体当たりをし――アビーの縄を持つ左手に噛みついた。

 そして――アビーが見えたのはそこまで。


 一度だけ縄が伸び――ピンとはる。

 しかしそれも一瞬。一本の縄がまるで途切れたかのように弛(たゆ)む。

 アビーの手から空に浮かぶ。

 

「どうして――」


 アビーは渓谷に落ちる。

 ゆっくりと浮遊感を覚える。

 

 ――どうしてそんな馬鹿なことを。

 ――私が守らないといけないのに。


 情けないお姉ちゃんのアビーは、妹ロリアによって谷底へと落とされ――救われた。

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