第一章 三話 『現状』
重いまぶたを開けたとき、最初に視界に飛び込んできたのは見たこともないくらい高い天井だった。
絵画調に描かれた品のある天井の中心に白を基調とした大きな円が描かれている。
「ここは……」
体がひどく重い。仕方なく眼球だけで周りを探る。
「てめぇの寝室だよ」
ベッドの横から不服そうな声がかけられる。
低く妖艶な声の主――ミレ・クウガーがベッドの傍にいた。
ミレ・クウガーの身長よりも長い大太刀を壁に立てかけ、モデルすら及ばない美しいプロポーションのまま、椅子に腰かけ足を組んでいた。
雪原の中で見惚れた黒のドレスは姿を変え、いまは白と銀をベースにしたフィットフレアシルエットで着飾っている。
「よう、起きたか?」
「……おはよう」
寝不足なのに無理やり起こされた時みたいだ。
鉛のように重い体をゆっくりと目覚めさせ、上半身を起こす。
妙な気分だった。
体を起こすのに使った手足も、見慣れた体ではない。白く細い指、骨に皮だけが張り付いたような腕、音を聞く鼓膜も、眼鏡を必要としない視界も、思考もすべて現実のようだが、それでも実感がわいてこない。
現実と思考の乖離。
「ここは?」
ぽろり、零れるのように答えた。
「あんたの寝室。ぶっ倒れたから運んできた」
「ぶっ倒れた――」
「わたしにゃすこぶる健康に見えるが一応リズ呼んでくるか」
「リズ――」
聞き覚えのある名前だった。
「まぁ仕方ねぇよ、あんたは長い間眠ってたからな」
「眠ってた?」
「あぁ――三十年くらいか?」
「……」
「ついでに」
『三十年』
ユグドラシル――アキにひとつの疑問が生まれる。
いま生きている自分のことを、アキはアキと認識している。けれどその前――三十年眠っていたとして――その前の記憶は一切ない。
「俺自身がラスボスとして世界に現れたんじゃなくて――ラスボスに俺の記憶が上書きされた?」
ミレが部屋を後にする。
静かな一人の部屋。
部屋を見渡す。
見たことがあるようで見たことのない部屋にユグドラシルは違和感を覚えるほかなかった。
それは『見たことのない情景が記憶から再現されている』ということなのだろうか。
「あれ? このあとどうなるんだっけ?」
なぜかストーリーがうまく思い出せない。
「見開きで人間と魔族の戦争と描いて――そのあとに主人公たちを描いて……あれ?」
あれほどの熱量で描いたはずのマンガの続きを、どうやらド忘れしているらしい。
「外傷もない。精神汚染の気配もなし。うーん、どこも悪いところはないですね」
「元気そうでなによりですよ。ミレちゃんもよかったね」
「」
「もー相変わらず口悪いんだから」
リズと呼ばれた小さな妖精は、ユグドラシルの頭の横を飛び回っている。
人差し指ほどの大きさもない
白のワンピースを着飾り、背中からは美しく透き通った羽が二対生えている。
金色の髪と金の細い眉毛が可愛さを引き立たせている。
ユグドラシルは、初対面であるはずのキャラクターにお礼を言った。
「気になさらないでください。私の役目は診察、治癒、爆散ですから」
リズレットと呼ばれる妖精はとても可憐な姿であった。
小さな妖精は全身をくまなくチェックし、報告を受けたミレ・クウガーは安堵の息をはいた。
「あぁ……戦争はどうなった?」
これは確認作業だ。
魔女戦争。人間vs魔神ユグドラシルの手下たちの戦い。
「ミレ、戦争――魔女はどうなった?」
リズが診察しているうちに、今回の戦いについてミレに聞くことにした。
魔女という単語にミレの眉がピクリと動く。
そして吸っていた息をすべて吐き出しながら
「私らは撤退したよ。どっかの誰かが急にぶっ倒れたからな。人間の奴ら、今夜は歓喜の祝杯だろうよ……それに魔女には逃げられたよ。あいつ、隠れるのだけはうめぇからな。たぶんだが、ガルディアのやつらも捕まえれてねぇぜ。そもそもあいつらは【人間の魔女を奪う】ことより【奪われない】ことを重点に戦ってたしな」
と答える。
「そうか」
戦争の部分は覚えている。
ガルディア国と魔族は戦いの末、魔族の敗戦という形で決着がついたはずだ。
それが今後、主人公たちの町で行われる感謝祭につながるように作ったはずだ。
「なぁミレ。ここは……庭園都市『アミュレット』か?」
「……そうだけど」
なに当たり前のことを聞いているのか、という態度を示される。
「つまり、さ。もしかしてこの城、飛んでるか?」
「ああ」
「だよなぁ」
そう、庭園都市アミュレットは空を飛んでいる。そう――作った。
もともと設定したとおりの世界観ならば、飛行魔術を使える人間は少ない。ゆえに城に攻め込むことも難しいはず。だからこそラスボスは安泰に暮らし、人間の国は空を恐れる、という世界観にしたのだ。
「あぁ、思考が追いつかない。なんだよこれ、本当に」
「ちょっとあなた様。ぶつぶつと独り言ですか」
フワフワと浮かぶリズレットが奇麗な顔でこちらを見つめる。
白のワンピース。美しく透き通った羽。金色の髪。確かにリズレットという名前でラスボスの手下として設定した記憶がある。
しかし……。
「こんな細部まで作った記憶ない」
ユグドラシルの住処であるこの天空城は、キーワードとしてストーリーの端に登場するものの、実物が主人公たちの目の前に現れるのは物語の中盤のはず。
それもあくまで外側だけの表現、こんなユグドラシルの寝室など描写しているわけがなかった。
「なぜか俺が忘れてるだけか?」
――唐突に訪れたための一時的なパニック障害か?などと意味のない考察が脳裏をよぎる。
「どうしました?」
可愛げに覗き込むリズ。
そう確かにリズレットの設定は作った。だがこれもまた、あくまでラスボスの手下として物語の終盤に登場させるため、細かい立ち絵は書いてなかったはずだ。また服装やしゃべり方もあくまでメモ程度、程度としてはプロットの段階のはずだった――のだが。
目の前にいるリズレットは設定していない可愛らしい髪飾りを付けている。それにワンピースには細かな星の刺繍があった。
イメージはなんとなくしていたが、これほどまでに具現化されているのはどうも不自然に思えた。
「ふむ……」
指先でリズレットのワンピースをめくる。
イメージを具現化されているのならば、このワンピースの中身はパンツなど下賤なものなど存在せず――
「ぎゃああああああああああ!」
リズレットの悲鳴が部屋に響く。
それはマンドラゴラの悲鳴のように脳に直接振動が入ってくる。ミレは急ぎ両耳をふさいだ。それを見習い、耳をふさぐ。
「なにするんですか! なにするんですか! なにするんですか!!」
目に涙を浮かべ、顔を赤くし、すさまじい剣幕で迫ってくるリズレット。
あまりの勢いに、ラスボスであるユグドラシルはビビってしまう。
「いや、その確認を……」
「確認!? はぁ!? 何言ってるんですかあなた様は!? なにしちゃってくれてるんですかあなた様は!? なに妖精のワンピースめくってるんですか!」
「あ、主殿……いまのはマジでキモイぞ……」
副官のミレも頬をひきづっている。
「あ、はい……すみません」
謝った。なんか申し訳なくて謝った。
魔神はすぐ謝った。
「もういいです! 体も元気そうですし! 私は戻ります! もう!」
ぷんすかぷんすかと怒るリズレット。
「また体調悪くなったら頼むよ」
「知りません! どうせ死なないし勝手に治るんだからいいでしょ! もう!」
捨て台詞を最後に、扉の向こう側に帰っていった。
「あの……主殿。こういうことはあんまり聞きたくもねぇし知りたくもねぇけどよぉ」
「え?」
「人差し指ほどしかない妖精に欲情はきしょいぜ。あんたの理解者である副官もドン引きだよ」
「違う違う!」
慌てて否定。そして深呼吸。
「いやね、ちょっと確認したくて」
「欲情したアホはそうやって言い訳から始めるって聞いたぜ。リズレットのワンピースをめくって下半身を覗くことがなんの確認になんだよ」
その眼は不敬である。
「どうしてもだったんだ」
そう。
マル秘のテキストの中に書いたリズレットは極々簡易的なものだったはずだ。
ラスボスの側近であり最高の治癒を使うフェアリー。また、過剰治癒で人間を爆発させる。
脳内にある程度ある設定を文字にしていないものも多い。なぜなら物語の設定やストーリーは寝る前に天井を見ながら思いつくことが多いから。
だから、パソコンのテキストファイルに書き出していなくても、脳内に含まれた設定。
「うん、確認できた」
脳内の設定にはあって、テキストには書き込んでいないもの。
リズレットの股の間には、それはそれは大きなタケノコさんと二つのりんごがありました。
「本物、なんだな」
この世界と呼ぶべきか夢と呼ぶべきかはさておいて、どうやらパソコンに含まれたテキストだけが反映されているわけではないらしい。
もともと寝る前に頭の隅で作り出した設定。リズレットは妖精であり男の娘というのが生かされている以上、自身の脳内で作られた物語といえよう。
世界が少し見えてきて、少し興奮している。
「妖精の男の娘……か」
現実には存在しない、妖精の男の娘。
「まぁいいけどよぉ……今日は宴会だからよ、さっさと着替えろ」
「宴会?」
はて、ユグドラシルの記憶には宴会などない。原作『召喚術師と世界の果て』は戦争のシーンで終わっているはずだ。
「そうだよ。――ったく。祝い事だからって城に住む全配下たちが下の応接間に集合してる。はぁ……酒は嫌いなんだが……あいつら死ぬまで飲むからな」
「祝い事? なんかお祝いでもするのか? 誰かの誕生日パーティ?」
アホなことを聞いていると自覚はしているのだが、なんの祝いか全くもって検討がつかない。
「あ! る! じ! ど! の! の復活祝いだよ! 三十年ぶりに目覚めたから盛大にやりたいってよ!」
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