15. 離山という役人

 竹香は洗濯をしながら空を見上げ、人間界で見る雲はゆっくりと動くのだと思った。仙界の雲はもっと白く、もっと速かった。

 

 目の前を通り過ぎる月日は、地上の雲のように流れ、竹香はもう18歳になろうとしていた。

 

 後宮にはいった小菜からは時々、手紙が届く。

 彼女はまだ女官のままで、ある妃の服装係を務めており、皇帝の姿は何度か見かけたことはあるのだが、まだお声がかかったことはない。


「菊の中に芍薬が一輪咲いていたら目立つけど、ここは芍薬ばかり。何とかしなければ」

 小菜はあれこれと作戦を考えているのだという。


 チーチーから頼まれている母親のことだが、なにせ、後宮には千人を越える女性がいるので、桃風という女性を探してみてはいるのだが、まだ見つかってはいない。もしかしたら、名前を変えたのかもしれない、そんなことが書かれていた。それと、時々、中柿おじさんへのお金が届けられた。


 仕事の休みの日、竹香は中柿おじさんのところに、小菜からのお金をわたすために出かけた。

「今日はチーチーに、見せたいものがあるんだよ」

 中柿おじさんは近所に建築中の、青い屋根の屋敷を見に連れていってくれた。

 この労働者が住む地区には、こういう大きな屋敷はない。

「うわー、すごいですね」

「門番の小屋でも、わしの部屋より広い」

 と中柿おじさんが大口をあけて笑った。


「誰が住むのですか」

「高級役人の屋敷だそうだ。こんな庶民が住む場所を選ぶなんて、変わった人間なんだろう。早く顔が見たいものだ」


 その役人はなんでも、7つの試験を全部一番で突破した一番の秀才で、若くして皇帝の軍機大臣に任命されたのだという。大臣といっても、皇帝の秘書のようなもので、皇帝に変わって文章をしたためたり、情報を集めて、皇帝に進言したりするらしい。だから、こんな豪勢な屋敷に住めるのだ。


「名前はなんと言ったかな。そうだ、離山リサンさまと言った」


「わたし、試験は苦手でした」

「チーチーは頭がよいように見えるが」

「試験がだめなんです。世の中には、頭のよい人もいるものだと感心します。学校にも、いちも一番を取っている友達が、……いや、友達ではなくてただの先輩です」

「何かあったのか、その先輩と」

「その人は頭はよいけれど……」

「そうだな。頭がよすぎるのも、よしあしなんじゃないかな、わからんが。役人が越して来たら、訊いてみるか」

「何を訊くんですか」

「どうしてこの場所を選んだのですか、とか、あなたはどなたさまですか、とか」

「訊けるんですか、そんなこと。失礼な質問をしたら、大変なことになりませんか」

「そうだな。でも、口をきいてもらえるはずがないから、心配することはない」

「そうですよ。危険には近寄らないほうが、いいですよ」

「そうだな。さて、今日はマスを釣ってきたから、焼いて食うか」

「うれしい。マスはおいしいもの。おじさん、髪が伸びたわ。切ってあげます」

 

 それから数ヵ月たったある日の午後、竹香がいつものように、洗濯部の仕事場にいて、棒で洗濯ものを叩いていた時のことである。

 誰かが洗濯部の入口で何かを質問していて、ふたりの顔が同時に竹香を見た。

 質問をしているほうは、豪華な刺繍のある青い服をきた若い役人で、見たことのない人である。

 

 その役人が自分に近づいてきたので、竹香は立ち上がって、前掛けで手を拭いた。


 その役人は微妙に冬氷に似た雰囲気があり、竹香はどきっとした。でも、よく見ると違う。この人は冬氷よりは10歳くらいは年上である。


 こういう間違いはよくあるのだ。

 竹香は冬氷と背丈が似たような男性を見ると、彼かしらと思い、心臓が高鳴る経験はよくある。でも、よく見ると違う。全く違う。大体、冬氷が、人間界にいるわけがないのだ。


 そんなことはわかっているのに、今でも、通りすがりの誰かを冬氷だと思うことがあって、そのことを竹香は内心恥ずかしいと思っていた。

 そんなふうに感じたりするから、義母や貴星から「色気を振りまいている」とか言われるのだろう。でも、黙っていれば誰にもわからないことだから、竹香はそのことを誰にも言ってはいない。


 その役人はまっすぐに竹香に近づいてきた。彼は青白い顔をしており、痩せていて、手に杖を持っている。左足が不自由で、歩き方がぎこちない。

 

 髪を上でまとめて、黒と赤の帽子をかぶった青年は、杖をつきながら急ぐように竹香のそばに来た。他の洗濯女がみんなじろじろ見ている。

 

 わたし、何か悪いことをしたのかしら。


「元気だったかい」

 とその若い役人が訊いた。


 ええっ。


 竹香はあまりに驚いてよろめいて、そばにあった盥の中に落ちてしまった。盥の中につけてあった洗濯物の上に尻餅をついて、服を濡らしてしまった。


「大丈夫かい」

 その役人が手を伸ばした。


「大丈夫です。自分でできますから」

 竹香はその手を借りずに、自分で起き上がった。


「怒っていますか」

 役人がおじおじした感じで言った。

「えっ、いいえ。何がですか」


「ああ、すっかり濡れてしまいましたね」

「このくらい何ということはないです。洗濯が仕事ですから、濡れるのには慣れています」

「大変な仕事ですね」


「いいえ、大丈夫です。仕事は何でも大変ですから。ところで、わたし、何か悪いことをしましたか」

「いいや。竹香さんは、悪いことなんか、何も」


「どうして、私の名前を知っておられるのですか。あなたはどなたさまですか」

「ああ、失礼しました。私は離山リサンと言います。中柿さんの近くに住んでいます」

「ああ、あの青い立派な屋敷の方ですか」

 竹香はようやくこの人が誰なのか、わかった。どうして自分の名前を知っていて、なぜここに来たのかもわかったと思った。


「すみません。ここのところ、忙しくて、中柿おじさんのところには行けないのです」

 今年から、竹香は洗濯主任になったのだが、新人のミスもカバーしなければならないので、おじさんのところへは行けていない。だから、役人と知り合いになったおじさんが心配して、離山さんに見てきてほしいと頼んだのだろう。


「中柿おじさんが、離山さまのところに行ったのですね」 

「あなたのことは、中柿さんからいろいろと聞いています。お元気ですか」

「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」


 竹香は上着の濡れた部分を絞った。

「お元気そうですね」

「はい。元気で働いています。おじさんに、そう伝えてください」


 離山は立ち去ろうとしないで、竹香の手をじっと見ていた。

「手がずいぶんと荒れていますね」


「ああ、洗濯部の者はみんなそうですよ」

 竹香は両手を後ろに隠した。


「離山さま、ここはあなたさまのようなお偉い方が来るところではありません。どうぞ、お帰りください」

「偉くなんかないですが、わかりました。私の部屋は深奥シンオウ宮殿にありますから、困ったことがあったら、何でも言ってください」

「は、はい」

 離山はそう言って、なにか名残惜しい様子を漂わせながら、杖をついて帰って行った。

 竹香は呆気に取られたように、その場に、ぽかんとして立っていた。

 洗濯部の女性たちが、ぞろぞろと集まってきた。


「どうしてあんな偉い方を知っているんだい。親しそうだったじゃないか」

「わたしもわからないの、前に住んでいた長屋の近くに知り合いのおじさんがいて、その近くに役人の大きなお屋敷が建築中だったの。そのおじさんときたら好奇心の強い人で、このお屋敷を訪ねていって知り合いになったみたい。おじさんってね、ほら、小菜のお父さん」

「ああ」

 みんなが納得した。


 でも、竹香にも、役人がわざわざ自分で、この洗濯場まで来てくれたのか、よく事情はわからない。

 世の中には、不思議な人がいるものだ。




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