馬蹄

ハユキマコト

馬蹄

 それはくたびれた平日の午後のことでした。

 雨の音。しけった空気。説明文を見逃して、一錠飲みすぎた新しい風邪薬とその瓶。何度見返したかわからないドラマの中で死んでいく事件の犯人。

 有耶無耶なままの日常に、緊迫した声が、雷めいた亀裂をいれました。

「お父さん、入院するって」

 カラになったコーヒーの缶が、じゅうたんにつけた小さなシミは、馬蹄のような形で、こうして言葉をしたためる今もなおこちらを見ています。


 不幸なのは、去年父の保険を解約してしまったこと。不幸中の幸運は、ぶっちぎりの社内ニートと面倒な案件を抱える爆弾人間をせわしなく行き来しながら、私が仕事を続けていたことです。様々な方面で切迫しない程度の余裕があり、長年実家に住まう人間としてはそれなりに高い自信のある生活力もあいまって、父の入院が決まってからも私の日常が大きく変わることはありませんでした。

 命にかかわるような状態ではなく、ただ今後少しだけ生活が不自由になると告げられました。医者はどこか疲れた風で、いや、医者というものはいつだって疲れた風かもしれませんが、とにかく命に別条はないことを何度か違う表現で説明してくれました。明らかに病人の体をしている父は、変わりのない調子で病院食にむやみやたらとかぶが多いことを嘆いていて、はじめて父がかぶを苦手としていることを知りました。だって、前にあんな上手なかぶのあんかけを作って私の舌を楽しませてくれたのに、まあちゃんがぜんぶたべていいよ、という穏やかな笑顔の意味が変わってきます。まことという名のまをとって、まあちゃんと未だに呼ばれているこそばゆさと共に、踏んだ記憶はくすくすという笑い声に包まれふしぎと鮮やかな気がしました。

その程度のやり取りと、たまに友人宅の犬や猫の写真を送っては返事代わりの下手な顔文字を眺める日々が続いていたのでした。


 ちゃらんぽらんに過ごしてきた三十余年、子供部屋に押し込まれたままの感性が素直のまますべてを受け入れられたわけではございません。ぐるぐるとまわり、振り返っては一歩前に進むような暗闇で、奇妙な思い出ばかりが毎日過っていくのでした。たとえば、私がおそらく中学生ぐらいの時、釣りに行った父が聞いたこともない名前の魚を釣ったのだと興奮して帰ってきたことがありました。その怪魚が釣れたことには地元の漁師も驚くほどで、父の仕立てた刺身はたいへんに美味でした。しかし、肝心のどんな魚だったかは誰も覚えていないのです。透明で白い肉がほんとうに美味しかったことだけは覚えているのに、この話をしても「そんなこともあったかな」ととぼけるのです。たんに父と母が謀り、私をからかっているのかもしれませんが、あれは人魚の肉だったのかもなんて思うほどです。

 まっ先にそのことがよぎったのは、まるで人魚の肉を食べたなら、父が死ぬことはないはずだと、自分に言い聞かせているようでした。院内のコンビニで買い物をしている父や、少し高級な土産物の差し入れを喜んで楽しむ父の姿と乖離した場所で、色の褪せたもう一人の父が居るように感じられました。こんなに元気そうな人の命を何故私が心配せねばならぬのだとふつふつ怒りが沸くほどに、内気でからっぽな喪失感があるのです。

 いくら向き合おうとしても感情の形だけが先走って、結局泣きも笑いもできないのは、まるでメリーゴーラウンドの対角を眺めるようでした。印象を残しすべてが過ぎ去ってゆく中、当の私は変わらない景色を眺めているだけ。進むことなく回り続け、妄想で飾られたいく頭もの馬は、全員ばらばらの視点をこちらと合わせようとしません。びゅんびゅん音を立てる手前、頽れた私を確実に捉えているはずなのにふるえながら抜け出してしまう。確かな手ごたえはあるのにそれが視覚や聴覚から得られる情報とかみ合わないのです。嗅覚なんかはさらにひどくて、メロンパンを食べながら炒飯のことを考えたり、春巻きを揚げながらラーメンのことを思い描いたりしました。中華が食べたかっただけかもしれません。


 ひとつの体験をこうしておわらい草にすることを、決して人生の切り売り、量り売りとは思いません。

 父はけだかく優しくて、どこかとぼけて愛嬌のある、ああ、母は一体どうしてこんなに好い人と出会えたのかと笑ってしまうぐらい物語のある人です。いえ、こうして物語ることで私がそういう形にしているだけかもしれませんが、それでも父の足跡には、何冊もの本に、何枚もの絵に、私の人生ひとつではたらないほどの偶然が踊っているのです。


 明日、父が帰ってきます。メリーゴーラウンドの馬のかたちをした思い出を引き連れて、ケーキとお寿司を買ってくるのだそうです。ええ。自分の退院祝いを申し出るなんてなんて父らしいのだろうと思います。

 父の連れた馬がぱかぱか今この瞬間に鳴らす音を、私はいまかいまかと待ち続けています。

 丑三つ時、虚実入り混じる祈りの荒野にて。

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馬蹄 ハユキマコト @hayukimakoto

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