一度神になった男

@manolya

一度神になった男

一度神になった男


 居酒屋のカウンターで飲んでいたら、いつの間にか隣に男が座って飲んでいた。こちらも何気なく座って飲み始め、注文したものが一通り出てきた後はつらつらと様々なことを考えながら飲んでいたので、隣に誰かが来ても気が付かなった。もしかしたら一言くらい声をかけたかもしれない。「隣、失礼」とかなんとか。隣の男も一人らしい。


 下を向いて飲んでいたので、隣の男の手が目に入る。シワの感じから、中年から初老だ。それはどうでもよかったが、男の服が目に入り、少し嫌な気分になった。男の服は汚れていて、ボロかった。気に入った服を捨てられなくて長く着ている、またはそういうデザイン、あるいは服装に無頓着で、多少ボロくても洗濯さえしていれば気にしない、という体ではなかった。臭いはしなかったが、酒の席で隣同士になってしまったことを後悔するには十分だった。考え事も途切れた。居酒屋で飛び交ううるさい声が、突然耳にどんどん入ってくる。満席の店の中、席を変えることもできない。仕事帰りの私は疲れていたので、ここを出て他の店を探そうという気持ちも起きなかった。


 隣の男は何も気にする様子がない。自分のビールをジョッキの底近くまで飲むと、手を挙げてもう一つ注文した。声はしっかりしていてよく通るし、服と違って手は清潔で、爪も短く切ってある。何より、注文しているのだから、金はあるらしい。ジロジロと観察までする気はなかったのだが、目に入る分だけ、どうしても見てしまった。


 隣の男にビールとつまみが運ばれてきて、男は小さな声で

「しまった、多すぎた」

としゃべった。そしてやにわに私の方を向いて、

「半分どうだ」

と言った。

隣の男が注文したのは漬物で、この店のものはしょっぱいことで有名だった。私も一つ二つしか食べられない。でもこの店のおかみさんの自慢料理だそうで、誰も味を指摘できなかった。


 隣の男に持った印象がよく分からなくなってきたのと、この漬物のしょっぱさがよく分かるのと、波風を立てたくなかったので、

「あ、どうも」と言って自分の小皿に一つもらった。隣の男はまだ自分の箸を付けていなかったことは、私は見ていたので、気にならなかった。私のつまみはもろきゅうだったので、お礼にそれを一つすすめた。隣の男は礼を言ってきゅうりを一つ取った。


 漬物を前歯でそうっとかじると、そのしょっぱさに、以前、頼んだことを後悔したのを思い出した。すぐにビールを飲んだ。


 すぐ近くの空気がふふっと揺れたように思ったので、隣の男を見ると、男は私を見ずに、前を向いて笑っていた。男は漬物をかじったように見えなかった。私は波影を立てたくなかったので、つられたふりをして力なく笑った。


 私は居酒屋で見知らぬ人と世間話をするタイプではない。一人で飲みたいのだ。だったら家で飲めばいいところだが、コンビニでビールの缶やらつまみやらをビニール袋に入れて下げ、家に帰ってソファにドサリと座って夜中まで黙々と飲みたい気分でもなかった。騒がしいところで一人になり、透明人間のように誰でもなくなって、心だけしばし、静かになりたかった。


 ところが隣の男が、気になる。漬物ともろきゅうを交換したきり、後はお互い何も言わないが、不快でもなく、くだけた空気がそこに漂っていた。


 しかし話しかけるきっかけもない。あと一杯で帰ろうと、手元のジョッキにはまだ半分くらいビールが残っていたが、注文してしまおうと思った。


 カウンターの中に向かって手を上げかけると、隣の男がチラリとこっちを見た。漬物が全く減っていないが、私はもう、食べられない。顔にそう書いていたのだろうか、隣の男は「いや、そうじゃないよ」と突然、言った。私はちょっと驚いて、ビールを注文し損ねた。

「ちょっと聞いてほしくてさ。酒のついでだから、付き合ってくれよ」

 面倒くさいことになったかもしれないと思った。


 男は、自分は一度神になったと言った。私は「やっぱり面倒くさいことになった」と思った。相手の目を見ずにうなずくだけでこの時間をやり過ごそうと決めた。「一度」という言葉が少し引っかかった。

「神になろうと思ったわけじゃない」

男は言った。選ばれたとでも?と、私は心の中で軽口をきく。

「天国に行こうと思ったんだ。よくある話で。地獄は嫌だろう?誰だって」

私はうなずく。

「だからいいことをたくさんした。人を手助けしたり、勇気づけたり、寄付をしたり、話を聞いてあげたり。徳を積んだってことさ」

私はまたうなずく。

「怒ることもしなかった。我慢するか、譲るべきじゃないときは一生懸命説明して、むきにならず、相手の意見に折れることもあったし、それで満足した。別にそれで悪いことは起こらなかった。幸運だっただけかもしれないけど」

「最後はいい人生だったなと思って、笑顔でこの世を去れると思ったよ」

私はつい顔を上げた。何?

「まあそうだったんだけど。ああ多分天国に行けると思ったら、徳をたくさん積んだから、神様にしてやるって言われたんだよ」

誰に?と私は心の中だけで思う。宗教関連の勧誘か?つい、話に引き込まれそうになったところで、私は身構える。

「悪い話じゃない。そうかと思って、いいねと言ったんだ」

男はここでもう一つビールを注文した。私も忘れていたビールを思い出して頼んだ。

「それでだんだん神様になりかけたんだけど、まだこっちの世界がまだよく見えたんだよ」

男の分のビールが運ばれてきた。

「困っている人や泣いている人が見えて、俺はなんとかしてやろうという気になったんだ。俺はずっとそうやってきたからね。神様なら尚更、そういう人になんでもしてやれるだろう。でも、違ったんだよ」

私のビールが来た。

「神様は徳を積みきったから神様になれるのであって、もう何もしなくていい、する必要がない、むしろ何もしてはならない、だと。いいことをたくさんしたから偉いってだけなんだ。後はじっとして尊敬されるだけ。ほかの人はそれぞれ自分で自分をなんとかしなくちゃいけない、自分の徳は自分で積まなきゃならないってさ」

私は隣の男の顔を初めて見た。前を向いた男の横顔が見える。酔っ払っているのか、瞼が少し下がっている。今まで気が付かなかったがタバコを吸っていた。

「徳を積みきった奴はもう楽しいことだけ、愉快なことだけってわけだ。それが天国だって。俺はなんだかそんなの嫌だなと思って、やっぱり神様にはならなくていいって言ったんだ」

私はいつの間にか、身体を男に向けてビールを飲んでいた。

「そしたらこっちの世界に戻ってきてた。向こうの酒は信じられないくらい美味かったかもしれないけど、忘れちゃったし、まあいいやって思って」

男は自分のジョッキを持って、こっちに軽く掲げてみせた。

「地獄もあるし悪魔もいるけどさ、ここには」

居酒屋のうるささはいつの間にか私の耳から遠ざかっていた。

「いつかまた神様になれって言われるかもしれないけど。それとももう言われないのかな」

いつの間にか私は男の顔をじっと見つめていた。

「でも今はいいや」


男はもう前を向いていて、鼻歌を歌い出しそうに笑っていた。私は聞きたいことが山ほど浮かんできたけれど、やめた。運ばれてきたきり、口を付けずにいたビールを思い出して、口をつけようとして、ハッとして、ジョッキを男に掲げて見せた。

 男も笑って、自分のビールを飲んで、漬物をかじって目を見開き、慌ててもう一度、ジョッキをあおった。


 後は二人とも何となく飲んで、それぞれ店を出て、それきりだ。


 漬物は残していたと思う。

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