先輩で同期で後輩の愛桜ちゃん
上ノ空
第1話 後輩の愛桜ちゃん
多くの場合、先輩・後輩間の上下関係は不可逆である。
言うまでもなく、その関係性は僕と
例を挙げると、学校において学年の差が絶対的であることは言うまでもない。
具体的には、僕の隣の席だった女の子は、物理的に一番近くの僕や同じクラスの男子生徒には目もくれず、遠くの先輩を追いかけることに精を出していた。
この絶対的な差の前では、地の利というアドバンテージを活かすことすらかなわなかったのである。
かといって、いざ進級したとしても、可愛らしい後輩と付き合うことができるわけでもなかった。
やはり、学年を盾に交際を迫るような、卑劣なコミュニケーションは僕の信条に反する。そういうことにしておきたい。
ただ、歳を重ねるにつれ、例えば会社において、この先輩・後輩の関係が多少なりとも崩れてくるケースはあるかもしれない。
特に、年功序列制度が骨抜きにされつつある近年においては、能力の高い人が上に立っていくのだろう。
だが、若くして出世した人材の多くが、年上の部下との接し方に頭を悩ませていることからも分かるように、生まれた時から定義された年齢という明確な基準は、社会に出た後もぼんやりと付きまとってくる。
まあ、少なくとも、その努力や能力しだいで埋められる差を、埋める気概もない僕にとってはこの関係性は不可逆だったはずだった。
*
「えー、この四月から、御社に入社いたしました。
渋谷駅から徒歩五分のところにある居酒屋へ遅れて入ると、開口一番、愛桜はニヤニヤしながら、ネイビーの新品の名刺入れから名刺を取り出して言った。
ベージュのニットワンピースに、レザー生地の細いベルトとブーツを合わせた大人びた服装と、いたずらを仕掛ける子どものような表情が、実に対象的である。
僕は面食らいつつも、社会人としての本能によってなんとか言葉を捻り出した。
「え、マジで? ……あ、頂戴いたします」
「うん。残念ながらマジ。というわけで、
まったくもって、敬意が感じられないご挨拶である。
だが、差し出された名刺には、確かに太字の明朝体で弊社の社名が記入されていた。
本来、長々と書かれるはずの部署名は空白で、ビジネスマナーの研修用として新入社員に数枚配られるもののようだ。
名刺の裏側には、弊社マスコットキャラクター『インテリアザラシさん』が、片眼鏡に手を当てているポーズで印刷されていた。
知性の欠片も無さそうなふざけた名前をしているくせに、見た目だけはやたらに賢そうである。
僕たちの勤める会社は、大手か中堅の間くらいのインテリア・日用品のメーカーだ。
業界の中ではそこそこ有名なブランドを保有しており、雑貨屋や家具屋にいけば、必ず一つは商品が置いてある程度の知名度を誇る。
とりあえず、僕も会社用スマートフォンのケースの裏ポケットに入っていた名刺を取り出し、愛桜に手渡した。
もちろん、僕の名刺にも『インテリアザラシさん』は印刷されており、何かを思慮深いことを考えているようで、何も考えていなそうな瞳でこちらを見つめている。
どうやら、愛桜は本当に僕と同じ会社に入ってきたらしい。
大学を卒業してから二年目の春。スギ花粉が猛威を振るうなか、お世話になった大学時代の教授が異動すると連絡があり、感謝を込めて食事会が開かれる運びとなった。
その食事会の前に、同じゼミだった愛桜と飲む約束をしていたが、この事実を伝えるためにわざわざ呼び出されたようだ。
愛桜は、髪の先っぽを指でくるくると巻きながら、僕の反応をうかがうように言った。
「就活終わったから髪染め直したの。新卒でこの髪色でも大丈夫かな?」
「うちなら大丈夫なはず。先輩に髪色がピンクだった人とかいるし」
「そうなの? ギャルいるじゃん」
「見た目は完全に陽キャだけど、いい先輩だよ。……その髪は、何色なんだ?」
「ミルクティーベージュって色! さすが先輩、頼りになるう」
愛桜は、世代としては僕より一歳上だが、この春で進学先の大学院を卒業したので、就職する時は僕の一歳下の代になる。
それが、このややこしい状況を生み出していた。
「それで、与一的にはこの髪色はどうなの?」
「あー、良いんじゃないの?」
「適当すぎる。もっと褒め崇めたてまつれ!」
「てか正直、前の茶色との違いが分からんわ」
「なんてことを言うの! 普通の茶色より三千円高かったのに……」
目の前で、怒った風の演技をしている愛桜が調子に乗るので言わないが、正直よく似合っていると思う。
少し前のトレンド(?)らしい色に染め、およそ肩まで伸ばされた髪をなびかせる愛桜は、色素の薄いブラウンの瞳も相まって、どことなく透明感がある。
実は、大学のミスコンに誘われたこともあるらしい。
本人は、インカレサークルの活動が忙しいと断っていたが。
そのまま褒めるのは何となく癪なので、僕は少し冗談めかせて感想を言った。
「大変よくお似合いですお嬢様。まるで……ルマ〇ドの妖精みたい」
「だれがバターの香ばしさとサクサク食感の食べこぼしフェアリーよ! あ、でもなんか、食べたくなってきたかも。すみませーん、ル〇ンド1つ!」
「いや、居酒屋にあるわけないだろ!」
愛桜の神秘的なイメージは一瞬で霧散した。
なお、本人は事あるごとに、「クールビューティー(笑)」を目指していると公言している。
黙っていれば清楚系としてやっていけるのにな、と思っているのは、本人には内緒である。
店員さんが運んできてくれた、鶏軟骨のから揚げをつまんでいると、おもむろに愛桜がため息をついた。
「はぁー。ついに社会に出る時が来てしまった」
「社会には、夢と希望が溢れているよ! さあ、子どもたちの笑顔のため、一緒に豊かな社会を作っていこう!」
「うわ、うざすぎる……」
僕は、とっても素敵な現実から目をそらすかのように、今日一番に明るい笑顔を浮かべて言った。
もちろん、愛桜はずっと怪訝な顔をしている。
「ちなみに、実際、残業時間ってどうなの?」
「まあ、そこまで多くは無いのかもなとは思いつつ……」
「ねえ。人事の方は、どんなに多くても月に十時間って言ってたけど?」
「ハハッ! (裏声)」
「ははっ、地味に似てる」
とっさに夢の国に喧嘩を売ったことで、なんとか追求の回避に成功した。
数年前では考えられなかったことだが、もうあのネズミとその仲間たちを守る法律は無いのだ。
ちなみに、著作権が切れたのは初代(白い手袋を付けていないファッション)だけなので、注意が必要である。
こんな風にくだらない話をしながら、ピンクのネオン管で彩られた店内で料理とお酒を楽しんでいると、あっという間に時間が過ぎていく。
「やばい、そろそろ時間だから行かないと。ねえ、せんぱーい、奢ってくださいよぉー」
「調子いいときだけ後輩面しないでもらえるかな」
結局、就職祝いということで、僕が千円多く払わせられた。
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