魔王、攫います

はむばね

第1話

 人類は危機に瀕していた。


 世界の果て、魔界と呼ばれる土地に住んでいた者たちが人類の土地へと侵攻を開始したからだ。


 人類よりも遥かに強靭な身体と強大な魔力を持つ彼ら──魔族は、瞬く間にその支配域を広げていった。

 結果、侵攻が開始されて数年で人類の地図に記載される領土は半分にまで減少することとなる。


 しかしやがて、そんな魔族の隆盛にも影が差し始めた。


「終わりだ、魔王」


 たった一人の男が、ほとんど独力で人類の版図を押し戻すという奇跡を成し遂げたから。

 人類の希望を背負った彼は、いつしか人々から『勇者』と呼ばれるようになる。


 そして彼は、幾多の苦難を乗り越え辿り着いた。


「そうだな、勇者よ」


 人間界への侵攻を指揮し、魔族の中で最も強い者。

 魔族の王、『魔王』の元へ。


 勇者の活躍により既に魔王軍は半ば壊滅状態にあり、トップである魔王を倒せば最早人間界を攻める力も残らないだろう。


 二人の戦いは、既に一昼夜続いていた。

 お互い、限界に近い。


 恐らく、次の一撃で勝負は決まるだろう。


「終わりにしよう」


 魔王の言葉を合図としたかのように、勇者は剣を手にして駆けた。


 勇者の剣が魔王を貫き。


 その日、人類は魔族の脅威から解放された。



   ◆   ◆   ◆



 勇者と魔王の決着から、およそ一月が経過しようとしていた。


 現在、魔王は幽閉されている。


 人間界一の大国、スタディオ王国王都の地下牢。

 その身体は魔法具によって幾重にも拘束され、魔法どころか身動きすらままならない。


 かつては獅子の鬣のように輝いていた金髪は、今は汚れてくすんでいる。

 顔にも埃や汚れが数多く貼り付いていたが、しかしそれでも高貴な生まれを象徴するかのような美しさは変わらない。


 憂いに満ちたその表情を見れば、世の多くの者は見惚れて溜息を吐くことだろう。

 『魔王』という語感から多くの人類が想像した姿とはかなり異なる、比較的小柄な十代後半くらいの女性である。


 少なくとも見た目に、人類と異なる点は見当たらなかった。


 地下牢の中でも最も奥に位置するこのフロアに、魔王以外収容されている者はいない。

 フロアごと強力な結界に包まれており、その代わりに常駐の看守さえもいなかった。


 ゆえに、このフロアに存在するのは正真正銘魔王ただ一人だけ。

 魔王自身の呼吸の音がやけに大きく聞こえる程の静けさに包まれている。


 コツン。


 と、その静寂を切り裂く足音が現れた。


 コツン、コツン。


 徐々に近づいてくる。


「いよっ」


 そして、足音の主がその姿を現した。


 黒髪の青年だ。


 年の頃は、魔王と同じくらいだろう。

 魔族の年齢が人族と同程度に見た目へと反映されるのであれば、という前提は無論付くが。


 人懐っこい笑みを浮かべる顔には、まだどこか少年のあどけなさが残っている。

 少し釣り眼気味の活発そうな顔立ち、長身のたくましい体躯。


 魔王を打ち倒した勇者、その人に間違いなかった。


 魔王に向かって上げた右手を、ヒラヒラと振っている。


「……私を、笑いにでも来たか?」


 どこか胡乱な目で勇者を見て、魔王は掠れる声でそう言った。


「そうして欲しかったらするけど、どうする?」


 勇者はイタズラっぽく口の端を持ち上げる。


「好きにすればいいだろう。魔界では勝者が絶対だ」


「そ? じゃ、ちょっと笑ってみるわ」


 コホン、と勇者は一つ咳払い。


「あはははははははは!」


 魔王を指差して笑い始めた。


「ひゃははははははは!」


 笑う。


「でひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 薄暗い牢内に、バカでかく響く笑い声。


「うははははははは!」


「……」


 笑い続ける勇者を、魔王は視線も逸らさずジッと見ていた。


「……楽しいか?」


「いや別に」


 魔王の問いに、勇者は真顔に戻って答える。


「まぁ、元気そうで何よりだよ」


「この姿が元気そうに見えるなら、目か頭を治療術師に診てもらった方がいいだろうな」


 全身を拘束された魔王は、唯一自由に動かせる顔に皮肉げな笑みを浮かべた。


「実際、そんな軽口が叩けるなら大丈夫っしょ。これで、結構心配してたんだぜ?」


 一方の勇者は柔らかく笑う。


 その表情を一瞬呆けたように見つめ、しかし魔王は再び皮肉げな笑みを戻した。


「面白い冗談だ」


「だろ?」


 勇者も冗談めかして笑った。


「………………」


「………………」


 しばし無言で視線を交わしあう。


「さて」


 勇者が踵を返す。


「また来るわ」


 右手をヒラヒラと振って、勇者はコツンコツンと足音を立てて遠ざかっていく。


 その背中を、魔王はジッと見つめていた。

 いや、それは単に目がそちらを向いていただけと表現した方がいいのかもしれない。


 魔王の目には憎しみも怒りも、悲しみも喜びも不安も何も無く。


 ただ虚ろな瞳に、勇者の背中が映し出されていた。



   ◆   ◆   ◆



 自らの言葉通り、勇者は翌日もまた魔王の前に姿を現した。


「やぁ」


 前日と同じく、気安げに右手を上げる。


 こちらも前日と同じく、魔王は無言で勇者を迎えた。


「……ん?」


 ふと、勇者が眉をひそめる。


「なんか、顔の傷が増えてね?」


 そして、鉄格子越しに魔王の顔をジッと見つめた。


「……気のせいだろう?」


 勇者に視線を返す魔王は、完全な無表情だ。


「いーや、間違いないね。目を閉じれば、昨日の君の顔を鮮明に思い出すことが出来る」


 目を閉じた勇者は、一人何度も頷いている。


「転んだだけだ」


 勇者から視線を外さない魔王は、やはり無表情。


「面白い事言うね、君」


 クスリと勇者が笑った。


 魔王の身体は、座った状態で壁に固定されている。

 どうやっても転びようはない。


「天下の魔王様としては、たかが人間の看守ごときに傷を増やされたとあっちゃプライドが許さないかい?」


 常勤の看守がいないとはいえ、この牢に全く誰も訪れないわけではない。


 結界と拘束具のチェックや、食事を運ぶ――魔王は全身を拘束されているため、食べさせる必要もある――役割が存在するのだ。

 現在の魔王が自らを傷付けることが不可能である以上、それが出来る者は看守以外に存在しない。


 推理にすらならない、単なる事実だ。


「……別に、そういうわけではないが」


 魔王の返事は、遠回しに犯人を肯定するものだった。


「お前相手に、素直に教えるのが癪だっただけだ」


「そりゃ嫌われたもんだ」


 勇者は大げさに肩をすくめ、わざとらしく悲しげな表情を形作った。


「しかし、看守の人も勇気あるねぇ」


 それから、すぐに人懐っこい笑みに戻る。


「いくら拘束されているとはいえ、ここら一帯くらい一瞬で蒸発させられるような力の持ち主相手にさ」


「それだけ私のことが憎かったのだろうさ」


 変わらない魔王の表情から、その心情を読み取ることは出来ない。


「まぁ、そりゃあそうだろうね」


 勇者の方は、少なくとも表面上は笑顔。


「この国は、割と最前線で戦ってたからね。君たちから受けた被害も大きい。看守さんも、家族でも殺されたのかな?」


 悲観的になるでもなく、勇者は変わらぬ調子で言う。


「いわば君は全ての元凶だ。人間の中じゃ、恨んでない人の方が少ないさ」


「お前を含めて、だろう?」


 本日初めて、魔王の表情が変わった。

 前日と同じく、皮肉げな笑み。


「さあ、どうでしょう?」


 イタズラっぽく笑って、勇者は踵を返した。


「また来るよ」


 こちらも前日と同じ言葉を残して、牢を去っていく。


 見送る魔王の目も、また前日と同じものだった。



   ◆   ◆   ◆



「よいっすー」


 三日目ともなれば、慣れたものという感じである。

 いつも通り、勇者は魔王の前で右手を上げた。


「……担当の看守が変わった」


 勇者が何か言う前に、魔王が口を開く。


「そうなんだ? 魔王様にビビって、転属願いでも出したのかな?」


 素知らぬ顔で、勇者は笑っている。


「今度の担当は、気の弱そうな男だ」


「へー」


「恐らく、私の顔を蹴ったり出来るような男ではないだろうな」


「ほー」


「図ったかのように。そうは思わないか?」


「さぁ?」


 笑ったまま変化を見せぬ勇者の顔を、魔王はジッと見つめる。


「……勇者よ」


 ふと、魔王の声のトーンが少し変わった。


 目に、僅かながら感情の色が揺れる。


「なんだい?」


 勇者は首をかしげた。


「お前、少し変わったか?」


 漠然とした問いに、勇者は微笑みを深めた。


「別に、俺は元からこんな感じだよ?」


「そうだろうか? 私と対峙していた時のお前とは、ずいぶんと違った印象を受けるが」


「そこはほら、魔王に見せてたのは営業用の顔だから」


 ウインクを一つ挟んだ後、勇者は表情を引き締めた。


「終わりだ、魔王!」


 至極真面目、精悍な顔付きで勇者は語気鋭く言い放つ。


 まさに、魔王と対峙していた時の顔。


「なんて、いつもそんな風に気張ってるわけないじゃない?」


 それが。一瞬でふにゃんとゆるむ。


「ふ……」


 魔王が、笑った。


「なるほど、それはそうだ」


 皮肉げなものではない、ただの純粋な笑み。

 埃と泥に塗れていても、笑えばその美しさが際立つ。


「お……」


 勇者が片眉を上げた。


「君のちゃんと笑った顔、初めて見たよ」


「ん、そうだったか?」


 魔王は、僅かに首をかしげて考える仕草。


 しかし、すぐに首の傾きを戻す。


「そうか……まぁ、そうだろうな」


 笑みが深まった。


「あの時は、とても笑える状況ではなかったからな」


「はは、そりゃそうだ」


 勇者も笑う。


「まぁ、私にとっては今の方が笑えない状況だがな」


「ご尤も」


 地下深くの牢で処刑を待つ魔王と、その状況を作り出した勇者。


 全く以て笑えないはずの組み合わせで、二人はおかしそうに笑い合った。



   ◆   ◆   ◆



「ちわっす」


 翌日もやはり、勇者は地下牢に顔を出す。


「あぁ」


 四日目にして初めて、魔王が挨拶を返した。

 と言っても、僅かに頷き返しただけに過ぎないが。


 一瞬意外そうな表情を浮かべた勇者だが、特に言及まではしない。


「調子はどうだい?」


「いつも通りだ」


 前日までに比べて、二人の間に流れる空気は幾分軽かった。


 魔王の表情も――よく観察しなければわからない程度にではあるが――柔らく見える。


「そんなものを持ってきて、どうするつもりだ?」


 勇者が手に持ったもの――木桶と、そこに満たされた水に浸かった布――を見て、魔王が問うた。


「ずっと風呂入ってないっしょ? せめて体でも拭いてあげようと思ってね」


 張った水がこぼれないよう慎重に洗面器を左手に抱え、勇者は右手を牢の錠にかざす。


「――――――――」


 口の中で小さく何事かを呟くと、カチャリと錠の開く音が鳴った。

 魔力によって施錠された錠は、対応する呪文でのみ開く。


「拭くと言ってもな……」


 勇者が牢の中に入ってくるのを視界の端で捉えながら、魔王は自身の体を見下ろした。


 魔具で雁字搦めに拘束され、顔以外に肌の露出している部分など存在しない。


「うん、だから」


 その魔具に、勇者は手をかける。


「ほいっと」


 そして、躊躇なく外した。


「……は?」


 手際良く次々魔具が外されていく様を、魔王はしばらくポカンと見つめる。


「ちょ、ちょっと待て」


「なにー?」


 返事をしながらも、勇者は手を止めない。


「いいのか、外してしまって……」


「大丈夫大丈夫、後で戻しときゃバレないし」


「つまり無許可なのか!?」


「はは、こんなの許可出るわけないっしょー?」


「そ、それはそうだろうが……」


 鼻歌まじりに拘束を解いていく勇者の前で、魔王の頬につつと一筋の汗が流れた。


「私がお前に攻撃を仕掛けたら、どうするつもりなのだ……?」


「そんときゃ、ちゃんと迎撃してもっかい倒すよ」


 さらっと言った勇者に、魔王の口元がピクリと動く。


 次いでその唇が大きく横に開き、獰猛な笑みを形作った。


「私も舐められたものだな。もう一度倒せるか、試してみるか?」


「別にいいけどね。倒せるから」


 初めて、勇者の手が止まる。


「俺と戦った直後からここに幽閉されて消耗しきってる君と、万全とは言わないまでもそれなりに回復した俺。本当に結果が見えないと?」


 そして、挑発するように笑った。


 二人の視線が、触れそうなほどの至近距離で交差する。


「……フッ」


 数秒の後、魔王が笑みを穏やかなものに変えた。


「まぁ、それはそうだな」


 元より、双方本気でないことはわかり合っている。


 本当にやる気ならば、口よりも先に手を出すべきだ。


「それに……」


 しかし勇者の目に、ここに来て少し真剣味が宿る。


「それに君は、あの時……」


「……?」


 まっすぐ射抜く視線を受けて、魔王は困惑した表情を浮かべた。


 妙に空気が張り詰める。


「……まぁ、いいや」


 勇者の溜め息とともに、緊迫した空気は霧散した。


「何か、言いたいことがあるのではなかったのか?」


「まぁねー。気が向いたら、そのうち言うよ」


「……そうか」


 魔具を外す手を再開させた勇者に、魔王もそれ以上は言及しなかった。


「しっかし、いくらなんでもここまで厳重にしなくてもいいんじゃないかな―。ま、これ作ったのは俺なんだけど」


 呟きながら作業する勇者はもういつもの雰囲気だが、魔王の表情には少しわだかまりが残っているように見える。


「よし、ようやく完了っと」


 額の汗を拭う仕草と共に、勇者が軽く息を吐く。


 すっかり拘束具から解放され、今や普通の囚人服姿となった魔王を拘束するのは後ろ手に掛けられた錠のみだ。

 外した魔具は数十に及び、床を埋めつくさんばかりにそこらじゅうに散らばっていた。


「よくこれだけの量を、こんな短時間で外したな……」


 感心したような、半ば呆れたような様子で魔王は床に転がる魔具へと目を向ける。

 物理的・魔術的、双方の意味で非常に複雑なものが多く、ただ外すだけでも相当な技量が要求されるものばかりであるはずだ。


「ふふ、これでも結構器用でね」


 得意気に言って、勇者は胸を張る。


「さて、それじゃ」


 次いで水に浸していた布を絞り、魔王の顔を拭った。


 汚れが落ち、ますますその美しさが顕になっていく。

 魔王も、どこかすっきりとした表情だ。


「んじゃ、次ねー」


 そして、勇者は魔王の囚人服をベロンとめくった。


「!?」


 驚いた魔王が、大きくのけぞる。


 両手がまだ拘束されているとはいえ、動ける範囲は先ほどまでと比べ物にならない。

 服から勇者の手が外れ、一瞬見えた魔王の肌は再び隠された。


「? なに?」


 勇者は不思議そうに首をかしげる。


「な、なにはこっちのセリフだ! いきなり何をする!」


 顔を赤くして、魔王は勇者から距離をとるため体をよじった。


 尤も、手錠が壁に繋がっているためにそう離れることはできなかったが。


「いや、だってそうしないと体拭けないっしょ?」


「どうせなら手錠も外してくれればいいだろう。そうすれば自分で出来る」


「はは、そんなことして逃げられたら困るじゃん」


 笑って、勇者は布を持っていない方の手を愉快そうに振る。


「いっそ清々しい程に言動が矛盾しているな……」


「まぁ、そんなわけなので」


 距離を詰め、勇者は再び魔王の囚人服をめくった。


 線の細い肢体が晒される。


 とはいっても軽く服を持ち上げただけなので、腹部が顕になった程度ではあるが。


「へー、きれいな体だね」


 幽閉生活で、もちろん汚れはある。

 しかしその程度、魔王が本来持つ美しさを阻害するには至らなかった。


 少し拭ってやれば、すぐさま最高級の陶器のような輝きを取り戻すであろうことは容易に想像できる。


「へ、変なことを言うな」


 ますます赤くなった顔を、魔王はプイとそむけた。


 だから魔王は、それを見て笑った勇者の顔に少し嗜虐的な色が混じるのを確認できなかった。


「別に、見たままの感想を言っただけだけど」


 勇者は、一旦水で洗い直した布を魔王の腹部に当てる。


「ひぅ」


 その冷たさから、魔王の口からそんな声が漏れた。


「そんなかわいい声出したら、なんだかいけないことをしているみたいじゃないか」


 クスクス笑いながら、勇者は布をすべらせる。

 ゾクリと、一瞬魔王の肌が粟立った。


「お前こそ、何か変な拭き方をしていないか……?」


「普通だって」


 優しく撫でるように、勇者は魔王の肌をぬぐっていく。


 腹、首、肩、腕、背中と順番に。


 あくまでも、服装によっては普通に露出するような部分だけだ。

 それでも勇者が触れるたび、魔王の口からは小さく声が漏れていた。


「よし、こんなもんかな」


 しばらくそうしてから満足気に言って、勇者は布を水につけた。

 水をくぐらせ、布の汚れを落とす。


「そ、そうか。終わったか」


 くたっとした様子で、魔王は壁に背を預けていた。

 顔の赤みがまた一段と増している。


「うん、上はね」


 布を絞りながら、なんでもないことのように勇者は言った。


「……は?」


 言葉の意味が理解できず、魔王はポカンとした表情で固まる。


 その隙に、勇者は囚人服のズボンに手をかけた。


「おい……!?」


 魔王が抵抗する前に、一気に引き下ろ……す直前で、勇者は手を止めた。


「……ぷっ」


 慌てて勇者の手から逃れようとしている魔王を見て吹き出す。


「はは、冗談冗談。さすがにそんなことまでしないって」


「き、貴様……」


 ギリと奥歯をかみしめ、魔王は勇者を睨みつけた。

 魔王の睨みとあって場面が場面ならば大いなる恐怖を呼ぶのだろうが、真っ赤になった顔では残念ながら効果は薄い。


「いやー、普段はクールぶってる君のあんな可愛く慌てる姿を見られるとはね。眼福眼福」


「殺す……!」


 魔王の目には、半ば本気の殺意が宿っていた。

 決着をつけた際の戦いでさえ、ここまでの殺気はなかったかもしれない。


「ま、他のとこはさすがに自分でやってね。あ、それとも……」


 勇者は魔王に顔を近づけた。


「本当は、そっちまで俺にしてほしかった?」


 触れそうな距離で、挑発的に笑う。


「……バカを言うな」


 顔を背け、小さく反論した魔王の声は少し震えていた。


 それを見ながら楽しそうに笑い、勇者は魔王の後ろに手を回す。


「――――――――」


 呪文を唱えた。


 カチャン、魔王の手錠が外れる。


 それを確認して、勇者は立ち上がった。


「勇者よ……」


 自由になった手を前に回し、調子を確かめながら魔王は苦笑いを浮かべた。


「本当に、言動が矛盾しているな」


「ん? どっか矛盾してたっけ?」


 心底不思議です、といった顔で勇者が首を傾げる。


「私が逃げないように、手だけは拘束しておくのではなかったのか?」


「うん。だから、今度は逃げられるよう外したわけ。どこも矛盾してないっしょ?」


 なんでもないことのように、さらっと言う勇者。


「……?」


 あまりに軽い言動に、意味がわからず魔王は疑問符を浮かべた。


「どういう意味だ? 身体を拭けるよう、拘束を外したのでは……」


「うん、言い方が悪かったなら変えよう」


 深刻さの欠片もなく。


「これから、脱獄するよ」


 あくまで、勇者の調子は軽いままだった。


「……はぁ!?」


 魔王は、驚きと困惑に表情を歪める。


「本気か……?」


「もちろん」


 笑って、調子は軽いまま。


 しかし、彼が本気であることはその目を見た魔王にも伝わった様子である。


「一体、何のために?」


 魔王の視線に鋭さが宿る。

 隙のない、多くの同胞の運命を抱えてきた者の瞳。


「んー、まぁなんというか」


 言葉を探すように、勇者はガリガリと頭を掻いた。


「魔王、君さ」


 しばらくそうした後に魔王を見た目は、かつて魔王と対峙した勇者のものだった。


「俺との最後の戦い、手ぇ抜いたでしょ?」


「……さて、どうだったかな」


 表情には余裕を。

 しかし目に油断はなく、魔王は肩をすくめる。


「仮にそうだったとして、まさかそれが理由だとでも?」


「いけないかな?」


 勇者もまた、魔王と似たような顔つきだった。


「だから、改めて決着をつけるために脱獄させると? お前がそんな戦闘狂だったとは知らなかったよ」


「俺ら、お互いで知ってることの方が少ないっしょ?」


「はっ、それはそうだ」


 不敵に笑い合う。


「一応、言っておくけど」


 勇者が僅かに体を動かした。

 ほんの少しの変化だが、見る者が見ればわかる。


 戦闘態勢への移行だ。


「俺は、君を無理矢理にでも脱獄させる。いざとなれば、ここでやり合ってでもね」


 空気感は変わらぬまま、手が差し出される。


「でも、できれば同意して来てほしいな。その方が手間が省ける」


「……ふん」


 その手を見て、魔王は鼻を鳴らした。


「脱獄を強要されるとは、聞いたこともない話だ。それも、私を牢にぶち込んだ本人からとはな」


 二人の間に流れる空気は張り詰めている。


「だがまぁ」


 ふっと、それが緩んだ。


「先程お前が言った通り、今の私ではお前に逆らうことは出来まいよ」


 不満げではある。


 あるが。


「脱獄でもなんでも、好きにすればいい」


 かつて、剣を交えた勇者と魔王。


 二人は今度、握手を交わし合ったのだった。



   ◆   ◆   ◆



「さて、それじゃあ魔王……って」


 手をほどき、歩き出しかけた勇者がふと思いついたように。


「この先、『魔王』って呼び続けるのもマズいか。まさか、それが本名じゃないよね?」


「ああ、そういえば名乗り合ったこともなかったか」


 魔王は皮肉げに笑う。


 敵対するならば、互いの呼び名など『魔王』『勇者』で十分だ。


「私はラナリス。ラナリス・キックスだ」


「俺は、スナフ・コールタット」


 互いに名乗り合う。


「そうか。ならばスナフよ、最後に一ついいだろうか?」


「どうぞ? ラナリス」


 表情を改めたラナリスに、スナフは小さく首を傾けた。


「お前は今日、最初から私を脱獄させるために来たのだな? 先程唐突に思いついた、というわけではなく」


「うん」


「私の拘束具を外したのも、そのためであると?」


「もちろん」


「……ならば」


 素直に頷いていくスナフに、ラナリスの声が少し低くなった。


「わざわざ手を拘束したまま私の上半身を拭いたのにも、当然何か意味があったのだな?」


「いや、そこは趣味」


 即答。


 パシンという頬を叩く音が、その牢内に響いた最後の音となった。






―――――――――――――――――――――

本作を読んでいただきまして、誠にありがとうございます。

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