手
宝力黎
手
行き合わせただけだ。私は何も悪いことなんかしていない。なのになぜこんな目に遭わなきゃいけないの?なぜ、こんな目に――。
アルバイトの帰り道は駅前通りから旧街区へむかう緩やかな坂だ。歩道橋や車列の明かりを背に上がっていく。マンションは坂の上だ。
「残業の割り増しに釣られた私も悪いけど」
十一月の夕方六時はすっかり暗い。前にも後ろにも人の姿が無い。家々には明かりもあるが、素知らぬ顔だ。
「おっかね……」
呟いて上がって行くと、脇道から女の子が現れた。バッグを背負い、スマホを見ている。ミニが似合う可愛い子だ。私はその子の十メートルくらい後ろを歩いている。そのクルマに気づいたのは、多分私が先だ。スマホを見ている彼女は気づいていない。その証拠に、あわやぶつかる手前で彼女は驚いている。驚いたのは私も同じだった。数人の男たちがクルマから現れ、数秒で彼女をクルマに押し込んでしまったのだから。
「いくぞ!」
「早く乗れ!」
小声でそう言い合っている。そしてクルマは私の横をすり抜けようとした。そのとき、開いていた窓から細い手首が伸びた。彼女のものだとすぐに判った。掴めば掴めた。そうかも知れないが、そうはしなかった。恐ろしかったから。
手は引き戻され、クルマはすごい勢いで去って行った。あとに残ったのは最初同様の静寂と私だけだ。何もなかったかのように、風も群雲も時も流れていた。
どうするか迷った。知り合いかも知れないじゃ無いか――とさえ思った。知り合いが友達をクルマに押し込むだろうか。友達は車外の他人に手を伸ばして救いを求めるだろうか。それでも私は通報すらしなかった。理由は、怖かったから。
その日は勿論、それから数日はニュースが気になって仕方が無かった。けれど《そうした事件》は報道されなかった。私は安心した。そうだ、大した話では無かったのだと。忘れていいのだと思った。
でも、そうではなかった。異変は、あの坂のことから一週間ほど経った頃からはじまった。
はじめに見たときは身動きどころか呼吸まで止まりかけた。マンションの玄関ドアから室内に向かって手が突き出ていたのだ。肘は見えない。その手はホッソリとしていた。渇いた口には唾も無い。それでも何かを飲み込んで瞬きをした。次の瞬間には手は消えてなくなっていた。
恐ろしさで震えが止まらない私は友達に連絡をして来てもらおうと考えた。だが、テーブルに置いたスマホを見たとき、背筋が冷たくなった。スマホは手に握られていた。テーブルから突き出たホッソリとした手だ。そのままジッと動かない。取りたくてもスマホを取れない。床に座り込む私は、普通に置かれたままのスマホを見た。手はいつ消えたのか判らない。悲鳴を上げてスマホを手にした。握りしめて部屋を飛び出した私が見たのは、外廊下の地面から突き出た手だ。エレベーターはその先だ。私は手の脇をすり抜けてエレベーターに走った。何が起きているのか判らない。早く逃げ出したい。その思いでボタンを押そうとしたが、下向き矢印のボタンを手が押さえ、隠していた。
「いやあ!」
非常階段に向かった。外に出ると階段を駆け下りた。が、足が止まった。先の階段一段一段に手が突き出ている。ホッソリとした手だ。何本も、何本も、私に向かってうごめいていた。気が遠くなった私は一番近いドアから中へと戻った。廊下を駆け、階段を下り、マンションの外に飛び出すと夜の道を走った。振り返ると坂のアスファルトを手が追ってくるのが見えた。
駅近くの歩道橋を駆け上がったとき、歩道橋の通路から突き出ている手を見た。こちらに近づいてくる。振り返ると中年のサラリーマンが疲れた様子で上がってくるのが見えた。救いを求め、声をかけようとして私は息をのんだ。サラリーマンの胸からも手が突き出ていたのだ。私に向かって、伸ばすように。
私は歩道橋の柵につかまった。何か叫んだ気はするが、大声で駆け寄るサラリーマンの声も聞こえはしない。彼の伸ばした手を、落ちていく私は掴もうとしたのだろうか。下は多くのクルマが行き交っている幹線道路だ。だが、彼の手は私に届かなかった。なぜならば、彼が伸ばそうとする手を、ホッソリとした手が押さえつけていたから。
私は彼の伸ばせない手を見つめながら、絶望の地へと落ちていった。
手 宝力黎 @yamineko_kuro
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