三角形の関係

森本 晃次

第1話 強兵

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年11月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。全作品と、似ているところが多いが、まったkう別の作品となります。


 いつものように、バスを降りると、家路を急ぐことになるのだが、急いでいるとしても、足だけが急いでいて、まわりのスピードが遅いので、どうしても、ゆっくりと歩いてしまうのだった。

 このあたりは、ちょっと高級な住宅街というイメージが強く、特に、

「けやき並木」

 と呼ばれる通りは、しゃれたカフェや、ブティックなど、若者から、マダムまで、それも、高級住宅街らしく、店の雰囲気も、街中と違って、落ち着いた佇まいを見せていた。

 このあたりの住宅街は、基本的に、

「閑静な住宅街」

 ということなので、夜になると、ほとんどは、薄暗く、静かなところであるが、この、

「けやき並木」

 の周辺は、静かではあるが、明るさは、それなりに目立っていて、特に奥の方の、少し入った路地のあたりは、裏に、しゃれた飲み屋も多く、少し薄暗い照明が、いい味を醸し出しているのであった。

 これも、春夏秋冬で、その趣も結構違っている。

 春は、

「夜桜シーズン」

 にもなると、花見のために、立ち止まったり、茣蓙を敷いて、酒を呑んだりというような、いわゆる、

「庶民の遊び」

 ということはなく、散りゆく花びらを、グラスで受け止め、それを、

「桜酒」

 として、たしなむという、実に風流な趣になるのであった。

 さらに、夏になると、近所の神社の裏から、花火が上がるのだ。その花火は、神社を鎮守として見た時の、五穀豊穣への

「お祈りと、お礼」

 とを兼ねているものだという。

 正式には、別の日にあるのだが、花火は、あくまでも、

「奉納花火」

 ということで、祝いということになるのである。

 さらに、神社の近くに、

「お地蔵様が立っていて、ここでは、残暑の頃に、地蔵盆ということで、子供たちに、お菓子がふるまわれる」

 というものであった。

 今でいえば、

「ハロウィン」

 とでも言えばいいのだろうが、地蔵盆は、もっと、

「日本人らしい儀式」

 と言ってもいいだろう。

「花火」

 にしても、

「地蔵盆」

 にしても、日本風の祭りなので、あまり

「けやき並木」

 の雰囲気に合っていないかと思われがちだが、実際には、そうでもなく、

「大人は、落ち着いた雰囲気に佇みながら、子供は、自分たちで楽しんでいる」

 と思うと、

「夏祭り」

 というものを、この町独特で味わえるので、ありがたいことであった。

 秋になると、

「いかにも、収穫祭」

 とでもいう感じで、本来なら、この時期が一番賑やかなのかも知れない。

 今でこそ、閑静な住宅街だったのだが、昔は、江戸時代なのでは、

「宿場町」

 として栄え、

「天領として、あくまでも、幕府直轄地だった」

 ということで、徳川幕府の勢いがある時は、結構賑やかだったという。

 ただ、幕府の盛衰を考えると、この町はその盛衰のあおりをまともに食った感じなので、

「賑やかだった時と、衰える一方だった時というのは、その情けなさが、おもむろに醸し出されているのだった」

 と言えるだろう。

 しかし、その周期というのは、数年の間に繰り返すようになった。

 賑やかな時を数年繰り返し、さらに、数年、衰える時を繰り返す。

 これは、享保の改革あたりからの、

「幕府による経済政策が、その時代背景を物語っている」

 つまり、

「緊縮による、贅沢を締め付けるやりかたから、今度は、経済の活性化。さらには、時代が悪いのか、飢饉などが起こるという、天候の不具合であったり、さらには、利根川の堤防で起死回生を狙うと、水害で壊れてしまい、万事休すという時代もあったりした」

 そして、

「また、緊縮政策であるのだ」

 庶民はそれに振り回され、

「武士と商人の関係も、問題であった」

 と言えるだろう。

 幕府の政策によって、世間は引っ掻き回され、数年で、改革はとん挫することになるのであった。

 そんな時代の繰り返しと、この町も、昔はやっていたのだ。

 それが、この町から、一人の政治家が出たことで、町全体が活気にあふれることになったのだ。

 昔は、政治家が出てくるだけで、町はかなり潤った。

 確かに、時代はあまりいい時代だとは言えないが、それでも、政治家が出てくるとなると、話は別で、昔には、

「政治家一人に対して、政府は、裏金として、それらの政治家に渡る金のルートが確立されていた」

 と言ってもいいだろう。

 昔の人は、

「政治家になりたい」

 というよりも、

「軍人になる」

 ということの方が大きかっただろう。

 というのは、大日本帝国というものが、

「政府と軍とで、その組織の成り立ちが違っている」

 というのが、大きなことであった。

 これは、日本独特のものと言ってもいいのだろうが、

「日本国における国家元首は、天皇であり、主権は、天皇にある」

 ということが、憲法で決まっていたのだ。

 ということは、

「大日本帝国というのは、立憲君主国だ」

 ということであった。

 つまりは、

「憲法にのっとり、国家元首として天皇が君臨する国家」

 ということになるのだ。

 そもそも、憲法というのが、

「公法」

 と呼ばれ、

「民法」

「刑法」

 などを私法と呼ぶのかというと、

「私法というのは、国民のための法律であり、憲法などの公法というのは、私法を作る立場にある、三権分立の中にある立法として、法律を制定するという、国会議員に対しての法律が、憲法というものだ」

 ということである。

 だから、

「憲法改正には、国民の総意や国会議員のそれぞれに、改正のための条件というのがあり、それを上回れば、憲法を改正できる」

 というもので、私法のように、

「国会で、国会議員だけで決める」

 ということはできないのだ。

 だから、大日本帝国では、主権が天皇であることで、

「天皇大権」

 であったり、

「統帥権」

 と呼ばれるものが、大きな影響を示し、時として、

「違憲ではないか?」

 として、論争を巻き起こすことが多いのだ。

 特に、

「軍に関しては、統帥権という問題が大きかったりする」

 というのだ、

 大日本帝国の統帥権というのは、

「天皇は、陸海軍を統帥す」

 という条文があるからであった。

 つまり、

「陸海軍は、天皇直轄の部署であり、政府であっても、口出しのできないものだ」

 ということになるのだ。

 だから、総理大臣であっても、戦争責任者であっても、軍の作戦に口を出せないところか、

「国家機密」

 ということで、知ることも許されないのであった。

 そんな

「統帥権」

 というものが、外交において、

「統帥権干犯」

 ということで、大きな問題になることもある。

 あれは、世界的に巻き起こった、

「軍縮問題」

 において、

「ロンドン軍縮会議」

 というものがあったのだが、軍縮政策において、外務大臣が勝手に、署名したことが問題になった・

 軍縮というのは、それだけ、軍においての、

「予算の問題」

 ということで、こちらは、政府にある、陸海軍の大臣や、省庁の決められることではない。

 軍本部ともいえる、

「陸軍であれば、参謀本部」

 そして、

「海軍であれば、軍令部」

 というものの管轄になるからだ。

 この二つが、天皇直轄の組織であり、

「政府が介入してはいけない」

 という組織になるのだ。

 ここでいう、

「参謀本部」

 と、

「軍令部」

 というものが、有事になれば、この二つが軍本部として、

「大本営」

 を形成するということになる。

 もちろん、外務大臣はおろか、首相であっても、介入できないのだ。

 しかも、たとえば、首相が、陸軍出身の首相であっても、

「内閣に入閣した時点で、政府の人間」

 ということで、

「軍の人間ではない」

 ということになるのだ。

 だから、大東亜戦争を始めた時、戦争責任者としては、

「内閣総理大臣」

 である、東条英機のはずなのに、軍の作戦を知ることもできなかった。

 だから、

「ミッドウェイ海戦における大敗」

 というものを、半年以上も知らなかったということになるのであった。

 しかも、日本の軍部には、

「明確な文章はないが、陸軍であれば、参謀総長と、陸軍大臣を兼ねてはいけない」

 ということになっていた。

 これは、

「陸軍の権力を一人が掌握することになり、独裁性が強くなる」

 ということを恐れてのことである。

 今であれば、プロ野球などにおいて、

「監督と、ジェネラルマネージャーを兼任する」

 というのと同じであろう。

 要するに、作戦にかかわるところ、予算から、人事まで、すべてを掌握するということで、特に人事まで掌握させれば、

「やりたい放題になってしまう」

 といえるのではないだろうか?

 東条英機は、天皇に上奏し、両方できるようにしたことで、他の陸軍の幹部から恨みを買い、

「暗殺計画」

 まであったくらいだ。

 しかし、

「戦争責任者としての勤めが果たせない」

 というのも事実であり、しかも、最後には、全責任を押し付けられることになったのは、ある意味、気の毒なところもあったであろう。

 大日本帝国というのは、

「基本的には、海外の法律や、軍政に倣って作られているのに、なぜか、日本独特のものが多い」

 と言えるのではないだろうか?

 これは一つに、そもそもの大日本帝国の憲法や、議会がつくられたのは、

「明治の元勲」

 と呼ばれる人たちによってということである。

 だから、彼らが決めることは、一種の例外事項があっても、それは特権ということで許されるという時代だった。

 だから、日清戦争の時、大本営が、広島に作られたが、その時、大本営の会議に、当時の首相であった、

「伊藤博文」

 あるいは、

「山県有朋」

 などという人たちは、例外として出席を許されたのである。

 言い方は悪いが、

「自分たちで作った法律を、自分たちの勝手な解釈で、特権を認めている」

 ということで、

「法律とは何なんだ?」

 ということになるのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「そもそも、大日本帝国は、明治の元勲がいなくなれば、大丈夫なのだろうか?」

 ということにもなってくるであろう。

 結局、

「軍部の暴走」

 というのを招いたというのも、結局は、この、

「統帥権というものを盾にして、政府に口出しをさせないことで進んできた問題だったのではないだろうか?」

 というのも、

 一番の分岐点は、満州事変ではないだろうか?

 満州事変というのは、かなり軍の高圧があった。

 それは当たり前のことで、そもそも、軍部が起こした、

「自作自演」

 が招いたことであった。

 しかし、だからと言って、

「軍が悪い」

 というわけではない。

 むしろ、

「政府が諸問題をまともに解決できないでいるから、軍部が、国家尾為に動いたのだ」

 ということである。

 満蒙問題というものと、日本国内の人口増加問題というのが、大きな2本の柱としてあったのだが、それを、政府が外交でも背作面でも、何もできないので、

「満州を占領し、そこに、日本人を移住させる」

 ということになったのだ。

 しかし、

「五族協和」

 であったり、

「王道楽土」

 という言葉を使って、いかに、満州を極楽の土地だと宣伝しておいて、開拓者を送り込むというかなり強硬なことをしたのである。

 結局、日本は孤立することになったり、満州事変の趣旨を分からずに、中国進出をたくらむ連中には、満州事変の意味が、分かっていなかったのではないだろうか?

 あくまでも、

「ソ連の抑えとしての、満州を、日本の生命線」

 ということにしているということであった。

 その政治家が出たのは、そんな大日本帝国の時代であり、最初は、どうしても、時代には逆らえず、社会に対して、抗うことができないということもあり、臣民につらく当たったこともあった。

 しかし、それでも、まだ彼はマシな方であり、少しは臣民に寄り添っていたのだ。

 そのせいで、一時期は、

「反政府組織の疑い」

 というものを掛けられたようで、さすがに、

「逮捕までは至らなかった」

 ということのようであったが、その電話などは、当局に傍受されていたようだ。

 これは、軍のやることで、政府には、抗うことのできないことだ。

 それが、当時の「治安維持法というもので、下手をすれば、同じ軍部内の少将や、中将クラスであっても、自宅に電話傍受の仕掛けがされていたりしたものだ。

 当時の国民は、臣民と言われていた。

 これは、国家元首が、天皇ということで、いわゆる日本は、

「立憲君主国」

 であり、そのため、国民は、

「平時には、憲法で定められた自由を有しているのだが、いざ、戦争や災害時には、その自由が一部、規制されることになる」

 ということである。

 そんな状態になる国民のことを、

「臣民」

 というのであるが、

 大日本帝国では、

「それが、当たり前のこと」

 ということで、小さい頃から教育を受けていた。

「日本は神の国で、天皇は、神様として、万世一系の、世界に類を見ない存在として、日本を守っている」

 ということであった。

 この思想が、大日本帝国の骨幹であり、

「国民は、皆天皇の子」

 といってもいいような感じである。

 だから、戦争の時などは、

「天皇猊下のために死ぬのは、親や家族を守って死ぬのと同じであり、誇らしいことなのだ」

 という状態であった。

 だから、特攻隊の人の遺書などには、育ててくれた親への感謝と、

「天皇陛下のために、立派に死ぬことを喜んでほしい」

 ということが、書かれていたりするのである。

 それが、大日本帝国というものであり、天皇主権の国家だったのだ。

 それが、今の平和ボケといってもいい、日本国にはないものとして、

「戒厳令」

 というものがあった。

 これは、いわゆる

「有事」

 と言われる、特に災害であったり、クーデターなどによって、治安が確保できない場合に発令されるものであった。

 というのは、災害などでは、ライフラインも遮断され、情報が錯そうしてしまうことが往々にしてあり、暴動が起こったり、デマのせいで、謂れのない虐殺が起こったりと、

「普段であれば、あり得ない」

 と思うようなことが平気で起こったりする。

 そのために、

「機能しなくなった自治体に変わって、軍部から派遣された人を、司令官として、一時的な臨時政府を作る」

 ということだ。

 その司令官が、全権として、最優先として、治安維持に努めることになるのだが、それが、日本における

「戒厳令」

 であった。

 戒厳司令官の命令は絶対で、もし、自由を一部制限することであっても、

「命令に従う必要がある」

 ということである。

 特に、大日本帝国の時代に存在した、

「戒厳令」

 というものは、今までに3度発令されたのだ。

「明治、大正、昭和」

 と、それぞれ、大日本帝国が存在した時代に、一度ずつあったということだった。

 まず、最初は、日露戦争終結時のことであった。

 日露戦争といえば、

「明治弱小日本と呼ばれていた国が、世界の大国の一角を担うロシアに対して、宣戦布告した」

 ということで話題になった。

 確かに、その少し前に、アジアの大国で、

「眠れる獅子」

 と言われた、清国を、日清戦争によって打ち破っている。

 これは、そもそも、朝鮮半島に対しての権益と、冊封関係を結んでいて、宗主国としてのメンツを持っていた清国との闘いだったのだ。

 日本は、ロシアの南下政策の防波堤という、

「安全保障」

 の問題と、日本の増え続ける人口を支えるだけの食糧問題などもあって、当時鎖国をしていた朝鮮を、砲艦外交で開国させ、さらに、清国からの独立と、近代化を進めていたが、どうしても、そうなると、日本の幕末のように、世情は混乱してしまうのだ。

 日本だって、最初は、

「尊王攘夷」

 というのが、主流の考えだったものが、

「尊王倒幕」

 に変わったではないか。

 当時の朝鮮も、

「攘夷」

 というものを基本的に考えた旧軍隊と、攘夷思想にあったが、すでに政治から退いていた、国王の父親である、大院君を担ぎ出し、クーデターを起こした、

「壬午軍乱」

 であったり、

「日本の明治維新に倣って、日本のやり方で国を改革させよう:

 という一派が、クーデターを起こしたが、結局、清国の駐留軍に鎮圧されたという、

「甲申政変」

 というものの、二つを経て、

「朝鮮半島をめぐって、日清両国は、一触即発の状態になった」

 ということであった。

 結局、朝鮮半島で、戦禍は生まれ、戦争となったのだが、意外なことに、日本の圧勝だったのだ。

「この時のため」

 ということで、

「富国強兵政策」

 というものを、真剣に推し進めてきた大日本帝国と、

「欧米列強に、それまで何度も戦争を挑んでことごとく負けてきたことで、国力が落ちているうえに、実質上の国家元首であった、西太合という人物が、政府を私物化していたことで、軍部では予算が全然足りず、東洋一の軍事大国という面影は、すでにどこにもなくなっていた」

 ということであった。

 そんな状態で、戦争への士気も全く違ったのだから、そもそもが、

「戦争になるわけもない」

 ということで、日清戦争は、スムーズに勝利を得た。

 ただ、下関講和条約で得た、遼東半島だったが、それをよしとしない、

「フランス、ドイツ、ロシア」

 の三国から、

「遼東半島を返却」

 という話が出たのだが、さすがに、その三国と一戦交えるわけにはいかず、不満が残ったが、遼東半島を返したことで得られた賠償金で、さらなる、

「富国強兵」

 を進めることになったのだ。

 日清戦争に勝てた理由のもう一つに、

「西太合による、贅沢三昧」

 というものがあった。

 国家が衰退し、亡国となっていくための、典型的なステップといってもいいだろう。

 しかも、この独裁制が、その後に起こった、

「義和団事件」

 によって、決定的なことになるのだが、それは、

「扶清滅洋」

 という言葉をスローガンに、列強に対して反乱を起こした、義和団という団体に乗っかる形で、西太合は、何と、

「9か国に及ぶ、列強に対して、宣戦布告をした」

 ということであった。

 当然、列強は、

「居留民や、領事館保護のために、派兵してくるのは当たり前だ」

 ということで、

「多国籍軍」

 というものが形成され、北京は、戦禍にまみれた。

 それによって、清国軍など、ひとたまりもなく。結局義和団に乗っかってしまった西太合も、彼らを裏切るしかなくなってしまったのだ。

「列強に宣戦布告など、当時の清国の軍事力、経済力を考えて、限界にきていることも分からずに行ってしまった戦争」

 そんなもの、勝てるわけはないということであった。

 結局清国は、それから数年で滅亡することになるのだが、日本は、ロシアの脅威と直面していた。


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