5 兆しと敗走

 厳戒体制が敷かれたデニス王国内のとある宿屋で、ある異変が起きていた。三階建てのこの宿屋の一階には受付を兼ねたパブがあり、いつもなら宿泊客や街の常連客で賑わっている時間帯である。しかし何故かその喧騒が、この時に限って一切外に漏れ聞こえてこないのだ。かといって宿屋は閉めているわけではなく、パブにもいつも通りたくさんの客がいた。しかし客は皆一様に微動だにしない。いや、できないでいた。声も発せず、指一本すら動かせない客達。まるでこの一帯だけ時が止まったかのようだ。客の顔は皆、驚きと恐怖に満ちているが、客達の視線は全てバーカウンターのある一ヶ所に注がれていた。

 「さあ、言え!片目が蒼いガキはどこだ」

 不快な金切り声が宿屋中に響く。その声の主であるドルジが目の前の宿屋の主人に詰め寄る。宿屋の主人はガタガタと震えながら、首を勢いよく横に振っている。宿屋の主人は恐怖に縮み上がってはいるものの、周りの客達のように身動きが取れないわけではなかった。

 「ここはこの街で一番人の出入りのある宿屋だ。なら、国王の寝言から隣のかみさんのへそくりの隠し場所まで、集まらねぇ噂はねぇだろう。さあ言え!」

 「し、しし知らねぇっ!俺は知らねぇよっ!本当だ!」

 宿屋の主人は顔面蒼白で顔のあちこちから冷や汗を垂らしながら弁明している。

 「いーや、そんなはずはねぇ。もう一度よーく思い出せ。おっと気を付けろ。これが最後のチャンスだからな。答えを間違えると、ここにいる奴等を一人残らず殴り殺してからこの宿屋をボロボロにぶっ壊したあと、お前をゆ~っくり殺す」

 不気味な笑みを浮かべながら舌舐めずりをする怪物を前に、今にも失神しそうなのを必死に堪えている宿屋の主人の震える口が開く。

 「そ、そいつが蒼い目をしてるかは、わ、分からねぇが、最近、や、薬草師のところに見かけない奴がいるってのは、聞いた覚えがある……。た、頼む!本当にこれ以上は何も知らねぇんだ。ゆ、許してくれ!」

 「なぁんだ、いい情報持ってんじゃねぇか。はじめからそう言やいいんだ。で、その薬草師ってのはどこにいる?」

 宿屋の主人から薬草師の居場所を聞いたドルジは黒いフードを目深に被り、宿屋を後にした。ドルジの居なくなったパブには何事も無かったかのようにいつもの喧騒が戻り、宿屋の主人も客達も先程の光景をすっかり忘れたのか、笑い、話し、飲み直しはじめた。街中に、フードを被っただけのドルジを振り返る者は一人もいなかった。


 「お師匠様~」

 先程までコリーナとタケはいつものように 森へ薬草を摘みに出かけていた。夕食時までに戻ってきたが、家にはルベルの姿は無かった。

 「おかしいですね。今日は外出の予定はなかったはずなので、家に籠って研究に没頭していると思っていたのですが……」

 「街の人に呼ばれて治療しに行ってるんじゃないか?怪我とか病気とかの」

 タケは薬草で一杯になった籠を下ろしながらそう答えた。

 「う~ん、それならいつもは扉の内側に置き手紙が貼ってあるのですが……。何か急用でもできたのかもしれませんね。夕食の準備をして待っていましょう」

 コリーナはそう言ってキッチンの扉を開け、食事の準備を始めた。その間タケは、裏庭で森で摘んできた薬草の仕分けをすることにした。薬草の葉と茎を別々に分けるだけの簡単な作業だが、葉と茎でそれぞれ薬としての効能が違うため大事な作業なんだと、コリーナに教えてもらったのだ。これなら俺でもと、タケは見よう見まねで手伝った。ルベルに『筋がいい』と誉められてからは、この作業はタケの仕事となった。簡単ではあるが、この作業が少しでも二人への恩返しになると思うと、タケは心底嬉しかった。と同時に安堵もした。働きも手伝いすらもせず、ただ食べて寝ての生活を続けていると、優しいルベルとコリーナもいずれタケに愛想を尽かし、右も左も分からないこの世界に一人放り出されるかもしれないと少なからず思っていたからだ。それにタケ自身、こういった単純作業が嫌いではなかった。陸上競技大会のレース前には、いつも決まって部員全員のシューズを勝手に磨いていた。そうすることで集中力が高まり、満足いく結果を残すことができた。

 黙々と作業を続けていたタケは手元が暗いことに気づき、その手を止めた。いつの間にか陽が沈みかけていた。薬草摘みから戻ってからどのくらいの時間が経ったかは定かではない。一時間ぐらいだろうか。ルベルは依然として戻ってきていない。コリーナはどうしたのだろうか。薬草の仕分け作業を始めた頃には聞こえていた夕食の支度音が、今は全く聞こえてこない。勝手口から家の中に入ると、ピンとした静寂が張りつめているのを感じた。寒気がする。以前どこかで感じた嫌な空気に、タケは勢いよくキッチンの扉を開けた。しかしそこにあるはずのコリーナの姿は無かった。タケの背筋が凍りつく。顔がひきつる。代わりにキッチンに立っていたのは、不適な笑みを浮かべたあの怪物だった。

 「こ~んなところに隠れてやがったのか!手間かけさせやがって」

 忘れようもない不快な高音が、タケの鼓膜を震わせた。嫌な汗が額を伝う。恐怖で足がすくむ。

 「おまえが、どうしてここに……」

 「そりゃおめぇ、落とし物を拾いによ」

 「コリーナは、コリーナをどこへやった!」

 「誰だそりゃ?あぁ、ここにいた『死に損ない』のことか。ケケケッ。さあなぁ。どこだろうなぁ」

 ニヤニヤとした表情がいっそう醜く不気味なものに変わる。

 「死に……損ない……?」

 その言葉を聞いてタケがとっさに連想したのは、コリーナが傷を負ったということ。それも重症の。一度その不安が過ると、まるで荒波のように怒りと恩人を守れなかった後悔と自責の念が、ない交ぜになって一気にタケの心を支配した。恐怖による体の震えは、微かに残る自制によるものへと変わった。額を伝う汗は、怒りを加速させる潤滑油となった。そんなタケの変化に、ドルジは全く気づかない。

 「あんな『死に損ない』を助けたいなら、大人しく俺についてくるんだな。それとも力ずくで取り戻すか?ケケケッ。まあそれは無理か」

 その言葉を合図に、タケの思考は止まった。体は軽くなり、神経は研ぎ澄まされた。血が、からだ中の血管を勢いよく巡る。タケはゆっくりと鼻から空気を吸い込み、その倍の時間をかけて口から吐き出した。次の瞬間、タケはドルジの目の前にいた。

 「あ?」

 怪物が次に何が起こるかを瞬時に予測するには、その脳はあまりにも小さすぎた。タケの拳が目にも留まらぬ速度でドルジの腹 ー ゴルジの顔面 ー にめりこんだ。と同時にボキボキボキッと何かが折れる嫌な音が聞こえた。次に部屋に響いたのは、巨体の熊が放つ慟哭を思わせる、ゴルジの低い叫び声だった。衝撃を受け止めきれなかったゴルジの巨体は、小さな頭のドルジと共に後方の壁まで吹っ飛ばされ、そのままくず折れた。壁は衝撃でひび割れ、据えられた食器棚が倒れて辺りは埃に包まれた。

 「はあ……はあ……」

 拳を放ったタケの呼吸は荒く、意識は朦朧としている。急激な疲労に襲われつつも少しずつ視界がハッキリしてくると、右手に激痛が走った。

 「くっ……」

 拳を握ろうとするが痛みで上手く動かせない。先ほどの嫌な音はタケの右拳が砕けた音だった。目の前の光景に戸惑いつつも、拳を握れない状況では怪物が再び起き上がって来た場合に対応できないことにタケは不安を感じた。だが、今のところその様子は見受けられない。それでも一息つける状況ではない。

 「そうだ、コリーナは……」

 その時、ギィという玄関の扉が開く音がした。

 「いやいや、遅くなってすまない。上のエリアで急患が出て……」

 タケがゆっくりと振り返ると、今帰ってきたばかりのルベルが、扉の開け放たれたキッチンの前に立っていた。

 「こ、これは……。タケ君、一体何が……」

 これまで冷静沈着だったルベルが目の前の惨状に狼狽える。帰ってくるなりぐちゃぐちゃのキッチンにいるボロボロのタケが目に入ったのだから無理もない。

 「良かった。ルベル、コリーナがあの怪物に……」

 「タケ君!伏せなさい!!」

 突然のルベルの大声に驚きつつも、タケは咄嗟にその場に伏せた。ブンッという音が頭上を掠める。

 「クソッ!さっきは油断したぜぇ」

 先程まで壁に凭れるように伸びていたドルジが右手で突き出た腹 ー ゴルジの顔 ー を擦っている。危なかった。ルベルの声に反応できずにいたら今頃伸びていたのはタケだっただろう。タケはルベルの元へ駆け寄る。呼吸の度に肺に激痛が走る。右拳は握れず、両足は痺れたように感覚がない。

 「大丈夫かいタケ君。それにこの状況は……」

 「こいつが、俺をこの世界に連れて来たんです。そして今度はコリーナをどこかへ……」

 タケはルベルに現状を手短に話した。ルベルの表情が一瞬で曇る。

 「……とりあえず今はこの状況を何とかしよう。まだ動けるかい?」

 ルベルは冷静さを取り戻すと周囲を見回し、瞬時に状況を理解したようだ。

 「あ、ああ。何とか」

 全身を襲う虚脱感と右拳の激痛は取れないものの、足の痺れと肺の痛みは少しマシになってきた。幸い怪物の方も先程のタケの一撃を警戒しているのか、迂闊には動けないようだ。

 両者にらみ合いの状態のまま一分ほど経過した頃、ルベルが何かに気がついた。

 「タケ君、何か聞こえないかい?」

 小声で囁くルベルに促されるようにタケは耳を済ました。確かに聞こえる。どこからか分からないが、スーッという、空気の漏れるような音が……。

 「ルベル!耳を塞いで!」

 それは直感としか言いようがなかった。タケがルベルにそう言い放つが早いか、部屋中にドルジの大音量の金切り声が響き渡った。ドルジの不快な叫び声は、周囲のあらゆる物体を振動させた。振動に耐えきれなかった窓ガラスが次々と割れ、煉瓦の壁にはひびが走った。咄嗟に両耳を塞いだタケとルベルの鼓膜は何とか持ちこたえたが、強烈な目眩と吐き気に襲われた二人はその場にうずくまるように倒れた。

 「うっ……。く、くそ……」

 タケは今にも失いそうな意識を繋ぎ止めるのに必死で身動きが取れなかった。ルベルも苦しそうだが何とか耐えている。全ての窓ガラスが割れ、四方の壁と天井に無数の亀裂が走った頃、その絶叫が止んだ。

 「ふぅ。あ~すっきりしたぜぇ~」

 ただ大声を出してストレスを発散させただけのような感想を述べたドルジは、満足そうな笑みを浮かべながらゆっくりと床にうずくまる二人に近づいた。

 「ったく。てこずらすんじゃねぇよ」

 ドルジはタケの前に立ち、後頭部めがけて勢いよく殴り付けた。それまで辛うじて保たれていたタケの意識が途切れた。ドルジは意識を失ったタケを肩に乗せ、隣のルベルには目もくれず、その場を後にしようと玄関の扉に手をかけた。コツンと何かがドルジの背中に当たり、床に転がった。

 「その子を、置いていきなさい」

 「ああ?」

 ドルジが振り向くと、ルベルがふらふらながらも立ち上がっていた。

 「タケ君を放しなさい!」

 その言葉と共に、ルベルは手近にある研究用のビーカーをドルジに投げつけた。見事ドルジに命中したビーカーは割れて、中の液体がドルジにかかった。

 「なんだこれ。ただの水じゃねぇか」

 ドルジはずんずんとルベルに近づいていく。ルベルは手当たり次第に他の実験器具をドルジめがけて投げ続けた。ドルジはお構いなしで避けようともしない。辺りにガラス片が飛び散る。ルベルの手には最後のビーカーが握られている。ドルジが不適な笑みを浮かべる。

 「ケケケッ。終わりだな」

 「お前がな」

 ルベルはそう言い放つと、最後のビーカーをドルジに投げつけた。もちろんドルジは、それも避けなかった。ビーカーはドルジの額に命中し、割れた。

 「ぎぃぃやぁぁぁぁっっっ!!」

 ビーカーに入っていた液体を全身に浴びたドルジの体は、勢いよく発火した。肩に乗せたタケをその場に放り投げたドルジは、体を包む炎を消そうと暴れまわった。ルベルはその隙を見逃さず、横たわるタケの腕を自分の肩に回し、一心不乱に裏口から飛び出した。裏庭の柵を越え、立ち並ぶ民家の裏手を、タケを引きずりながら走り抜けた。その場から逃げるのに必死だったからだろうか。身を焦がす炎に悶え苦しむドルジとゴルジの声は、一切聞こえてこなかった。

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