グリモワール2『ラーラの書』はラリーサの日記です。

春野 セイ

第1話 妖精の女王




 黒い犬が増えた――。


 ラベンダーは荒地に足をつけると、あたりを見渡して誰もいないのを確認した。


 ここはわたしたちの思い出の場所だったのに――。黒い犬の大群が通った後は、蹴る力が強すぎて草花はえぐれ、彼らの吐くけがれた呼吸によって不浄と化し、草木は枯れて以後、荒地になるという。

 辺り一帯は花畑だったのに、今ではすべて枯れて荒地になっていた。

 ここは夫であるローワンのために花冠を作ってあげた場所だ。照れ臭いと言っていた少年の時のローワンの顔を今でも忘れたことはない。


 ラベンダーは空を見上げた。

 空は曇り空だったが、雨が降りそうな気配はない。乾いた空気の中に少しだけ生温かさを感じた。


 彼女は、背中の透明な翼を閉じた。ラベンダーの羽は普通の妖精とは違っていた。混じりけのない純度の高い透明な羽。

 くっきりと浮かび上がる翅脈しみゃくは、光線の角度によっていろんな色に変わる。他の妖精にはない特徴が、彼女が何者であるかの証でもあった。

 ラベンダーは、妖精の女王として生まれたが、小さい頃からお転婆で、供もつけずいつも一人で飛びまわっていた。


 ここは、妖精たちが暮らす、王国バレリアンである。

 緑豊かな土地が広がり、食べ物に困ることもなく、美しい川と小川がたくさんあって、妖精たちは幸せに暮らしていた。

 妖精たちの姿は人間とほぼ変わらないが、背中に美しい羽が生えていることで妖精だと一目でわかる。

 隣国は人間の暮らす領地であり、友好関係を築いてやってきた。人間と言っても彼らの中には強力な魔法使いたちもたくさんいる。外見だけで魔法使いと分かる者もいれば、中にはただの人間に見せかけて本当は力のある魔法使いもいた。

 そして、人間は暗い心に支配されやすい。友好関係は築いているものの、妖精たちはできるだけ人間との関わりは避けていた。

 ところが数日前、空があやしい影に覆われたかと思うと、一夜にして世界が変わってしまった。

 

 なぜ、それが分かったのかと言うと、人間の領地から黒い力が妖精の領土の方へ少しずつ入り込んでくるようになったからだ。


 人間たちを支配しようとする闇の力が強くなったのだ。

 

 その中でも黒い犬は、犬と呼ばれているが大きさは子牛ほどもある獣だ。

 真っ黒でつるつるした皮膚、火のような燃える目で気味の悪い叫び声を上げる。その叫び声を聞いた者は、恐ろしさに震えるしかできなかったという。そして、黒い犬に触れると、その場で死ぬとも言われている。

 さらに、死者の行列を見たという者もいた。そして、邪悪な騎馬隊が黒い旗を掲げて、どこかへ向かっていた――とも。


 ラベンダーは、それらをこの目で確認せねば、と思っていた。

 妖精たちがおびえている。それを守るのは女王である自分の役目だ。

 女王と言っても、ラベンダーはついこの間、結婚をして、女王の資格を得たばかりであった。


 十八歳の彼女は、ミルク色の肌に髪は腰くらいある金髪で青い瞳をしていた。すらりと手足が長く身長もあった。しかし、身長のわりに痩せていて、夫であるローワンから、もっと太れ、と言われていた。

 夫のことを思い出すと、涙が出そうになる。


 ラベンダーは顔をしかめて首を振った。

 今は、ローワンのことなど思い出してはならない。あの、いまいましい夫は、今頃、他の女性、自分の義姉あねと仲良くしているだろう。


「ああっ、もうっ、いやっ」


 ラベンダーは叫ぶと、足を踏みならした。


「いやだ、いやだっ」


 片時もローワンのことが頭から離れない。

 いつでもどこでも、自分は夫のことを考えている。

 城を抜け出したのはそのためだ。


 ローワンは自分じゃない女性を愛している。


 その事実を認めたくない。

 だから、彼の事を頭から追い払うために、何か別のことを考える努力をしているのだ。

 ラベンダーが大きく息をついた時だった。

 離れた所から、奇妙な叫び声がした。聞いたこともない断末魔の叫び。


 ラベンダーは全身が総毛だった。


 振り向いて羽を広げて浮かび上がる。声のした方へ向かうと、黒い犬の集団に出くわした。

 赤い燃える目、唾を垂らし、何かに向かって吠える犬。そして、牙を剝き出し、何かに向かって飛びかかっている。


「あっ」


 ラベンダーは羽を広げたまま、その場にとどまった。魔法でハシバミの杖を取り出す。


「邪悪な生き物を取り払え!」


 杖を振ると、黒い犬がいっせいにこちらを見上げた。

 なんて、恐ろしい姿をしているのだろう。

 ラベンダーは、妖精の中でも魔力の量が飛びぬけて多かった。一瞬で、黒い犬が全滅した。黒い犬が消滅したことを確かめてそれから地上に目を凝らした。

 すると、そこに金色に光る少女が横たわっていた。


「大変っ」


 ラベンダーは小さく悲鳴を上げた。心がざわりとした。

 震える体を叱咤し、地上へ降りようとしたが、地上は黒い犬で穢れている。浄化しなくては下りられない。


(助けて……)


 ラベンダーに気づき、こちらに向かって少女が呟いた。

 少女の生前の姿なのだろう。しかし、今では肉体を失った魂だった。

 体を丸めて横たわり、白金の長い髪は柔らかくうねっている。抜けるように色が白く、濡れたまつ毛を瞬かせ、細い顎をした華奢な体付きの美しい少女だ。


(わたしは……アニス。助けて、お願い……)


 彼女はそう言った。ラベンダーはためらいもなく頷いた。


「ええ。今すぐ助けてあげるわ」

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