第十六話(3)

 お茶会からほどなくして、ディオはいままでよりずっと早く学院に復帰した。とはいえ彼の知識量はすでに教授たちを凌駕りょうがしている。いまさら真新しいことはなにもないはずだが、それなりに授業にも出席しているようで、学院内でたびたび姿を見かけるようになった。なお、妹のミモザ様は相変わらず私の悪口をささやいてまわり、私に関する悪評はうわさ好きの生徒たちのあいだでもってこいのゴシップになっている。

 私たちはお茶会ですっかりしおらしくなったディオを目のあたりにしているが、クライルは彼に対する不信感を拭えないようだった。もちろん私もまったく警戒していないわけではない。ディオとの関係をやりなおせるのはうれしいけれど、時間がもどったからといって、すべてなかったことにはならないのだ。ふとしたときにディオの異様な光をたたえた赤い瞳を思い出して身がすくむこともある。

 用心するに越したことはないからと、結局いままでと同じように私のそばにはクライルかカティア様かデニス様、いずれかひとりが控えるようになった。いままでそれどころではなかったので気づかなかったが、どうやらこれが周囲にはアレクシス様からの友情を超えた寵愛と映ったらしい。アシュテンハイン辺境伯令嬢はスマルト伯爵を捨てて王太子殿下に乗り換えるのだろうといううわさがまことしやかにささやかれはじめた。

 うわさはどうあれ、私とクライル、そしてアレクシス様の関係は後退もしなければ進展もしていない。記憶をとりもどしたあの日以来、クライルは不必要に私に触れないし、アレクシス様もわざわざ話題として持ち出さない。正直私もどうしてよいかわからないし、なにが正解かもわからない。すくなくとも災厄の問題が解決するまではうやむやにしておきたいというのが本音だった。


「あの、う、うまく、行きました」


 リリーのよびかけで昼休みに研究棟の温室に集まると、すこし遅れてディオがやってきた。オルバド侯爵の視察の情報をつかんだリリーがディオを呼び出したのだ。

 ディオはうつむき気味に、控えめな声でそう報告した。

 うまく行った、というのはつまり、侯爵の視察をうまく乗り切ったということだろう。


「それじゃあ、侯爵は石を持ち帰らなかったんですね?」


 リリーが念を押すと、ディオがこくりとうなずく。残る懸念を解消するべく、私も質問を続けた。


「ほかに石がアルセレニアに持ち込まれるような可能性に心あたりはない?」

「ないと思う。簡単に盗みに入れるような場所でもないし……」

「異界だものね」


 ディオの申告に偽りがなければ、これでたそがれの石がアレクシス様の手に渡ることはなくなった。つまりあのすべてを焼き尽くす炎の結末からは逃れたのだと考えてよいはずだ。しかし安堵するより、こんな簡単に終わるものだろうかという不安のほうが大きかった。


「あなたは、あの石をどうするべきだと思います?」


 リリーは私と目を合わせたあと、視線をディオに移して、探るように問いかけた。


「どうと言っても、そっとしておくしか……。魔力源としては魅力的ですが、テシア導師が言うように、あれには触れるべきではないと思います」


 ディオはとまどいながら目線を下げて、研究者らしい回答をした。この様子だとディオ自身に石を利用しようとする意思はなさそうだ。


「たそがれの石がアルセレニアにもたらされなければ、私たちの知る災厄は回避できます。でもオルバド侯爵たちがこのまま大人しく手をこまねいているとは思えません」


 リリーの言う通り、たそがれの石の問題を解決しても、神殿の計画が阻止されたわけではない。

 事の重大さから、私たちは災厄こそが事態の中核であると思い込んでいた。しかし根本の問題は権力闘争にあって、災厄はあくまでその流れのなかで招かれたできごとに過ぎないのだ。


「願いが叶う石のうわさの出処はおそらくオルバド侯爵たちよね」

「そう思います。アレクシス様の興味を引こうとしたんでしょうね。そして、実際なにをどうやっても、なぜかアレクシス様の手もとに届いてしまうんですよね……」

「そうなのよね……。これで解決したと思わないで、警戒は怠らないほうがいいわ」


 私とリリーはくり返した過去を思いながらうなずき合った。主体が私にあったときもリリーにあったときも、物事の流れに政治的な思惑が絡んでいるとまで思い及ばなかった。そのせいで、たそがれの石がアレクシス様にたどり着くまでの経路がはっきりとしない以上、リリーも私もアレクシス様をとめるほかないのだという結論にいたった。エレイン元王妃の予言の存在がその一助となったことも否めない。

 しかし、あれはあれで、ひとつの回避策ではあったのだ。視野の狭さを指摘されればまったくその通りだが、あのときはそうするしかなかった。


「石を譲り受けるにあたって、そのあたりの記憶はほとんどないんだ。ただ、どのときも、ぼくが自ら望んだように思う」


 王太子という体裁をまとわないときの一人称で、アレクシス様がおだやかに言った。


「……神殿……オルバド侯爵たちが欲しているのは政権よね? アルセレニアという国そのものが崩壊してしまえば、権力はなんの役にも立たない」


 私は思考しながら言葉をつむいだ。つまり、オルバド侯爵たちはたそがれの石の本質を理解していたわけではない。彼らにとってあの石は、持ち主に災いをもたらすといわれている、実証をともなわない、おまじない程度のアイテムだったはずだ。


「ディオ、石についてオルバド侯爵にどんなふうに説明したの?」

「ええと……火の魔石ということと、太陽の石の伝承と……だから、あまり縁起のよいものではなくて、暴発の危険もあるから取り扱いには気をつけなくてはいけないこと……とか……」

「……その石を見つけてから、あなたは人が変わったわ」

「火の石は欲求を強めやすいんだ。個人差はあるけど……あれは火の魔力そのものだから、そのぶん影響力も強い」


 ディオはばつが悪そうに、しかしそう説明してくれた。もともとディオのなかに私に対する好意があったのはたしかとして、それが石の影響を受けて極端な執着に変わったのだ。

 ともすれば学術に傾倒して異性への興味など微塵も抱いていなかったディオが、ある日突然、恋に夢中になった。その変貌ぶりをオルバド侯爵も目のあたりにしたはずである。


「……私だったら……」


 私はちらりとクライルを見た。オルバド侯爵はアレクシス様の興味を引くために「願いが叶う石」のうわさを流した。アレクシス様に叶わぬ願いがあることを知っていたのだ。

 その願いがなにか、いまの私はもちろん知っている。


「クライルとアレクシス様のあいだに軋轢あつれきが生まれれば、あるいは軋轢があるように見せかければ……アレクシス様になにかあったとき、真っ先に疑われるのはクライルよね」


 自分がオルバド侯爵の立場だったらどうやってアレクシス様を陥れるか、筋道を組み立てて思わずぞくりとした。

 神殿のトップに君臨する大僧正猊下は「女神の鳥」を意味するセフィーニアの称号を持つ、国王陛下に次ぐ権力者だ。そして王国騎士団が国王の直属機関であるのに対し、神殿はこの大僧正猊下のもと、あくまで独立した組織として運営されている。

 つまり王家と神殿は厳密には従属の関係にはない。リリーとクライルが経験した未来のように、条件がそろえば神殿、もとい大僧正猊下が実権を握ることも可能なのである。

 アレクシス様の支持層は厚く、神殿派の貴族たちも含まれるし、国民からの支持にいたっては王弟殿下を圧倒している。アレクシス様は派閥を超えた架け橋になり得る存在であるとともに、それはつまりアレクシス様が王位に就けば、実態として神殿が王家の支配下に置かれる可能性があることを示唆しさしている。王家になびかない生粋の神殿派にとってはおもしろくない展開にちがいない。

 そしてアレクシス様の時代を支えるであろう臣下の筆頭が、ゆくゆくはキャストリー侯爵を受け継ぐクライルだ。アレクシス様の失脚に失敗したとしても、クライルが欠ければ神殿派にとっては大きな収穫だし、まとめてふたり片づけてしまえれば、またたく間に優位に立てる。

 王弟殿下、現ルダード公爵はご気性に難があり、放蕩ほうとうの気があるとうわさされている。アレクシス様にもしものことがあれば次期国王は王弟殿下となるわけだが、うわさ通りの人物ならばアレクシス様よりもよほど御しやすい。大僧正猊下が政権を狙っているのであれば、簡単に神殿の傀儡かいらいと化してしまうだろう。


「それだ。それですね」


 リリーがぽんと手をたたく。侯爵にとってたそがれの石は都合のよい手段のひとつであって目的ではない。彼らの最終目的は政治の実権を握ることで、その必要条件のひとつにアレクシス様の排除がある。だからたそがれの石が手に入らなくても、神殿は必要条件を満たすために動くはずだ。


「……あの」


 おずおずとカティア様が口をひらいた。


「小耳にはさんだ程度ですが、エリーゼ様を王太子妃にという話が出ているとか……。殿下の学院卒業も迫ってきましたから、あきらかに不自然とも言えないのですが」


 シュゼット様が去ってから、王太子妃問題はほとんど保留の状態だった。というのも、アレクシス様が学院を卒業するまでという条件で縁談をやんわりと退けてきたからだ。

 しかしカティア様が言うように、アレクシス様もとうとう最終学年となれば、王太子妃問題が差し迫った議題として再熱するのも当然だった。


「ほかのご令嬢の名前はあがっていないの?」

「すくなくとも私は耳にしていません」

「それは少々不自然ね」


 貴族たちのあいだで王太子妃問題が盛り上がっているのだとしたら、私以外の令嬢の名前もあがって然るべきだ。ひそひそと私の名前だけささやかれているのであれば、オルバド侯爵らの小細工ととらえてもよいだろう。


「もしかして、それでコルニ卿に嫌味言われてたのか?」

「……」


 デニス様に背中をたたかれて、クライルが余計なことを、とでも言いたげな顔をした。


「コルニ伯爵?」

「オルバド侯爵の腰巾着ですよね」


 小太りの温厚そうなコルニ伯爵を思いえがいたところで、リリーが身も蓋もない言いかたをした。つまり、神殿派の貴族である。

 視線を集めてしまった手前、しぶしぶとクライルが口をひらいた。


「ついこのあいだの話です。コルニ伯爵から、殿下のお心をわずらわせぬよう、すすんで身を引くべきだとご忠告をいただきました。それが臣下の務めであると……。私にとっては二度目ですね。以前もそうでした。だいたい同じような時期だったかと」


 私の知らないところでそんなできごとがあったのだ。いつか私のために身を引いたときのクライルが思い出されて、きゅっと胸が詰まるような思いがした。


「クライル。これからのために、はっきりさせておこう。私たちの関係性のほころびを狙われているとしたら、それが一番だと思うんだ」

「……」


 アレクシス様に言葉を向けられて、クライルの瞳がゆれる。表情はないが、動揺しているようだった。


「だから……謝らせてくれ。本当にすまなかった」


 立ちあがったアレクシス様がクライルに向き直るなり、深々と頭を下げる。クライルは一瞬あっけにとられた顔をしたが、すぐに正気をとりもどしたようだった。


「殿下、おやめください」

「私の弱さと不覚悟が、つけ入る隙を与えてしまった。そのせいで君もエリーゼもひどく傷つけた」

「殿下」

「本当はわかっていたんだ。彼女の心はずっと君にあった。わかっていて、それでも……」


 私は嘘はつかなかった。あのときのアレクシス様への愛情は本物だったし、いまも彼を思う気持ちに偽りはない。優劣の問題ではなくて、しかし、アレクシス様への愛情とクライルへの愛情とはなにかがほんのわずかに異なっているのだ。

 私がアレクシス様へ向ける感情は、アレクシス様が私に向ける思いと同じようで、きっとすこしちがっている。アレクシス様はそれに気づいていたのだろう。


「ぼくはもう十分すぎる思い出をもらった。今度こそ、君たちを祝福させてくれ」


 アレクシス様は私とクライルの顔を見比べてから、クライルの前に手を差し出した。クライルがじっと私に探るような視線を向ける。私の真意を推しはかろうとしているようだった。私はただおだやかにクライルを見つめ返した。


「……」


 クライルは意を決した表情で、だまってアレクシス様の手をとった。しっかりと握手をかわしながら、不意にアレクシス様がいたずらっぽく微笑んだ。


「よかった。これで胸倉をつかまれずに済む」

「……ふふ」


 アレクシス様と談笑した明るい庭を思い出して、私も思わず笑ってしまった。クライルの表情にさっと深刻な色が差して、それがまた面白かった。


「私は、殿下にそのような不敬を……?」

「よくおぼえている。あのとき、君にはかなわないと思った。腕力だけの話じゃない。彼女を思うひとりとして、ぼくは君に絶対にかなわない」


 クライルはアレクシス様の言葉をどう受けとめればよいのかとまどっているようだった。


「これは、ほめ言葉だ」

「……ありがとうございます……?」


 見かねたアレクシス様が言い足すと、よくわからないながらクライルが頭を下げる。公務中は毅然とした態度を崩さないクライルが翻弄されるさまは、どうにも滑稽で、また微笑ましかった。


「名乗りを上げるならいまですよ」


 リリーがディオをひじで小突く。ディオは、え、あ、としどろもどろになりながら、自分が視線を集めたとわかるとうつむいてしまった。そして顔を下げたまま、彼はふるふると頭を横に振った。


「ぼ、ぼくには、そんな資格はないし……そんなことしたら、こ、殺されますよ……」


 ぼんやりとディオをしこたま殴りつけるクライルの姿が思い出された。実際ディオはそうされてもしかたのないことをしたのだが、ずいぶん説得力のある怯えぶりだった。


 ――ぼくには、そんな資格はないし……


 いまのディオはやはり私の知る、あのころのおだやかな青年にもどったように思えた。彼は過去のあやまちを悔いている。

 本来、時をさかのぼってやり直すことなど誰にもできない。けれど私たちにはできた。だからといって過去がなかったことになるわけではないのだが、叶うなら彼を許したいと思う気持ちが胸に芽生えている。

 だから甘いのだ、つけ込まれるのだ、と自分を叱りながら、それでも私にとっては彼を許すほうが憎み続けるより楽だった。


「これではっきりしたね。つけ入られる隙はもうない」


 そう言ったアレクシス様の表情がいつもより大人びて見えた。強がっているのでも建前を語っているのでもない。私には彼が、毅然とした、君主としての風格を帯びているように見えた。


「向かうところ敵なしです。受けて立ってやりましょう」


 リリーがぐっとこぶしを握る。

 私がよく知るリリーは純真で純朴な野うさぎのような少女だった。セフィーラとして異界に降り立ったとき、まさしく彼女はそんな無垢で可憐な少女だったのだ。

 か弱い双葉ふたばが想像を絶するほどの苦難を乗り越えて、折れながら、しかし立ちあがりながら、それをくり返してしたたかな樹木になった。いまのたくましいリリーを見ていると、そんなふうに感じられた。

 それがよかったのか悪かったのか、私にはわからない。リリーの成長が頼もしい反面、彼女には野うさぎのまま無邪気に駆けまわっていてほしかったような、そんな気持ちもある。

 ただ、いまのリリーもかつてのリリーも、私にとって愛おしい存在であることには変わりなかった。


 ――私も、変わったかもしれない。


 移り変わる時のなかに生きている以上、よくも悪くも変わって行くのだ。傷つけ合って助け合って、私たちは無限の選択肢からたったひとつを選ぶことしかできない。そしてあとには歩いた道しか残らない。

 運命にすがっても答えは出ない。自分で選んで、受けとめて、今日も明日も歩いて行くしかないのだ。


「エリーゼさん。ちょっといいですか」


 午後の授業のはじまりが近づいて、集まりはおひらきになった。

 温室を出ようとしたところで、リリーが私をよびとめる。彼女は私にさっと身体を寄せて小声でささやいた。


「自分でも余計なおせっかいだと思うんですけど……」


 声色からして楽しい話ではなさそうだ。しかし彼女の声に、今後への危惧のような、深刻な響きはなかった。


「前回……エリーゼさんたちがいなくなったあと、おふたりは心中だったといううわさが流れたんです。王室は事故だったと公表して、厳しい箝口令かんこうれいが敷かれました。だからあくまでゴシップなんですが……」


 たしかに愉快な話ではなかったが、すると私の名前は、犯罪者として歴史書に残らなくて済んだらしい。


「エリーゼさんとアレクシス様は愛し合っていたのに、クライル様が頑としてエリーゼさんを譲らなかったとか、その、エリーゼさんがアレクシス様に嫁げなくなるようなことをしたんだとか……クライル様を悪者にするうわさが流行ったんです」

「そんな……」


 私は言葉を失ってリリーを見つめた。なんて無情な話だろう。悪いのは私で、裏切られたのはクライルなのに。

 あのとき、私はてっきり世間はクライルの味方になってくれると思っていた。読みが甘かったのだ。


「私は神殿が流したうわさだと思っています。世論はゴシップで簡単に左右されます。クライル様への評価は騎士団への評価に直結しますし……。その、とにかく、もう終わったことなんですけど……伝えておいたほうがいいような気がして……」

「……ええ。教えてくれてありがとう」


 ときどきクライルが見せる遠慮がちな態度は、私の気持ちが彼にあるのかアレクシス様にあるのか量りかねているからだろうと思っていた。もちろんそれは私のせいで、しかし未来のためには、まだあいまいにしておくべきだった。さっきまでは。

 アレクシス様の意思表示はまちがいなく私への気づかいでもあった。彼は抱え続けた初恋に別れを告げた。そして私に、一度あきらめた未来に手を伸ばす機会をくれた。

 いまこそ私はクライルにきちんと気持ちを伝えるべきだ。言葉で、姿勢で、はっきりと示すべきなのだ。


 ――でも……


 手を伸ばしたら失うような気がする。クライルとの未来を願ったら、また、クライルを失ってしまうのではという不安が消えない。


「エリーゼさん。いまは過去じゃありません。新しくて、ちがう未来です」


 私の心のうちを見透かしたようにリリーが言った。

 彼女の言う通り、いまは、私たちがくり返した時間とは状況が大きく異なる。私は過去にとらわれているだけだ。彼の手をとっても取らなくても、失うかもしれないし失わないかもしれない。

 あのときもそう。様々な要因があって結果としてそうなっただけで、選ぶときからすべてが決まっていたわけではないのだ。


「……そうね」


 臆病な自分に言い聞かせるように、私ははっきりとうなずいた。

 その日の私の警護はカティア様の担当だった。しかし、リリーとアレクシス様のはからいだろう、知らないうちに午後からはクライルに変わっていた。

 ディオの件はひと段落として、ただ神殿がなにを仕掛けてくるかわからないので、私の警護は引き続き継続されることになった。


「……クライル。あの、お茶を飲んで行く時間はないかしら」


 クライルとともに帰路についた私は、沈黙が続く馬車のなかで思い切って口をひらいた。

 学院内でのクライルはあくまで近衛騎士としての公務の最中で、主人の命で私に付き添っているにすぎない。決して友人のようには振る舞わないし、お互いに距離感をわきまえている。私的な会話をしたいのならば、別に場をもうける必要があった。


「ああ。夜までにもどれれば」


 そう答えて、クライルは窓に目をやった。なんとなく距離を置かれているような気がしながら、よかった、とささやいて私も自分のひざに視線を落とした。

 それから邸に着くまで私たちは無言だった。とは言ってもそれほど気まずくはなくて、どちらかといえばそわそわと浮き立つような心地だったかもしれない。


「おかえりなさいませ」

「ただいま。私の部屋にお茶の支度をしてくれる? 私とクライルのぶんよ」

「お部屋ですか……」


 出迎えてくれたアニタにかばんをあずけてお茶の用意を申しつけると、彼女はクライルにうろんなまなざしを向けた。


「話をするだけよ」

「本当にお話だけですか」


 アニタがじっとクライルを見つめる。すっかり信用を失ってしまったらしい。


「お嬢様が許しても、私と旦那様は許しませんからね……」


 恨み言のように言ってから、アニタはそばにいたジェーンにかばんを託してお茶の支度をするために去って行った。部屋へ向かう私に付き添いながら、ジェーンが人差し指を唇の前に立てて見せる。


「だまっていれば、わかりゃしません」

「ふふ。そうね」


 ジェーンの年ごろは私とそれほど変わらない。落ち着いて大人びた容姿をしてはいるが、流行りの恋愛小説や芝居が大好きな年相応の女の子だ。いつでも明るく、愛嬌があって、彼女と話すと気持ちが軽くなる。

 私が微笑むと、ジェーンもうれしそうにはにかんだ。

 部屋に入るとジェーンはかばんを片づけて窓のひらき具合を調整し、レースのカーテンを引いてから去って行った。そのあいだ、クライルはドアのそばにだまって立ち尽くしていた。


「どうしたの?」

「いや……」


 私が振り返ると、クライルが視線をさまよわせる。なにをそんなに動揺しているのだろう。アニタの言葉を気にしているのだろうか。

 私はぎくしゃくとテーブルに歩み寄ったクライルの頬に軽く手を当てた。心なしか顔が赤い気がする。


「もしかして具合が悪い? 熱があるのかしら」

「すこし暑いだけだ」

「上着を脱ぐ?」


 手伝おうとクライルの背後にまわると、大丈夫だ、と断られてしまった。クライルはそのまま椅子を引いて腰を下ろし、ふう、と大きなため息をついた。


「失礼いたします」


 アニタの声がするとクライルの肩がビクッとふるえた。アニタはいつも通りてきぱきとテーブルをセットして、そのあいだ、クライルはじっと押し黙っていた。


「アニタ。クライルをいじめないで。節度は守るわ」

「お嬢様が許しても、私と旦那様は許しません……」


 アニタはさっきと同じ呪いの言葉をくり返して、しぶしぶといった様子で去って行った。私とクライルは婚約者だし、口づけのひとつやふたつでそこまで目くじらを立てなくてもよいだろうに。

 ふたりきりになるとまた、しん、と沈黙がおとずれてしまった。


「……あのね」


 私はスミレ柄のティーカップにひとくち口をつけてから切り出した。


「私はあなたが好きだし、あなたと結婚したいし、あなたとずっと一緒にいたい。それをきちんと伝えておきたいと思って」

「……」


 クライルは唇を噛むように引き結んで、怖い顔で私をにらんでいた。ゆがみそうになる表情を、必死にこらえているようだった。

 表情はごまかせても、頬と耳が赤くなっている。そこまでして我慢しているのがおかしくて、思わず吹き出してしまった。


「もう。どうしてそんな顔なの」

「俺がにやにやしたら、気持ち悪いだろう」

「ふふ。おかしい。ひとこと伝えただけなのに……」


 あんまりおもしろくて、涙がぽろぽろあふれてくる。こんな単純な言葉にたどり着くまで、なんて果てしない道のりだったんだろう。


「あなたが好きだったの。ずっと、ずっと……」


 ひとつあふれ出したらとまらなかった。これだけの思いに蓋をしていたなんて、自分自身でも気がつかなかった。そうか、アレクシス様は私が自分自身にすら隠したこの気持ちに気づいていたのかもしれない、と思った。


「それなら俺だって負けない。ずっと、君が好きだ」


 クライルが手を伸ばして、頬の涙をぬぐってくれる。


「これからも?」

「これまでも、これからも」

「わたしも……」


 頬にあるクライルの手に自分の手を重ねながら、私は自分が子どもにもどったような気がした。むずかしいことはなにもなくて、ただ純粋に、クライルへの気持ちだけがあふれてくる。この気持ちが私の本心で、きっと私の一番の願いなのだ。


「ずっと一緒にいよう。今度こそ」


 クライルの言葉に、私は息を大きく吸ってうなずいた。

 私の涙が落ち着くまで、クライルは優しく私の頬をなで続けた。波立った感情が落ち着いて平静をとりもどしてくると、かすかに羞恥がこみ上げてくる。


「十分すぎるくらい伝わったよ」


 私がそっと視線を伏せると、クライルの手が頬を離れて行った。それが名残惜しかった。


「アシュテンハイン卿に話をしてみる」

「お父様に……?」

「在学中に結婚してはいけないなんて法律はない」

「……」


 ふっと胸に不安が浮かんだ。けれど私はクライルの言葉にうなずいた。

 すべてが好転する保証はもちろんない。それでも、もしまた別れがおとずれるとしても、未知の未来におびえて自分を偽るべきではないと思った。


「そうすればアニタも文句は言えない」


 意外と根に持っているらしい。ぼそりとつぶやかれたひと言に、思わず微笑みがこみ上げてくる。そう、いまを生きている以上、私にできるのは私とリリーとクライルと、みんなの選択を信じて進むことだけだ。


「そろそろもどるよ」


 残った紅茶を飲み干してクライルが席を立つ。いつの間にか窓の外は夕暮れに染まっていた。見送ろうと私も立ちあがると、クライルがためらいがちにちょいちょいと手招きした。

 クライルは私の頬に手を添えてしばし逡巡しゅんじゅんする様子を見せてから、こつんと額を押しつけた。鼻先がかすかに触れる。


「それじゃあ、また」


 そうささやいて、クライルは部屋を出て行った。私は彼の背中を見送りながら、ずっと遠い昔、クライルとすごした幼い日の記憶を思い出していた。

 十五才で学院に入学するまでの幼少期のほとんどを私は辺境のアシュテンハインで送った。そしてクライルもまた少年時代の多くの時間をアシュテンハインですごしている。

 アルセレニア建国と同時期に設立された騎士学校は、乱世の終わりとともにその役割を終えた。つまり現在のアシュテンハインには騎士を目指す少年少女のための教育機関は存在しない。そのため騎士を志す者たちは武芸に秀でた先達に師事し、個人指導を仰ぐのが一般的なのである。

 キャストリー侯爵は十才になったクライルを私の父にあずけた。それから十五才になるまで、クライルはアシュテンハインの邸で寝起きし、武術に関しては海軍に所属する武人たちから荒っぽい教育を受けた。

 クライルの剣術を粗暴だと言う人もあるようだが、それはアシュテンハイン仕込みの実用の剣だからかもしれない。キャストリー侯爵を継ぐ以上、きれいなお飾りの騎士でいるわけにはいかない、というのがクライルのお父様であるキャストリー卿の信念であり矜持だった。

 あれはいつのことだったろう。傷だらけのクライルを見かねて訓練所に乗り込んだ幼い私は、クライルをいじめないでと涙ながらに訴えた。そのあと、クライルに手を引かれて潮の香りが満ちるアシュテンハインの町を歩いた。

 アシュテンハインの短い夏が終わるころ、雨上がりの紫の夕暮れが私たちを包んでいた。空気のなかの塵や埃を雨が洗い流して、まっさらな涼しい風が吹いていた。

 胸の底に積もっていたおりを、涙がすべて押し流したのかもしれない。あの日と同じ風がいま、私を包んでいるような気がした。

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