第十五話(2)
翌日、私はキャストリー侯爵邸に使いを出して、「時間があればたずねてほしい」としたためた手紙を届けさせた。クライルは近衛騎士を務めるようになってから邸にほとんど帰らなくなったと聞いているが、おそらく侯爵邸の使用人が気を利かせて彼の手もとに届くよう取り計らってくれるはずだ。
リリーとの接触で私は過去の記憶をとりもどした。しかしはっきりと思い出せるのはあくまで自分が自覚して時間をくり返すようになってからのことだけだった。それ以前の記憶は部分的で、しかも現実だったか夢で見たのか判然とせず、かなりあいまいだ。
大量の記憶を一度に思い出したせいか、昨日の夜は頭のなかに過去が混沌と渦を巻いていて、ろくに眠れなかった。そのせいか朝からすこし熱っぽく、結局午前中をベッドの上ですごしてしまった。
そしてアニタがつくってくれたハニーレモン入りの紅茶がなつかしくて、これから気を抜けない戦いがはじまるというのに、ひどく安堵してしまった。リリーは謹慎が明けるまでゆっくりすごせと言ったけれど、たしかに、万全の状態で立ち向かうために、まずは休息が必要なのかもしれない。
――本当にいろいろなことがあった。
部屋で軽い昼食をとったあと、庭を散策してから書斎に立ち寄った。そこで精霊に関する本を一冊選んでソファに腰かけ、ゆっくりとページをめくった。
精霊信仰はアルセレニア王国だけでなく、この地上に存在するほぼすべての国家や民族に根づいた根本的な思想であり文化である。精霊は魔法力あるいは魔力とよばれる超自然的なエネルギーの集合体であり、精霊を否定するためには魔法力の存在自体を否定しなければならない。
まず、この世界の宗教について語るために欠かせないひとつの原典として、『フィタ』とよばれる書物がある。精霊語とよばれる難解な古語で記されたその書物には十四柱の神が登場する。
そして各国、各民族はそれぞれ十四柱の神のうちの一柱を主神として信仰している。たとえばアルセレニアでは第七の女神ともよばれる慈愛の女神セフィを、険しい山脈を隔ててアシュテンハインととなり合うノシュバルト王国では第一の
原典の解釈はもちろん宗教ごとに異なる部分もあるのだが、いずれの解釈においても十四柱の神ごとに精霊の扱いが異なっており、女神セフィにおいては精霊は彼女の臣下であるとされている。ちなみに軍神テューグにおいては精霊は彼の戦友であり、ノシュバルト王国民にとっての精霊もまた「人の友なる者」であると定義して、アルセレニアよりもずっと精霊という存在を身近にとらえている。
アルセレニアでは精霊は女神にかしずくもので、また女神によって地上に遣わされるものだとされている。女神はアルセレニア王家を祝福して、またアルセレニアのとこしえの繁栄を願い、アルセレニア王家に守護精霊を与えた。守護精霊は神界に住まう女神に代わり、アルセレニア王家に加護をもたらすのだという。そしてその守護精霊というがあのシャルノンなのだ。
慈愛の女神セフィは非常に寛容で、神殿の教えではつぐなえばすべての罪は許されるとされている。寛容ゆえに、女神は罪を許すが、あえて道を正しはしない。シャルノンがあくまで助言や手助けの立ち位置にこだわるのには、その影響があるのかもしれない。
そうなってくると、いや、そうだという気もしているのだけれど、彼の言葉に嘘はないのだろう。
――もうすこし信じやすいように振る舞ってほしいものだわ。
うす暗い地下牢で見た背すじの伸びたシャルノンの姿には、神秘的な気配があった。そしてあのすべてを知るペリドット色の瞳も。
彼が常に背中を丸めているのも、うっとうしい前髪も、精霊としての神格性を隠すためなのかもしれないが……少々やりすぎのような気もする。まさか変わり者のシャルノンがアルセレニアの守護精霊だとは、気づけというほうが無理だ。実はシャルノンはこの国の守護精霊なのだと吹聴したところで信じる者はいないだろう。
のどかな午後の陽ざしがあたたかみのある色合いを増してきたころ、私は歴史書を何冊か
そして空が夕暮れに変わるころ、クライルが邸をたずねてきた。今日の彼は昨日よりずっと冷静で、使用人を押しのけることもなく、アニタに案内されて私の部屋へとやってきた。
「
「ありがとう」
アニタが部屋のランプを調光して、うす暗くなってきた部屋が明るさをとりもどす。別のメイドがテーブルに二人分のお茶の用意をしてくれた。
「昨日、リリーと会ったの」
私はアニタたちが部屋を出て、ふたりきりになってから切り出した。
「シャルノンと一緒にたずねてきてくれたのよ。それで、あの子の顔を見た瞬間、思い出したの」
クライルは眉間に力を入れて私を見つめていた。私は彼に数歩歩み寄った。
「あなたを抱きしめていい?」
「それは」
昨日は問答無用で私を抱きしめたくせに、クライルはとまどいの色を浮かべた。クライルにあるのはおそらく最後の一周の記憶だけだから、私の心がアレクシス様に向かっていると思っているはずだった。
「あのときはもう、ほかの方法を思いつかなくて、あなたのいる未来を守りたくて精一杯だったの。あなたに私と同じ思いをさせてしまうことに、気づかなかったの」
私はせり上がってきた涙を隠しながらクライルの背中に腕を回し、彼の肩に額を押しつけた。
「おいて行ってごめんなさい」
「……もう、二度と」
ささやいて、クライルは私をぎゅっと抱きしめ返してくれた。クライルは二度と、とくり返して、私はうん、とうなずいた。
「だからあなたも、私をおいて行かないで」
「……約束する」
オーシャンブルーのドレスも、結婚の約束も、バルコニーでの口づけも、すべて遠い過去でクライルはそのうちのどれひとつおぼえていないはずだった。皮肉なことに、彼がおぼえているのはアレクシス様に恋する私の姿だけなのだ。
きっとこの抱擁は兄が妹にするようなもので、もう恋人同士のそれではないのかもしれない。そうだとしても、一緒に生きていける未来があるとしたら、きっとそれだけで十分だ。
「エリーゼ」
よばれて、私はクライルを見上げた。自分の頬をひとすじ、涙が伝うのがわかった。
クライルが背中を丸めて、鼻先が触れ合う。私は目を閉じてつま先立ちになった。私の唇にクライルの唇が触れて、ゆっくりと離れた。その途端に、涙があふれ出た。
――いまこの瞬間に時がとまってしまえばいいのに。
クライルは片手で私の涙をぬぐって、もう一度私に口づけた。それから、私たちは何度も、もしかしたら一生分くらい唇を重ねた。ついばむように優しかったキスはそのうち貪るような、口づけか捕食かもわからないものに変わって、私が酸欠で朦朧とするまで続いた。
これが兄妹としての愛情表現でないというのはさすがにわかる。
「……すこし、落ち着こう」
自分自身に言い聞かせるように言って、クライルは私をひょいと抱え上げ、椅子に腰を下ろした。彼は私をそのまま横向きにひざの上に乗せた。
私はくらくらする頭をクライルの肩にあずけて呼吸を整えると、ハンカチをとりだして彼の口もとを軽くぬぐった。
「口紅が……」
クライルはいまさら顔を赤くして、照れたように睫毛を伏せた。
「アシュテンハイン卿に殺される」
「あなたは私の婚約者だわ」
「君は知らないだろうが……」
すこしうつむいたクライルが不満そうに口もとをゆがませる。さっきまで私より大きな大人の男性だったのに、いまは少年のころと同じ面差しをしていた。
「昔、その……うたた寝している君に、つい、口づけて……」
「しらないわ。いつの話?」
「まだ子どものころだよ。それをアシュテンハイン卿に見咎められて、ものすごい剣幕で詰め寄られた。ほんの子どもの戯れなのに、それ以来顔を合わせるたびに結婚するまで節度を守れと……笑いごとじゃない」
クライルの話を聞きながらにやりとしそうになってうつむくが、ばれてしまったようだ。
「お父様には秘密にするわ」
いたずらのつもりでちょっとキスすると、クライルはまた顔を赤くした。口紅はもうつかなかった。
「それでも、節度は、守るべきだ」
台詞はまじめなのにひどくぎこちなくて、ふっ、と笑い声がもれてしまった。クライルは説得力のない声で「笑いごとじゃない」とくり返した。
私はふたたびクライルの肩に頭をあずけた。いつの間にか満ち足りた心地になっている。
――こんな日がくるとは夢にも思わなかった。
節度を守るクライルが、そっと私の肩を抱いた。
「……君はずっと、ひとりで戦っていたんだな」
クライルの優しい声に、私はゆっくりと首を横に振った。
「あなたはいつでも私の味方だった」
「……」
寄りかかったまま見上げると、クライルはぎこちなく微笑んでみせた。彼の胸には後悔や自責がくすぶっているようだった。
「リリーから聞いたの?」
「ああ。にわかには信じがたいが、実際にいま、過去にいるのだから……」
私の肩に置かれたクライルの手にかすかに力がこもる。
「俺は、なにが起こっても自分のなかの正義はゆるがないと思ってた」
クライルは神経質そうな顔だちで、一見すると冷淡な印象を受ける。アレクシス様のようなほがらかさはなく、デニス様のような陽気さも感じない。
クライルの外側はたしかに氷の貴公子で、鋭く冷たい気高さがある――
しかし、すこしつきあえば誰でもわかることだが、クライルという人物に冷血な一面はまったくない。むしろどちらかと言えば暑苦しいし、誠実と言えば聞こえはいいが馬鹿正直すぎるきらいもある。そこが彼の長所であり、また短所だった。策謀が渦巻く貴族社会において、まちがいなく弱みになってしまうだろう。
「
「みんなそうだわ」
「うん……」
クライルは私を抱き寄せて、私の髪に頬をうずめたようだった。
リリーは過去にもどるために、彼女の死にクライルを関与させた。とはいえ、リリーの自裁をクライルがよろこんで手伝うとは到底思えない。そこには計り知れない葛藤があったにちがいなかった。
それからしばらく、私たちはだまって、ただ互いのぬくもりを確かめ合っていた。そのうちに強めのノックがして、アニタが咳ばらいをしながら入ってきた。
「ご歓談中に大変恐縮ではございますが……」
アニタはクライルのひざの上にいる私を見てぎょっと目を見ひらいた。時計を見ると、クライルが訪問してから二時間近く経っている。夜も更けて、さすがに節度ある未婚の男女がこれ以上ふたりきりですごすような時間ではなくなっていた。
「仲がよろしいのは結構ですが……クライル様、節度は守っていただきませんと、私どもも旦那様に合わせる顔がございません」
「ああ、いや、これは……」
クライルはしどろもどろになりながら私をひざから降ろした。
「つい話し込んでしまっただけなんだ。思いのほか長居になってしまった、そろそろおいとましよう」
「ええ、まあ、積もる話もあるでしょうから」
アニタがちらりとテーブルに視線を送る。ふたつのカップに注がれた紅茶はすこしも減っていない。クライルがさっと自分のカップに手を伸ばして、冷めた紅茶を一気に飲み干した。
「ごちそうさま。それじゃあ、また……」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
アニタの視線から逃げるように、クライルがそそくさと部屋を出て行く。うっかり笑いそうになるのをこらえながら、私は自分の椅子に座りなおして、冷たい紅茶に口をつけた。
「あたたかいものを淹れなおしましょう」
「いいえ、大丈夫。ありがとう」
アニタの咎めるような口調に、私も少々ばつが悪くなってきた。
「そんなに心配しなくて大丈夫よ。クライルだもの」
「クライル様だからです。あのかたは、お嬢様が好きで好きでしかたないんですからね」
おおげさにため息をついたアニタは、クライルのカップを下げて部屋を出て行った。
私は手もとのティーカップのスミレ柄を見つめて「ええ、そうね」とささやいた。私はいままで、クライルの気持ちを甘く見積もっていたかもしれない。いまさら実感しながら、そっと自分の唇に触れた。
*
その後、謹慎が明けるまで、リリーやシャルノンからの連絡はなかった。学院の制服に腕を通すとやはりすこし大きかったが、顔色も悪くないし、すっかり弱っていた時期と比べればずっと健康的に見えた。
――なんだか、変な感じ。
終わったはずの人生が続いているというのは、なるほど妙な心地だった。
謹慎明けの今日の空は、相変わらず突き抜けるように青い。使用人たちに見送られながら邸を出ると、門の前に馬車が二台停まっていた。
そのかたわらに人影がふたつ、片方はクライルで、もうひとりは女子生徒――リリーだった。私がふたりに歩み寄るあいだに、一台の馬車が南門方面へと去って行く。
「おはよう……」
「おはようございます」
はじめての展開にとまどいながら声をかけると、いつもの無邪気さをとりもどしたリリーがぴょこんとはねた。
「お話ししておきたいことがあって」
「ええ。もちろんよ」
リリーがひょいと馬車に乗って、私もそれに続いた。そして最後に少々居心地の悪そうなクライルが乗り込む。私とリリーが向かい合って座ったので、クライルは私のとなりに腰を下ろした。
「クライル様の記憶についてはいま確かめました。ほとんど最後の一周分ですね。エリーゼさんがおぼえているのは……」
「はっきり記憶に残っているのは、自分が時間をくり返すようになってからのことね。それより前のできごとは断片的におぼえているみたいだけど、かなりあいまいなの」
リリーの声は私が知っている通り、明るく透き通ってほがらかだった。それでも記憶をとりもどしたせいか、いままでのリリーよりも大人びて感じた。
「私はだいたい全部おぼえています。あとはアレクシス様がどのくらいおぼえているかですね」
アレクシス様の名前を聞いて、どきりとした。彼にどんな顔をして会えばよいのか、昨日の夜からずっと考えている。アレクシス様ならすべて受けとめて許してくれる、そんな予感はしているけれど……。
「ひとまず、今日の昼休みに研究棟の温室に集まりませんか? あそこなら人もほとんどこないですし……」
「ええ。わかったわ」
「この際、カティア様とデニス様も巻き込みましょう。あのふたりは信用できます」
「信用できない人間もいるのか?」
だまって腕を組んでいたクライルがリリーの言葉をとらえてそう聞き返した。同僚のデニス様やカティア様にそうするような、ややぶっきらぼうな言い方だった。
「神殿関係者には注意してください。神殿派の貴族たちもです。それからアレクシス様の即位を望んでいない人たちも、ですね」
リリーは落ち着いた声で質問に答えた。これがあの天真爛漫な少女だろうかと思うほど、いまの彼女は凛として大人びていた。
「あと、先に言っておきますけど、エリーゼさんのうばい合いはやめてください。ただただ不毛です」
「そんなことは……」
「色恋沙汰でもめるのは全部解決してからでお願いします」
リリーに指摘されてクライルが口ごもる。私は気まずさを隠しながらあいまいな笑みを浮かべた。
「それからクライル様、私を手にかけたこと、うしろめたくは思わないでください。本当に感謝しています。ひと思いにやっていただいて本当に助かりました。じわじわ弱って死ぬのが一番つらいんです。わかります? あれ、ほんっとうにしんどいんです」
リリーはいたってまじめに、熱を込めてそう語った。内容自体は不穏だが彼女が言わんとすることはわからなくもない。
彼女に降りかかった多くの死のほとんどが、苦痛をともなったはずだ。何度も何度もくり返して、私がいつしか彼女の死に慣れてしまったように、彼女も自分自身の死に慣れてしまったのだろう。そもそも慣れなければやっていられない。
「あ、ああ……」
クライルが押し負けると、リリーは懸念が解決したとでも言いたげに、満足そうな顔でうんうんと大きくうなずいた。
「リリー」
私は、きっと私よりも苦しみを重ねた少女を見つめた。
「もう、時間はもどらないのだから……」
「はい。誰も犠牲にならない未来を手に入れましょう」
リリーはまっすぐに私を見つめ返してそう言った。彼女の寛容な瞳には強く、そしてしなやかな意志が宿っていた。
「そのために、私はここにいるんです」
短剣を握りしめて、彼女は一度とまってしまった。折れて、折れて、折れ続けて、現実に打ちのめされてしまった。それでも誰が彼女を責められるだろう。
誰も犠牲にならない未来なんて、夢物語だ。それなのにリリーは無謀にも過去にもどった。たったふたりの友人を救うために、彼女はこの国の命運を賭けた。打ちのめされて心折れた先で、それでも彼女は立ちあがった。
彼女はただただ無謀で、愚かで、しかしあきれるほどに神々しかった。
やがて、私たちを乗せた馬車はつつがなく学院の正門へと到着した。まずクライルが降車して、その手を借りながら私とリリーも馬車を降りた。
「おはよう、エリーゼ……」
なつかしい声にぱっと振り返る。微笑みながら私に声をかけたアレクシス様がぴたりと立ちすくんだ。ヘーゼルグリーンの瞳は私を通り過ぎて、リリーに導かれていた。
アレクシス様が徐々に微笑みを消して、驚いたように自分自身を見下ろす。私と同じようにリリーと再会して記憶をとりもどしたのかもしれなかった。
「私は……」
呆然としたアレクシス様の視線が私へと移る。
「おはようございます。また、お会いできて……」
なにを言えばいいかわからないまま、言葉が口をつくままに任せたものの、声がふるえてしまった。泣き出しそうになった私は唇を噛んで、ごまかすように微笑もうとした。
私はアレクシス様に腕を引かれて、そのまま彼の胸に収まった。クライルと比べたらずっと華奢で、それでも力強かった。
にわかに周囲がざわめく。それでも、衆目を気にする余裕はなかった。私はしっかりとアレクシス様を抱きしめ返した。
「ごめんなさい」
「君はなにも悪くない」
涙腺がすっかりもろくなってしまった。あふれる涙を隠そうと顔をそむけて、アレクシス様の胸に頬を押しつける。ぬくもりと一緒にたしかな心音が伝わってきて、それがまた胸に迫った。
「ん、んーっ、オホン!」
わざとらしい咳払いに我をとりもどして、私たちはそっと距離を取った。
「エリーゼ様大丈夫ですかあ!? ああーっ、ここ石畳が割れてますよぅ、危ないですねえー!」
咳払いの主――リリーは、続けてわざとらしい大声で状況をごまかそうとした。私はさっと涙をぬぐって彼女の芝居に乗った。
「ありがとうございます。転ぶところでした」
「あ、ああ。けががなくてよかった……」
アレクシス様もリリーの意図に気づいたと見えて話を合わせてくれる。
「咳払いはクライル様の役目でしょ。しっかりしてください」
リリーがクライルを小突きながらぼやくのが聞こえて、ふっと気が抜けた。そしてここで盛大に噴き出した者がひとり。
「デニス、笑うな」
「いや、そうだなお前の役目だよなと、ひっ、ふっ、思って」
むっとしたクライルに、笑いを隠しきれないデニス様が油を注ぐ。そして眉をしかめたクライルが咳払いをひとつ。するとリリーが「いまですか?」とあきれて見せたので私とアレクシス様、カティア様までもが笑わされてしまった。
「過去に学ぶのは、過去にとらわれることとはちがいます」
リリーは大人びた微笑みを浮かべて私とアレクシス様を振り返った。私は自分のなかの後悔と感傷を認めながら、ただそれらに溺れることなく、アレクシス様を見上げた。
「今日は、よい朝ですね」
未来は過去になり、私たちはもう一度未知をはじめる。後悔するのはまだ早い。
「そうだね」
アレクシス様はいつものように優しく微笑んだ。
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