1-4.おれには過ぎた相棒
そういえば、お化けに遭ったときの対処法は小学生のとき以来、まともに聞いたことがなかった。当時はトイレの花子さんだって怖いと思えたものだった。
しかしいくらなんでも、さすがに三十も後半に入った男が、真面目に九字を切るなんてするとでも思ったのだろうか。
そんなもん、高校三年生のころには卒業してたよ!
「うぉおおおお!!!」
ということで、おれは走っていた。所轄時代によく走り、捜一勤めのときだって、まあまあ走ったものだ。週二、三回はジムに行く。そんなおれの体力だから、どうにかなったというのはさすがにうぬぼれだろうか。
背後を振り返る余裕はなかった。ただ、背筋を走る悪寒は絶えずおれのスタミナをメンタル面から削っていく。心拍数が上がっているのは気のせいではない。激しい緊張感と、この世ならざる存在への恐怖とが、臓腑の内側でのたうちまわっている。
歌舞伎町の通りを三丁目から二丁目に駆けて疾走し、閉店ガラガラの街を風のようにすり抜けた。目的地は特にない。ただ安全とわかる場所まで、移動を続けるだけだった。
「……かさん、浅岡さん!」
薗田警部補からの無線は、まだ切れてなかった。
「なんだ?!」
「いまどこですか」
「二丁目のほうに走ってる!」
「二丁目? ……って、どっち」
「ゲイバーがあるほうだよォォオオオ!!」
「ゲイバー? すみませんなんですかそれ」
おいおい。ちょっと待て。「──それに、ここは一体どこなのでしょうか」とか聞きたくない言葉が連続して耳を駆け抜けた。
冷や汗が出たのは、きっと背後に迫った恐怖のせいではないはずだ。
だれかが「ホントに怖いのはお化けよりも人間のほうだ」って言ってた気がする。だが、それは妖怪よりも人間の悪意のほうが具体的だから怖いという意味であって、まさかこんな状況下における〈方向音痴〉がこれほどまでに恐ろしいとは思いもよらなかった。
走馬灯が頭をよぎった。大して面白くもなかった若い頃──ヤンチャを重ね、やさぐれた中学生と高校生時代を過ごし、大学だって学力で取ったわけじゃなかった。おふくろはさんざん泣かせたし、おやじにもさんざん殴られた。厳しい家庭だったから校舎のガラスを破る、そんな典型的な不良だった。
公務員、それも警察を目指そうとしたのは本当に偶然とでもいうべき巡り合わせで、恩人と呼べる人から薦められたからだった。
『お前は人を
交番勤務の〝お巡りさん〟だった恩人は、
そんな人が薦めた〈警官〉という進路は、最初は話半分に聞いていた。しかし高校卒業ごろに景気が悪くなって、イマイチ進路を決めかねていたちょうどそのときになって、思い出したのだ。
思えば、だれかに何かを薦められるなんて初めてだった。その人のことを真剣に見つめ、人柄を理解した上であえて「なってみろよ」と気軽に誘ってくれた。それは、ついうっかり不良になったときと同じ、不思議な充実感があった。
だれかのためになるなら、きっとなんとかなる。おれはそのために進路を決め、足りなかったアタマのツケを、底辺大学での公務員試験勉強でたっぷり支払うハメになった。
結果、試験は落ちた。仕方なく一年留年し、就職活動を決めた傍らで公務員試験へのリベンジを二回──ついに警官になったところで恩人はポックリ逝ってしまった。
まるでおれが警察になるのを、見守るかのように、その人は胃癌で死んだのだ。
結局、どういう意図があってあの人がおれに『人を救ける才能がある』と言ったかは分からずじまいだった。
ただ、やってみて警察の現場仕事は意外と〝合って〟るなとは思った。
地域課(
おれができること。おれがやりたいこと。それを必死に、必死になって積み上げて、今ここまで生きて来られた。
それが、いまはこのザマだ──
『……けて、たすけて』
子供の声だ。小学校高学年くらいの、声変わり直前くらいの、声。
それがおれに向かって、助けを求めるように話しかけている。
とっさに振り返った。
そして、見た。
でかい麦わら帽子、白いワンピースに身をまとった、巨大な形をした肉体──の破片がつぎはぎになったその化け物を。
目はそこらじゅうに埋め込まれ、顔の目鼻があるべき箇所に小さな口が開いていた。乳歯と永久歯が入り混じって開閉するその内側から、まぶたと目が見えて、おれと目が合ってしまった。
『……けて、たすけて』
「うぉおおおお!!!」
おれの肺からすべての空気が漏れ出た気がした。心拍数が急激に上昇し、足がもつれそうになる。その瞬間を怪物は見逃さない。『八尺様』は体格を駆使しておれに覆い被さり、唾液を撒き散らしながら、その口だらけの顔を押し付けようと試みた。
カチカチと噛み合わせの悪い歯がおれの服の裾に引っかかる。強い力で腕がねじ伏せられる。抵抗も無駄だった。あと数秒で口が皮膚にたどり着こうとしていた。
さすがに、もうダメか──と思った。
だがそれもつかの間、横一閃に風が突っ切ったかと思うと、日本刀をぶら下げた青年が『八尺様』を切り裂いたのだ。
『ああああああああ』
『やめてやめてやてめやためて』
『痛い痛い痛い痛い』
無数の悲鳴が、口々に──
「黙れや化け物」
フードを被った青年は、ひゅう、と口笛を吹いて日本刀を振りかざした。職業柄、剣道を少しかじった程度だが、そんな
かれは『八尺様』が起き上がるより、ほんの一瞬呼吸の隙間を縫うようにして、スッパリ刃を振り下ろす。
おれはその一部始終を、瞳孔が開いたままずっと見つめていた。
目に、焼き付けていた。それはもしかして、ひょっとすると──という気持ちが、安易に目を逸らしてはならないと心のうちに告げていたのだった。
ひと仕事終え、もう動かなくなったそれを長靴の先で突くと、青年は振り向いた。日本刀をすらっと納め、ツカツカと歩み寄る。
「大丈夫かい、にいちゃん」
「あ、ああ……」
手を取る。そして引き上げられるようにおれはパーカーの青年に起こされた。その腕力はおれの比ではない。
が、上着の下に隠れていたから、近づくまでは全く気が付かなかった。
「なにも言わなくてもいいぜ。〝見届け〟の業者さんなんだろ?」
おれは返事に困った。青年は的を射たりとにやにや笑った。
「大丈夫だよ。覚えてないことにするから。いちおうどういう
青年は自らをNGO法人所属の〝清掃業者〟であると触れ込んだ。
「いつか、〝お掃除〟が必要になったら電話してよ。すぐ駆け付けちゃうから」
そう言って、たったかと、まるで真夜中にランニングでもしてたかのように穏やかに去ってしまった。
あとに残されたのは、5Lビニール袋複数に詰まった『八尺様』の残骸と、おれ。
「あ」
思い出して、薗田警部補に連絡する。肝心の園田茉莉花はようやく隣りの番地まで来ていたらしく、おれが口頭でナビの代わりをすることでたどり着いてくれたのだった。
「まったく。世話を焼かせますね」
「それはこっちのセリフだ」
薗田警部補は、おれからことのあらましを聞き届け、『八尺様』の残骸を見つめると、「科捜研に回しましょう」と言ってのけた。
「科捜研?」
「はい。ツテはあります。個人的なコネですが」
言いながら、薗田警部補はおれに〝業者〟と顔を合わせてしまったことや、怪異に対してまともな装備をしていなかったことなどをこんこんと説教した。
面目ない、と思ったが、かれらはかれらでもともと気づいていたようだった。これはべつにおれのせいではない気がするのだが、気のせいだろうか……
後者については、個人的な疑問もあった。さっきの青年は明らかに物理的な効き目のある武器を使用していた。ならばニューナンブのモデルとはいえ、拳銃だって効くのではないか、と。
薗田警部補は首を振った。
「おそらくその刀剣は真言
「そうなのか?」
「はい。
「言い方」
「そもそも怪異とは実体ではないんです。目に見えない力によって動くドローンのようなものでして、物理的な攻撃や破壊が、無意味なのですよ」
「……ん? だが物理的にとことん破壊されたら、何にもできないんじゃないか?」
「そうとも言えません。〝その力〟は
喩えてみるならば──と、薗田警部補は手のひらをかざし、指で遊ぶ動作をした。
「操り人形のようなものです。物理的なもの──ここでは怪異の〝肉体〟に当たるものを破壊しても、糸が付いている限りそれは動き続けます。実際には自己修復能力があったりするので、単純な破壊では根本的な解決にはなりません。もしやるなら、戦車大砲ミサイル等を駆使して
その言葉が暗黙に示したのは、例の〝多摩川事変〟における未確認巨大生物への対応のことだろう、とは思った。自衛隊の装備を徹底活用した激戦で、もう少し対応が間に合わなければ米軍の介入もあり得たという談話も、いくつかの紙面に掲載されていた。
だが巨大生物を徹底的に粉砕するレベルの物理的な破壊と言えば、それこそ市街地への被害は尋常ではないはずだ。だからなのか多摩川の戦場だったその場所には、いまなお人が住めないままだと聞いている。
現在の米国大統領ジョン・マッケンジーは強硬派としても名高い。今度もし巨大生物が出現し、自国民への危害を加えるようであれば戦術核の使用も辞さないと豪語している。公安的にも国際安全保障的にも、この「最悪の事態」を避けるためにあらゆる研究と根回しが模索されているのだった。
薗田警部補は続けた。
「だから、もし怪異と接し、無事でいたいなら〝糸を切る〟ということを意識してください。
「へー、なるほどな」
「わたし、ふざけてるように見えました?」
「いや。そういうことじゃないんだが」
「……?」
「なんか、
「法律で定義されていない〝敵〟ですか」
「ああ。まさかこんな、科学的に説明しょうがないモノをどうやって捜査して取り締まれっていうんだよ。法でも裁きようがないじゃんかよ」
公安警察だって──大枠で言えば行政配下の捜査機関として、法の名のもとに立件・起訴する。そりゃあもちろん、監視カメラや諜報活動を通じた非合法な情報源や手口があるのは確かだ。それを正当化しようとも思わない。しかし公安警察だって、法律の外側に位置する悪党や問題を立件できるほど、おぞましい存在ではないのは確かだった。
「お化けに国境や法律なんてあるわけないじゃないですか」
園田警部補はじつに端的にそう言った。
「国境も法律も、結局のところ人間が自分自身の社会と集団をコントロールするための枷に過ぎません。怪異にとってはそんなものは無意味です。森や動物を法で取り締まることができないのと同じなのですよ。しかし、
「怪異を装った人間?」
「はい。わかりやすく言うなら、包丁などの刃物は〝日用品〟である限りわれわれと同居できますし、その存在は平気で売買されます。しかしそれを人に向けて使用したとき、〝凶器〟となる──」
言いたいことが、わかってきた。
「つまり、この特殊事案を利用してる連中が、具体的にいる、と」
薗田茉莉花はうなずいた。
「一時期わたしが嫌いなフレーズが流行りました。『妖怪のせい』──とかなんとか。あれですよ。世の中には理屈で説明できないことを、過剰に理屈で説明してわかった気になる商売が多すぎます。そしてそれを使えば利権になるとよく知っている人間もたくさんいます。問題は、そこに
「これが、これが真実……?」
おれは『八尺様』の肉塊を見た。薗田警部補は腕時計を見て、それから遠くからパトカーのサイレンが来るのを捉えて顔を上げた。
「行きましょう。あとはかれらがやってくれます」
そう言って、つかつかと歩き出していく。その向かう先は、もちろん駅ではない。
「おい、タクシーは」
「要りません。迎えが来てます」
聞けば、都庁近くにリムジンが停まっているとのことだったが……まじかこのやろう。
おれは走って汗だくになっていた身体が、すっかり冷えているのを感じた。ぶえっくしょい、とくしゃみをして、あらためて寒さに身を凍えさせていると、薗田警部補がだしぬけに戻ってきて、雨ガッパのような上着を放り投げた。
「使ってください。返却は不要です。どうせ捨てる物ですので」
「言い方」
「それと、『八尺様』に近接した人間は呪いを受けている可能性があります。解呪法を記載したメモをお渡ししてますので、それが終わるまでは出社してはダメです。報告書は代わりに書いておきますので」
最後まで言うや否や、薗田警部補はまた振り返ってスタスタと行ってしまった。追いかけようかと思ったが、呪われてるのを
結果、始発前の最も夜が暗い時間、おれはただひとり新宿に取り残されたのだった。
テキパキしすぎてるのも考えものだ。
まったく、おれには過ぎた相棒だよ。
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