第8話 おまえなんか大嫌いだ
「──なんだ八咲、知り合いか?」
八咲が僕に微笑みかけてから、少しだけ空気が沈黙した。
しかし、野太い重低音の声がそれを破る。
声の主は、五代 皇巳部長で間違いないだろう。
「おっと、稽古をつけてもらったのにすぐ挨拶に向かわないとは、とんだ失礼をしてしまった……すみません五代部長」
「なに、かまわん。俺はちゃんとした師範でもねぇんだから、かしこまる必要はない……それにしても、強いな八咲。最後の相面は完全に見切られた」
フ、と強面の顔が柔らかく緩む。
この人が五代 皇巳か。ガタイが良いとは思っていたが、そのガタイに似合う、岩石のような顔をした人だ。眉は力強く逆八の字になっており、口元もどこかへの字になって口角が下がっている気がする。それに目付きがすごく鋭い。あの目で睨まれたら恐怖で震え上がるだろう。色黒で、髪はツーブロックの短髪。まさに武道家のお手本のような相貌だ。
実力は先程の稽古で十分わかった。巻き技を繰り出されても慌てず次の動きに対応する冷静さは見事だった。鍔迫り合いも自分が有利になるよう、すぐに打つのではなくまず姿勢を崩し、竹刀まで弾く対処ぶりだ。
しかもそれが手首だけで行うのだからすさまじい連携スピードである。確実に一本取れるように組み立てられた戦法だった。体格、スピード、竹刀コントロール、判断力、どれを取っても確かに五代部長はレベルが非常に高いと思える。
しかし、真に驚くべきはそれを真正面から打ち破った八咲だ。
予備動作なしで繰り出した巻き技、その正確性。竹刀を巻き込むと言ったが、まっすぐな竹である竹刀を使って相手の竹刀を巻き取るというのは難しい。
その巻き技を難なく成功させる技量、面から小手打ちに切り替えても確実に小手を打ち抜ける軌道へ修正できる手首の強靭さと柔軟性。面という狭い視界でずらされても即座に対応策が打てる判断力。小さい体で五代部長を弾き飛ばす体当たりの強さ。
──そして、相面の完成度。
この前まで俺と同じように中学生で、しかも女子とは思えない強さだった。
間違いなく八咲は刀哉の言うように全国級……確かに優勝まで狙えるレベルだった。
どうして大会に出ていなかったのだろうか。もったいない。
「それで、霧崎に連れてこられたおまえが新入生か? 俺は部長の五代 皇巳だ」
五代部長の視線がこちらに向く。鑑定するような目つきに晒されて、体に力が入る。
ん? 霧崎? ひょっとして。
「五代さーん、コイツ、達桐 剣司っていうんすわ。俺の幼馴染っす。まさか同じ高校に入学してるとは思わなかったですけど。爆笑っすわ」
やっぱり、刀哉もすでに五代部長と知り合いだったんだ。
「ほう……ん、達桐?」
──ピク、と僕の中で一瞬だけ時間の止まる感覚がした。
マズイ、この流れは。
「……霧崎、おまえ、ソイツに腕折られたんだろ」
ざぐり、と容赦のない一言が僕の心を斬りつけた。
「折られた、とは思ってないっすけどね。春休みに稽古来させてもらった時も言ったっすけど、アレは俺が悪かったんすよ。自業自得っす。今コイツはちょーっとナヨナヨしてっけど、いずれは最高に滾る剣道をしてくれますよ」
「またそれか、いい加減にしろよ刀──」
「うるせぇよボケ」
哉、と言い切る前に、僕の両頬は刀哉の大きな左手によって鷲掴みにされた。
「萎えること言ってんじゃねぇよ。俺がどんだけの地獄を踏み越えて戻ってきたと思ってんだ。すべてはおまえとケリを着けるためだ。俺の九ヶ月の努力を無にする気か? あ?」
左手を振り払う。クソ、顎が軋んだぞ。なんて握力してやがるコイツ……。
そんなこと知るか、と言うこともできた。おまえの努力なんか知ったことかよ、と。
でも、それを言ってしまえば、僕の中にある何か大事なものが壊れる気がした。
それだけは言っちゃダメだ。絶対に……。憶測だけど、憶測でしかないけれど、刀哉は僕の想像を絶する苦痛を乗り越えて、今ここにいるのだから。
やるせない感情を握りしめて、俯くのが関の山だった。
沈黙が挟まる。外からは登校してくる生徒の明るい声が聞こえてくる。
床板が軋んだ。誰かが体重を乗せ換えた。
「……僕は、剣道部には入りません」
「──、テメ、また……ッ」
一瞬で顔に血を上らせて詰め寄ろうとする刀哉を、八咲が制した。
「僕は剣道部に入るつもりは……ありません。あの試合からずっと、誰かと稽古することができないんです。稽古のできない部員なんて、いても邪魔なだけでしょう」
一度堰を切ったら、思ったよりするりと、拍子抜けするくらいあっさりと言葉が出てきた。
刀哉の血反吐に塗れた努力を否定するつもりはない。
でも、それとこれとは話が別だ。どれだけ刀哉が僕との再戦を渇望し、そのために再起したとしても、僕が剣道をすることができない事実は変わらない。変えられない。
「……」
五代部長が押し黙ってしまう。
致し方ないことだが、そうやって押し黙られてしまうとこちらとしてもどうしたらいいか分からない。無理に明るく振舞って、何でもないようにした方がいいというのは分かるが、心ではそう思っても体が言うことを聞かない。
今こうやってまともに立っていられているだけでも幸運ともいえるのだから。
もうこのまま全部放り投げて立ち去ってやろうかな……。
そんなことを考えている時だった。
「なんだ達桐。君は臆病者だったのか。情けないな」
なんてことを言い出した奴がいた。
「──は?」
唐突に投げられた辛辣な言葉に、思わず目を見開いて呆然とする。
言い出したのは八咲だ。両腕を組んで、呆れたとでも言いたげな顔で言葉を続ける。
「聞こえなかったのか? ならば何度でも言ってやろう。君は臆病者で情けない、と言ったのだよ。理解できたかな?」
「な、な」
「なんだ? 文句があるなら言ってみたまえ。それとも、なぜそんなことを言われるのか分からない、とでも言いたいのか? では仕方ない、教えてやろう」
そのまま、僕の思考が真っ白になって何も言葉が出てこないのをいいことに、八咲は僕をまっすぐな視線で射抜いたまま言葉を続けた。
「人を試合の最中に傷つけた。なるほど痛々しい話だ」
そこで一度息を吸い、力を籠めて八咲は言った。
「だが──それがどうした?」
八咲は驚愕する僕に構わず続ける。
「武道だ。私たちがやっているのは武道だぞ。人を殺傷する武具であった刀を、安全な稽古の道具として改造したのが竹刀であり、それを使って打ち合うのが剣道だ。確かにより安全になったかもしれないが、結局人の体を打つ以上、負傷の危険性は常に付き纏う」
呆気に取られて、何も言えない。
「しかも試合だぞ? お互いに一本を取る……命を獲るか獲られるかのやり取りをしている最中だ。そんな中で怪我をしない、というのは理想論ではないかな? 無論、互いに怪我無く円満に終えるのが最善さ。だけど、全てがそうなるとは限らない」
言われるがままだ。
「もしも君が怪我をさせ、挙句に命を落としたとしよう。そうしたらさすがに剣道ができなくなる気持ちもわかるさ。……だが、刀哉は死んだのか? いや、一生ずっと剣道ができない体になったのか? いやいや、末代まで呪うといった呪詛の言葉でも吐いたか?」
「……い、いや」
八咲の横に立つ刀哉の顔を見ることができない。眩しすぎて、直視できない。
刀哉は九ヶ月という長い時間で立ち上がり、再び剣の道を進み出した。
鈍間な僕を置いていきながら。
「そうだろう。ならば何故悩む? 君を縛っているのは君自身じゃないか。君が臆病者で憐れで情けないから、未だ周囲に迷惑をかけ続け、未だに剣道ができないままなんじゃないのか?」
「──ッ!」
ブチ、と僕の中で何かが千切れる音がした。
左の目の下がピクリと動き、思考が全ての回転を放棄し、火花を散らして爆発する。
「お、まえ……よくもそんなこと言えたな……どれだけ、僕が苦しんでいるか……そんな立場になったこともないくせに」
「ん? ああ──そうだな、そういうことにしておこう。刀哉から一連の話を聞いている。その上で言おう。君たちの一件は不慮の事故だ。刀哉に謝ったんだろう? 刀哉はもう気にしていない。ならそれでいいじゃないか。なのに自ら傷を抉るようにいつまでもウジウジと。情けない以外の言いようがないじゃないか」
ダメだ。限界が来た。いい加減にしろこの女。どこから目線で高説垂れてやがる。
「おまえに分かんのかよ、自分の体重で人の骨が折れた時の感触、音! 手に伝わる友達の血の温度を! 友達を酷い目に遭わせて、何でのうのうと剣道ができるってんだ!」
「君も分からない男だな。それで刀哉は、君に一言でも呪詛を吐いたのかね? 報復をしようとでもしていたのかね?」
「……そ、れは、」
「するワケねーだろ」
刀哉が腕を組みながら即答した。
そうだ。刀哉はそんなことをしない。コイツは、どんな逆境であろうと不屈の精神で乗り越える、踏破する。決して輝くことを止めない太陽のような男なのだから。
「だから再三言ってんだろ。俺はおまえとのちゃんとした決着しか望んでねぇ。俺はそのために剣の道に戻ってきた。この九ヶ月──おまえを恨んでいる暇なんかなかったよ」
……刀哉が眩しい。目が痛い。見てられない。コイツはどれだけ雲で覆い隠されようと、関係と言わんばかりに僕を照らしつける。
八咲の正論が容赦なく心を抉る。触れれば差別なく切り裂く刃のようだった。
分かってる。刀哉は僕を恨んでない。刀哉は前しか見てない。余所見なんかしない。
それ、でも。それでも。
八咲が正論で僕を焚きつけて、刀哉がまた楽しそうに剣を振る姿を見ても。
僕が僕を、どうしても許すことができないんだ。
大事な友達に重傷を負わせてしまったロクデナシの僕を、肯定することができないんだ。
「……」
ふるふる、と小さく首を振るう。自分でも何を意味していたかは分からない。
ただ、少なくとも、前向きな感情ではなかったと思う。
「あ、剣司ッ!」
たまらず、道場から逃げ出した。
刀哉が止めようとするが、また八咲が制しているんだろう。追ってくる様子はなかった。
……意味が分からない。
「クソ……なんなんだよ、八咲の奴……ッ!」
臆病者で、情けない。
数々の言葉が、あまりにも的確に僕の胸を、心を抉った。
まともに言い返せなかった。いや、言い返す気力も湧かなかった。
「うるさい……うるさいんだよ……ッ」
ギシ、と出せる力全てを籠めて歯軋りをする。
「おまえの言うとおりだよ……ちくしょう……ッ」
僕は臆病者で、情けなくて。
傷口のかさぶたを剥がしては、いつまでも蹲って血を眺めているだけの屑。
それが僕──達桐 剣司の今の姿だった。
×××
「「「…………」」」
道場に残された霧崎、八咲、五代の三人は、達桐が去ったことで完全に黙してしまう。
しばし重苦しい沈黙の後、五代が大きなため息をこぼし、
「八咲……事情はよく分からんし、部外者が口出すことでもないかもしれんが……ちょっと言い過ぎなんじゃねぇか。第三者から見てもどうかと思うぞあれは」
「……誠にすまない、五代部長。また時が来てから説明するよ」
そう言っておどける八咲に対し、やれやれと呆れたような仕草を見せる霧崎。
「沙耶ぁ、らしくねーな。珍しく感情的だったじゃねぇか」
「……そうか?」
「ああ、流れで便乗したとはいえ、あそこまで言うとは思わなかったわ」
「……反省は、しているよ。少し、言い過ぎた」
「どうすんだ。距離取られちまうぞ」
指摘され、八咲が沈痛な面持ちで自分の髪をかき上げた。
うーん、と唸りながら腕を組む霧崎。
そんな霧崎に、八咲が口を開いた。
「まぁ、何とかするよ。私たちの『夢』に、彼は欠かせないからな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます