見えない弱さ
「かつては建前――綺麗な体裁を取り繕う意識によって、人々は弱者を受け入れてきた」
「そうだな……」
「そして今の民衆に唯一残されている建前は、純然たる悪意よりも厄介だ。どうせ楽園システムが弱者を消してくれるから、大衆にとって、弱者の置かれる状況は他人事だ。ゆえに最後の建前として、連中は積極的安楽死に反対する」
こうなればもはや、建前による生殺しのようだものだろう。芽衣は心で理解を拒んでいるが、理性で全てを理解してしまう。
「その方が、奴らも綺麗な体裁を保てるからか……」
「ああ、そうだ」
「くだらねぇ……そんな空っぽの体裁のために、オレが悪者にされたって言うのか!」
彼女が憤ったのも無理はない。弱者に決して優しくない世界が、安楽死という制度を示唆されただけで善人のふりをし始めたのだ。その事実は、勇樹からしても憤るに値することである。
「自らが悪者になる覚悟など、連中にあるものか。楽園システムの最大の欠陥は、悪意を持つ者たちに責任が生じないことだろう。自ら行動しなくとも、奴らは己の望みを叶えるのだからな」
この状況を招いたのも、その前に福祉を破壊したのも、全て楽園システムだ。本心では楽園主義そのものに反対している勇樹も、楽園システムの裏をかく形でしか抗うことができない。そんな彼に対し、芽衣は一つだけ疑問を抱いている。
「一つ、聞いても良いか?」
「なんだ?」
「
確かに、ここまでのやり取りから鑑みるに、彼の脳や肉体にはこれといった「弱さ」が見当たらない。されど彼は、弱者のためにビクティムを結成し、指揮を執っているのだ。一見、それは芽衣に理解できることではない。しかし勇樹にも、当然ながら事情はある。
「そうだな。多くの人間から見れば、俺は普通だろう。だが弱さというものは、目に見えるものだけじゃない。他者には見えない弱さを抱え、他者には見えない形で社会からはじかれる……俺は『そういう弱者』だ」
「見えない……弱さ……」
「ああ、そうだ。それは医学が匙を投げる弱さであり、俗世間からは怠惰のせいだと断じられる弱さだ。治療法のない欠陥を抱えることは、安全圏に立つ人間から見れば自己責任でしかないだろう」
見えない弱さを抱える弱者――それが彼の正体であった。眼前の元婦警が真剣な眼差しで話に聞き入っているのを確認し、彼は続ける。
「……弱者が存在すれば、社会に不都合が生じる。ゆえに連中は、弱さを罪とする大義名分を欲する。だが楽園システムが証明した――大衆は、己の善性を保証しながら、弱者を排除したいだけなのだと」
兎角、楽園システムは「犠牲」を前提に成り立つ仕組みらしい。そして伴うべき犠牲に属している彼は、当然ながらそれに抗わざるを得ないのだ。
「すまねぇ……勇樹。オレには……オレには、民意を変えることはできなかった」
「……お前が気に病むようなことではない。お前の理想論は甚だ不愉快だったが、お前はその理想論を振りかざした分の責任を取ろうと奮闘していた。ただ理想を語るだけの人間と、世界を変えようとしたお前は……まるで別物だ」
「そうか。自分のことで精いっぱいだろうに、アンタはオレのことをそんな風に思ってくれるんだな。やはりアンタは、本来なら誰かの命を奪うべき人間じゃねぇよ。アンタはきっと、優しさで生きている人間だ」
この瞬間、二人は互いを認め合っていた。もっとも、それが勇樹の意思を変えるわけではない。
後日、積極的安楽死が合法化されなかったことを受け、ビクティムはテロを決行した。
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