12. 残響


ミツキさんは、自分が潰れると分かっていても、ひとりで苦しみ続けるつもりなのだろう。それは恋人を殺したからか、それとも部下だったミチルちゃんのお兄さんがミツキさんの為に命を差し出したからか。ミツキさんは短期間のうちに、身近な人間をふたりも亡くしていた。そんな男が何を考え、何をしようとしているのか、俺には分からないし、理解する事すら恐ろしく感じる。ただ、今の俺が感じる事は、ミツキさんはひたすらに苦しみ続ける道を選んでいる、という事だけ。それだけは確かだった。


リードは君に任せる、と流されるように吐き出して、シーツに埋もれたミツキさんを思い出しながら、マットレスの上に倒れこんだ。ミツキさんの香水の香りが微かに鼻を掠めては、心臓がトンと跳ねる。


俺は、あの日が最後だった、とは思いたくなかった。ミツキさんに触れて、茹だるような時間を過ごしたあの日。ミツキさんの熱と、どうしようもない悲しみに触れた、あの日。あれが思い出になってしまう事が怖かった。ミツキさんには苦しんでほしくはない。


けれど、ミツキさんはそれすら望んでいない。苦しみから解放してほしいなど、微塵にも思っていないのだろう。どうにかあの人の痛みを和らげたいと思う俺の傲慢さを一蹴するようだった。一度体を重ねたのだから筋は倒した、もう放っておいてくれ、そう意味が込められているのだろう。ミツキさんはあれ以来、俺を避けているようだった。


ミツキさんと話したい、と願ってはいるが、ミツキさんの部屋はいつもひと気がなく、何度もコインランドリーを訪れるが、顔を合わせる事はない。ストーカー紛いのように、毎日新聞受けから中を確認しているが、部屋の様子は変わらず、まだここにいて、生活している事だけは分かった。


どこかへ消えてしまう前に接触しなきゃならない。そう俺は焦っている。そんな俺の視界に、ふと映るランドリー用のカゴ。バスルーム近くに置かれて、見え辛いが、洗濯物は満杯になりつつあった。よし。これだ。


コインランドリーで張るしかないと踏んで、いつもの時間帯にランドリーに居座った。が、ミツキさんは当然のように現れない。翌日、再び新聞受けから中を覗くが、まだ洗濯はしていないようだった。近いうちにランドリーは行くはずなんだけどな…。そう考えながら、顎を撫で、俺は自分の部屋へと戻った。


完全に避けられてるなと自覚して数日。仕事帰りの早朝。欠伸をひとつしながら、コインランドリーに行ってみようかと足を進める。普段ならミツキさんは絶対いないであろう時間帯だ。しかし、あの満杯のカゴからして近いうちに行くだろうと予想していた俺は、隙があれば見に行くべきだと、そう思っていた。大きな窓ガラス越しに中を覗いてみると、いつものベンチに座って、うとうとと船を漕いでいる男の後姿がある。途端に心臓がぴたりと止まった気がした。そしてドッドッととんでもない速度で心拍数が上がる。ミツキさん、だ…。あの日以来のミツキさん。そう思うと、妙な緊張に鼓動が限界だと言わんばかりに速くなり、息苦しさを覚えた。そのまま咄嗟にランドリーのドアに手を掛け、中へ入る。



「こんな朝早くから洗濯ですか」



即座にそう問いかける。ミツキさんの瞳は俺を捉えると、あからさまに顔は引き攣り、げっ、と素直な感情が表情に現れた。そんな顔しなくたって良いのにな。



「…溜まってたんでね。良い加減、洗濯しなきゃならないだろう」



「まぁ、そうですよね」



俺は逃げられないように出入り口のドアの前を陣取り、近くの空の洗濯機に寄りかかった。ミツキさんを見下ろすと、ミツキさんはうざったそうに俺の視線を躱し、持っていた分厚い文庫本を開き出す。話しかけるな、話すつもりはない。そう言っているのだ。


でも、俺にとってミツキさんを見つけたら、話さないわけにはいかない。



「ミツキさん、避けられると傷付きます」



「…そう」



「避けてないって否定くらいしてくれるかと思ったんですけど」



「一体、何用なの」



用なんてない。ただ、話していたかっただけだ。消えやしないかと、目の届くところに一分一秒でも長く、置いておきたかっただけだ。なんて言えば、ミツキさんはすぐにでも立ち去ってしまう気がしたから、やんわりと本音を隠す。



「あれから見かけなかったんで、引っ越してしまったのかどうか知りたくて、探してました」



「つまり用はないってわけだね。だったら、ストーカー行為はやめて、もう放っておいてくれるかな。君にはもう二度と会うつもりはないから」



ストーカーって。新聞受けをパカパカしながら中を確認してたの気付かれてたかな。俺は片眉を上げながら考えた後、首を傾けて本を読むミツキさんを見下ろした。数秒、沈黙が流れる。ぽつりと俺は呟いた。



「ミツキさん、突然消えたりしないで下さい」



視線は小説の文章から離れそうになく、ミツキさんは無言のまま一瞬だけ眉間に皺を寄せて、ページを捲る。



「押しまくってあんたに嫌われたくはないですけど、でも、自分の気持ちに嘘も付けません。人を好きになるって初めて経験したんです。あんたを逃したら、もう一生、こんな風に誰かを想って突っ走る感情は得られそうにないから、…だからそう簡単に諦めはつきません」



思いを淡々と口にすると、ミツキさんは溜息を漏らす。



「…応えられないって、言ったはずだけど」



「分かってます。でも、想い続けるのは勝手でしょう?」



「なぁ、遥真君」



ミツキさんは開いているページに手を置くと、俺を見上げる。



「最後の願い、聞いてやったろう。頼むから、俺の事は諦めてくれないか」



「放っておいたら、あんた、いつの間にか消えるつもりでしょう。消えて、何も無かった事にするつもりでしょう。俺はそんなの、嫌なんです」



答えると、ミツキさんは少しの間を置いて、小説を閉じた。



「じゃぁハッキリ言わせてもらうけど、俺達が関係を築く事はない。俺と君との関係は、同じコインランドリーを使い、同じアパートに住む住人ってだけ。何もないんだ」



何もない、か。



「ねぇ、ミツキさん」



俺は洗濯機から離れ、ミツキさんの横に腰を下ろした。ミツキさんは怪訝な顔を見せる。



「あんたが言った『俺が大切にする人は、尽く短命だ』って言葉、俺はきちんと意味を理解してなかった。あの後、聞いたんです。あんたを慕ってた人、あんたの事をミツキさんって呼んでたその人、あんたの為に命を落としたって」




ミツキさんは何も言わない。俺はひとつひとつ思いを言葉にしようと、続けて口を開く。



「俺はね、あんたが怖がってくれてんじゃないかなって自意識過剰にも思うんです。俺があんたの近くにいるせいで、その人みたいに、命を落とす可能性がある事に対して、あんたは怖がってくれてんじゃないかって。俺はヤクザじゃないし、身を挺して何かを守るなんて、ちょっと考えにくいけどさ、あんたは自分の近くにいる事で俺に何かあったら困るって、そう思ってくれてるような気がするんです。……なんて、言い過ぎでしょうか。でも、ミツキさんが俺を大切に思ってくれているから、もしくは思うような関係になる可能性があるから、あの言葉を口にしたって思いたいんです」



「……都合の良い脳みそだな」



「そうかもしれません。都合良く思っていたいのかもしれません。でも、あの日のあんたを見て、俺を邪険にしているようにも思えなかった、俺の事を心底嫌いで行為を嫌がる人間くらい、俺は分かるつもりです。でもあんたは、俺を嫌ってるわけじゃない。行為だって、確かにあんたは色々と思う事があるんだろうけど…」



「もうよしてくれない? こうして話していても、俺の意思は変わらない。君がどんなに言葉を並べようと、俺は君に絆されたりしないよ」



「絆されるのが、怖いですか」



ミツキさんはふっと視線を下ろすと、言葉だけを放つ。



「…俺の事は忘れてくれ」



その横顔が、何を隠すのか、何を語るのか、あまりにも憂いを帯びていて、俺はどうしようもない感情を抱えていた。側にいたいと口に出しても、こうして忘れろと、諦めろと、ミツキさんは俺を突き放す。ミチルちゃんから話しを聞いた時、自分を庇って死んだ男の葬式に出向いたミツキさんの覚悟を知った。根本には、強い喪失感と贖罪の意識がある。


でも、時間と共に癒えなければならないものだと、俺は思った。その喪失感と贖罪の意識から、途方もない苦しみと痛みを背負い、それによって自滅する事が償いだとでも言いそうなこの人の破滅的な思考回路を、どうにかしてでも、俺は変えたかった。



「あんたはひとりで抱えるつもりでしょう。それで良いと思ってんでしょう。自分の罪と罰だ、とか思ってんでしょう。苦しみに押し潰されて、死ぬのが良いと。自分は苦しんで死ぬべきだと」



ミツキさんは何も言わず、ただ、瞳を伏せたままだ。俺はその伏せられた瞳を見下ろしながら、言葉を続けた。



「でもさ、あんたを大切に思う人はどうなる。あんたに幸せになってもらいたい人は? あんたが俺の事を嫌いで突き放したいなら、仕方のない事だって踏ん切りもつくけど、あんたはそうじゃない。…最初で最後かもしれないけど、あの時のあんたの表情や、少しの仕草から、何かに葛藤してる事は容易に分かった。あんたは恋人を殺したって言ってたから、きっと行為そのものに対して思う事があるのだろうと。それでも俺の願いを叶えたのは、筋を通して今後断りやすくする為か、それとも勃たなかったろ、と俺を離すための良い理由付けをする為だったのか。俺には分かりません。でも、あんたは、俺を求めたでしょう。俺はあんただって救われたいと心のどこかで思ってんじゃないかって、……そう思うんです。苦しみを分かち合える人、あんたの側にいる人、……俺じゃ務まりませんか」



ミツキさんは眉根を顰めた。少し、動揺しているらしい。



「あんたの過去を全て知ったわけじゃありません。あんたの事も、知らない事ばかりです。でも俺は本気であんたの事が…」



「やめてくれ」



ミツキさんはぴしゃりと制した後、頭を掻いて俺を見つめた。



「君みたいな子は、痛い目に遭った時に、うんと後悔するんだろう。それが目に見えて分かるよ」



「えぇ。後悔、するかもしれません。でも、後悔するならその時で良い。俺はまだまだガキだから、突っ走る事しか脳がないんです。だから、あんたの側にいたいって言葉にしないと気が済まないし、あんたとこうして、少しでも長く話していたいんです」



ミツキさんは困ったように眉を下げると溜息を吐き、神経質そうにメガネをくっと上げた。俺は俺の事を見てもらう為、意識してもらう為、ミツキさんの顔を覗き込んで、ぽつりと言葉を漏らす。



「ねぇ、ミツキさん。…快かったはずですよ」



ミツキさんはその言葉に怒りを、いや、焦りを見せた。反射的な行動だったのだろう、途端に店内を出てしまう。だがどこか遠くへ行くわけではなく、俺から離れたかっただけのようで、窓に背中を向けるとタバコに火を点け、肺深くに煙を押し込んでいる。再びメガネをくっと人差し指の関節で上げると、もう一度深く煙を肺に押し込んでは、深く吐き出す。


俺はその姿を数十秒、ガラスの窓越しに眺めた後、付き纏うなと殴られる覚悟で席を立った。そっと横に立つと、ガラス窓に寄り掛かりながら、ミツキさんを眺める。ミツキさんは目も合わせてくれない。



「殴らないで下さい」



そう伝えると、ミツキさんの切長の瞳がようやく俺を捉えた。



「…殴らないよ」



「怒ってますか」



「呆れてるだけ」



「今更ですね。俺は押して押して、押しまくるタイプの人間みたいなんで…」



「君に、じゃない。俺自身に」



「なんで?」



首を傾げると、ミツキさんは片眉を上げる。



「……なんでだろうね」



ミツキさんはそう呟くと、ふっと鼻で笑った。ミツキさんが何を思い、何を考えているのか、俺には分からない。


けど、俺が詰め寄る事に対して、動揺を見せる程度には、俺の事を意識しているだろう事は間違いないような気はした。


それでも何をしても無駄なのだろうか。この人の覚悟は、それほど固いものなのだろうか。



「…ミツキさん、」



「何」



ふぅーと煙を横に吐き流すと、灰皿に押し付ける。



「これからもずっと、ひとりで苦しみ続けるつもりですか」



ミツキさんはその言葉を淡々と飲み込むと、真剣な眼差しを俺に向けて答えた。



「あぁ。…それで良いんだよ」



ひくりと、眉間に皺が寄る。それで、良い。それで。その言葉に、俺は無意識のうちに拳を握っていた。今すぐにでもこの人を過去から引き離したい気持ちでいっぱいになるが、過去に縋ろうとする人間を、過去から引き離す事なんて不可能なのかもしれない。ミツキさんの過去に関して、知らない事の方が多い俺に、今を生きて下さいと言い続けたとしても、何も響かないだろうし、むしろ追い込むだけのような気がした。


俺はどうすれば良いのだろう。諦めて、この人の事を忘れる? 何もかも、なかった事にする?


そんな事、出来れば苦労しない。得たものを手放す事なんて、俺には出来ない。だから、俺は言い続けなければならないのだ。


この人に今を見て下さいと、今を生きて下さいと、言い続けないと、この人は本当に消えてしまう。ただ、圧のない言い方を変えたり、行動で示した方が良さそうだ。そう明確に感じて口を開いたのと同時に、少し開いていたドアの隙間から、ピーピーと洗濯が終了した無機質な音が響いた。


ミツキさんは何も言わずに店内に戻ると、洗濯物をカゴに移し、乾燥機に放り込んでいる。硬貨を投入し、ボタンを押す。ガコンガコンと脱水された洗濯物は乾燥機の中で派手に回り続けている。ミツキさんはベンチに座り直して本を開いた。俺はまた定位置のように出入り口前の洗濯機に寄り掛かった。


何かを言う事をやめて言葉を飲み込んだ俺は、読書を始めたミツキさんのその姿を見下ろしながら考える。初めて抱く感情は、あまりにも大きく、あまりにも刺激的。失いたくないと脳も体も強く訴えるが、この人を繋ぎ止める手段は何もない。明日にでも消えそうな人を目の前に、この人がいなくなったら、を考えては眉間に皺が寄る。フジ ミツキ、という人間は、まるでいなかったかのように日々の時間が流れていく事を想像し、想像してはゾッとした。


ヤクザの世界で生き続けるミツキさんの覚悟はあまりに固く、あまりに重い。この人の目的って一体何だろう。組の為に命を張って死ぬ事が、この人の目的なのだろうか。その為にずっとひたすらに苦しみ続けるつもりなのだろうか。過去に縋って、たったひとりで、その命が尽きるその瞬間まで。


俺は唇を噛み締める。身勝手で傲慢な、本音を心の中で繰り返した。


いつまでも十字架を背負ってひとりで苦しんでないで、その苦しみを俺に分けてくれたって良いんじゃないの。俺には背負えないような事ならさ、どこか遠くへ、一緒に飛んだって良いんだ。あんたは幸せになったって良いだろ。心の拠り所として、誰かを受け入れたって良いだろ。その誰か、は、本当は誰かなんかじゃなくて俺が良いけどさ。でも、あんたが苦しみから解放されるなら、別に俺じゃなくたって良い。あんたが消える事だけは、どうしたって受け入れられないから、だからどうか、このままずっと、側にいてくれないかな。


ミツキさんの側に居続けたいと思った。離れてしまえば、それが最後になるかもしれないから、一分一秒を刻み込むように、ミツキさんの側で、ミツキさんの事を知ろうと必死になった。



「ミツキさん、俺はここにずっといるんで。あんたの事は、ずっと好きなんで。忘れないで下さいよ」



ランドリーが終わり、帰路に着き、ミツキさんの部屋の前でそう言葉に出すと、ミツキさんは一瞬だけ立ち止まり、何も言わずに部屋の中へと入って行った。


そうしてまた、ぱったりとミツキさんと話す機会をなくして数日。まだアパートは出ていないらしい、というのは新聞受けから中を確認して知ってはいたが、相変わらず避けられて、挨拶すらもできない状況が続いた。


そんなある日だった。仕事帰りで、疲れた体を引き摺って帰路に着いていた。一件、キャンセルが入り、少し早い時間帯の帰宅だった。まだ陽は昇っていない、真っ暗な空を見上げながら帰っていた。時計を確認し、もしかして、と思いながら、コインランドリーを覗いてみる。だが誰もおらず、そりゃそうかと、肩を落としてアパートの方へ歩いた。家に着いて早々、冷たいシャワーを浴びて、汗や汚れを洗い流す。すっきりしたところで、タバコを吸おうと玄関扉を開けようとした瞬間だった。誰かが廊下を歩いている。それもゆっくりと、若干足を引き摺りながら歩いているようだった。話し声か聞こえ、聞き耳を立てる。ふたりいる。男の声だ。



「やっぱり戻りませんか。あなたに何かあってからでは…」



「心配しずぎだ。鎮痛剤も飲んだし、問題ないよ。だからお前はここから離れろ。お前がいたんじゃ目立って仕方ない」



その声は間違いなくミツキさんだった。途端に眉間に皺が寄り、状況を知ろうと俺はドアに耳を付けた。



「しかし万が一があります。せめて、近くに誰かを置きましょう」



「置けばそれだけ見つかるリスクが上がるだろ。それに、ここは一番安全な場所なんじゃなかったか? 佐野組長が言ったんだ。それを否定するつもりじゃないよな? 」



「そう、です、けど……」



「俺はさっさと引っ越したいって言ったんだけどね、引越しをさせてくれないほど、ここは安全地帯みたいなんでね。前のあのマンションだって突き止められてるし、無闇に動いて佐野組長に迷惑も掛けられない。だからここでひとりで良い。お前は事務所に戻ってろ。俺は大丈夫だから」



「で、ですが、今のあなたの状態でひとりにする事はできません」



「保谷は、…あいつは、俺の行方を血眼になって探してる。だったら、お前や他の連中がここにいる事で、妙な噂が立つ事は避けたい。目立って、あの人の耳に入ったらそれこそ終いだろ」



「…分かってますけど、……でも今だって立ってるのがやっとでしょう。身の回りの世話だって、誰かがしなきゃなりません。意識失くしたら、誰が医者に連絡しますか」



「意識失くす前に連絡すりゃぁ良いんじゃないの。俺はひとりで出来るよ。大丈夫だから、鎮痛剤、貰えるかな。後はこっちでどうにかする」



「………藤さん、本当は今倒れてもおかしくありません。医者だって少しは入院しろって言ってたんです。それを分かってますか? 腹、刺されたんですよ」



ひやりと背筋が粟だった。俺は居ても立っても居られなくなった。吸う気を失くしたタバコを片手にドアを開けると、音に反応して振り返ったミツキさんと目が合う。ミツキさんの顔は真っ青で、腹を庇うように歩いていた。俺を見ると一瞬その場に立ち止まり、隣にいた男も俺を見る。ミツキさんは溜息を吐くと、俺を無視して再び歩き出し、自身の部屋の前のドアに寄り掛かる。立つのも精一杯、といったところだろう。ミツキさんと話し込んでいた男は俺を見ると、「おい、見せモンじゃねぇぞ」とテンプレのような脅し文句を吐き出し、「良いんだ」とミツキさんに制される。



「え、知り合いですか」



男は驚いたように、目を丸くする。ミツキさんは項垂れている。



「…はぁ、まったく。タイミングが悪すぎる…。いつもこの時間はいないだろ。 ………悪い、風橋。彼は俺の事をある程度知ってる。このアパートの住人、で、ご近所さん」



「そ、そうでしたか。誰かと接触があった事、佐野組長は知りませんよね?」



「知らないと思うよ。知ってたら俺、怒られるだろうから。とは言え、君には口止めしないから安心して。佐野組長に言ったって良いよ」



「どうみても組関係の者ではなさそうですし、これくらいなら、別に問題にならないでしょう。だから言いませんよ。安心して下さい。でも、あの、ひとつ提案があります」



「ん?」



「俺はあなたの体が心配で、あなたはここに組の人間を誰も置きたくない。であれば、あの方に面倒を見てもらう、というのはどうですか。せめて、一週間は」



「いやいや、風橋、あのねぇ…」



怪訝な顔をするミツキさんを差し置いて、俺は男の言い分を飲もうと近寄った。



「あの、状況がよく分かってはないんすけど、俺で良ければ力になりますよ。住み込みで見ます」



風橋と呼ばれた男は目を輝かせ、「本当ですか?」と俺を見つめた。



「助かります。藤さん、そうしてもらいましょう」



「無理。この子、堅気でしかも未成年。それは出来ないよ」



嫌がるだろう事は想定内である。だが、ミツキさんに選択肢はないはずだ。心の中で、頑張れ、風橋さん!と応援しながら風橋さんを見上げる。風橋さんは俺と目が合うと、「未成年には見えませんね…」とぽつりと呟いた後、ミツキさんへと向き直った。



「でも、どうしますか。組の連中は面割れてますし、跡つけられて、ここがバレたらかなり面倒だって、言い出したのはあなたですよ。ごもっともな意見なんで、あなたの送迎はこっそりと俺だけで対応してますが、頻繁に出入りするのは確かに難しい。でも、どう見たってひとりで平気な状態ではありません。そうなると…」



「大丈夫だから、心配しすぎ。飯も買い溜めしたろ? 一週間は部屋から出ずに息潜めておくから、安心して良い。何かあれば君の携帯に電話するから」



「しかし…」



風橋さんの言葉も虚しく、ミツキさんは俺を見ると無表情に、「というわけだから、君の出番はないよ。おやすみ」と邪魔者扱いをする。


血色のない顔で俺に微笑み、余裕を見せるように手をヒラヒラと振っているが、あまりにも痛みが酷い事は十分に分かってしまい、腹が立った。俺は引く事が出来ず、ミツキさんを見上げる。



「誰かに狙われている事は分かりましたし、ここがまだバレてないって事も分かりました。組員をここに置きたくない理由も分かりましたが、ひとりにはしておけないって風橋さんの意見の方が正しいと思います。だって、今にも倒れそうです。だから、……ミツキさん、俺に頼って下さい」



瞬間、ミツキさんはひくりと反応した。俯くと、眉間に深い皺を寄せる。風橋という男は少し驚いたような顔をした後で、こくりと頷いた。



「…そ、そうしましょう」



男がミツキさんを諭すように見つめると、ミツキさんは舌打ちを鳴らして男を見上げる。



「堅気の子供に頼れるわけないだろ。死んでも勘弁。…風橋、もう良いから帰りな。鎮痛剤と、その飯の入った袋、頂戴」



「……藤さん、」



「あとは頼んだよ。何か動きがあったら連絡してくれ」



ふらふらとミツキさんは部屋に戻り、風橋さんは渋々承諾したようで、閉じたドアをじっと見ていた俺に、一礼して去ろうとした。俺は咄嗟にその腕を掴んで引き止める。



「あの……、ミツキさん、腹を刺されたンすか」



風橋さんは俺を見ると頷いた。



「はい。臓器を傷付けたわけではないようですが、出血が多かったようで、医者は少しの間は様子見で入院しろ、と言ってたんです。でも、その病院にいる事で、病院を揉め事に巻き込みたくないと思ったんでしょう。入院を拒否して、この状況です。でも、すみません。藤さんが、あなたに頼らないって決めた以上、俺があなたに言える事はありませんので」



「痛みで人は死にます。本当に放っておくんですか」



「それくらい、本人も分かってますし、これ以上どうにも出来ません。少し、様子を見るしかないかと思います」



風橋さんはそう言って悔しそうに、足早にその場を去った。


しかしやはり不安だった。風橋さんがいない今、ミツキさんは誰に頼るつもりなのだろう。痛みで気を失ってなければ良いが。いや、最悪、そのまま………。嫌な汗が背中を伝い、俺は翌日、早々にそのドアを叩いた。物音はしない。いる事は分かっているのに、返事もない。そうなると途端に怖くなり、新聞受けをひらりとめくり、中を確認する。布団の上に、ミツキさんはいるようだった。眠っている、と言われれば、眠っているだけなのだろうが…。いや、違う。痛みに苦しんでいるのだと、気付くのに数秒がかかった。ドアノブを捻ると、幸いにも鍵は掛かっていない。昨日、中へ入った時、そのまま倒れ込んだのだろうと思った。こんな状況の中、鍵を閉める事すら忘れてしまうほどなのだ。


急いで駆け寄ると、ミツキさんは脂汗を額から流し、眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めていた。救急車を呼ばなければ…。そう携帯を手にすると、ミツキさんの手が、咄嗟に俺の手を掴み、「やめろ」と低い声で制される。



「け、けど、…」



「救急車、呼ぶなよ。警察沙汰にされちゃ困るんだ」



そうは言っても苦しそうなのを見て見ぬふりは出来ない。昨日の会話から推測するに、組で問題が起きている事は理解した。ミツキさんは居場所を知られるわけにはいかないのだ。救急車も呼べないことに加え、迂闊に誰かにこの事を伝える事すら出来ない。となると、一番は風橋さんと連絡取る事が出来れば良いのだが、取る手段が思い浮かばなかった。


連絡先を交換しておくべきだった……。そう後悔しながら、ふと思い付く。ミツキさんは連絡先を知っているだろう。ミツキさんの"ビジネス用"だと言う携帯を探そうと周りを見回していると、「物色するな」と叱られる。外に連絡しようとすると、ミツキさんは怒るのだ。こんな状態なのに。


ミツキさんは傷口を圧迫しないよう、傷口とは反対側を下にして、横向きに腹を庇うように寝そべって、荒い呼吸を繰り返している。ひとまず、今は痛みを和らげる事に徹しようと、近くに腰を下ろして背中を摩る。不思議なもので、こうして摩ると痛みは緩和するようだった。少しだけ眉間の皺は解け、触るなと怒られはしなかった。とはいえ、気休めにしかならないのだろうけど。



「ミツキさん、薬、飲みましたか?」



「…あぁ」



「救急車は呼びません。でも、昨日の人くらい呼びませんか」



「呼ぶな」



どうして…。あまりにも低い声だった。



「良いから、放っておけ。そのうち痛みは、止む、から…」



そうは見えないから言ってるのに。額に手を当てると、あまりにも高い熱に不安が更に増していく。傷口が化膿してる可能性だってあるのでは、そう思うと焦りに思考が支配され、正常的な判断が難しくなる。一度深呼吸をして、ひとまず今出来ることをしようと、タオルを冷水に浸し、固く絞って、そっと額や首筋の汗を拭いた。


繰り返すうちに、薬がようやく効いてきたのか、疲れたのか、ふと落ちていくように静かになった。静かになったらなったで怖くなる。呼吸をしてるかと、そーっとティッシュを一枚近付けて、ひらりとゆれるそれに、胸を撫で下ろした。ミツキさんが深く眠っている今がチャンス。再び携帯を探す。その時、ヴーっと何処かで携帯が鳴った。バイブ音がする方向に寄ると、壁に掛けてあるジャケットの中だった。しかも幸いな事に、相手は風橋さんである。助かった! と、すぐに通話ボタンを押す。



「風橋です」



「あ、すみません、俺です。ミツキさんの隣人の、遥真です」



「え、なんであなたが?」



「いや、その…心配になって、様子を見に来たら、案の定で。ミツキさん、相当痛みが酷いみたいで、熱もかなり上がってます。でも誰にも言うなって……、けど放っておいたら死ぬんじゃないかって怖くって。…風橋さんなら、ミツキさんに信頼されてんじゃないのかなって、連絡しようと思ったんですけど、連絡先は分からないし、ミツキさんも言うなって言うので。あ、でも今は眠ってるので、タイミングが良かったです。…あの、ミツキさん、本当に放っておいて良いのでしょうか…」



「うちが抱えてる医者をすぐに向かわせます。俺は近付くなって言われてますから、さすがに近付けませんので、医者がひとりで向かうかと思います。ドアを4回ノックする客が来たらドアを開けて下さい」



「分かりました」



「で、この事を、他には漏らしてませんね?」



ミツキさん周りで誰も知らないのだから、漏らしようがない。俺は「はい」と強く返事をする。



「安心して下さい」



「分かりました。ではそのまま、そこで待っていて下さい」



「はい。あ、あの、風橋さんの連絡先、一応俺の携帯に登録しても良いですか。何かあった時の為に」



「え、あぁ、はい。お願いします」



「ありがとうございます。じゃぁ、また」



ミツキさんには内緒で風橋さんの連絡先を手に入れ、そしてそのまま携帯を色々と物色し、ミツキさんの連絡先も手に入れる。ビジネス用、とは言っていたが、俺の前から一刻も早く消えようとしてる男の連絡先なんて、手に入れておくに越した事はない。


そうして10分ほど医者が来るのを待った。ドアを4回ノックされ、静かに開けると、フードを被った男が立ってた。上下黒のスウェット、革の鞄、灰色のスニーカー。医者には到底見えない。顔を顰めていると、「藤君、いるんでしょ? いれてくれる?」と首を傾げられる。


あ、この人で合ってるのかと安堵して中に案内をする。男はフードを外すと、ミツキさんと同じくらいの年齢の男であった。マスクを着けると、手を洗って、消毒液をこれでもかと言うくらい手に擦り込み、それからラテックス手袋をはめる。ミツキさんの左腕にゴム管を巻き、血管を浮き出させると、手早く何かを確認した。あらかじめ用意していたアルミのトレーに置いていた注射器を取ると袋を開けて針を剥き出し、その左腕にそっと針を刺し込むと、中の液体をゆっくりと流し込んだ。空になると止血を済ませ、ミツキさんの表情を伺うが、ミツキさんは気を失うように深く眠っているようで、ちっとも起きない。


そうして無言のまま布団を捲り、シャツのボタンを外す。開かれたシャツからは相変わらず派手な龍が鎮座し、腹部には包帯が巻かれている。それを丁寧に外しながら、「傷は平気? 見ない方が良いかもよ」そう言葉だけを投げられ、「大丈夫です」と答えると、医者は「そう」と返事をして、ガーゼを傷口から剥がした。傷口は見る限り、化膿してはいないようだった。10針程度、縫合しているらしい。傷は少しだけ赤くなっている。医者は傷の具合を確認して淡々と消毒を済ませると、またガーゼで覆い、包帯を巻き付ける。手慣れたものだった。そしてそっと布団を掛けると、彼は俺に向き直った。



「傷口は化膿もしていないし、綺麗だった。熱はたぶん下がると思う。ただ、痛みはまだ続くと思うから、こまめに消毒はするようにしてね。コレ、少し強い鎮痛剤と解熱剤。この鎮痛剤はあまりにも酷い時だけ飲むように、って言っておいて。…で、君は藤君の舎弟か何か?」



俺は薬袋を受け取りながら首を横に振る。



「い、いえ……ただの隣人、です」



「あ、そうなの? ごめんね。勘違いした。もし、藤君の体調が悪くようなら連絡してね。これ、僕の連絡先」



そう言って渡された紙切れには、アサノとカタカナで名前の記載があり、横に携帯の電話番号が記されている。



「あ、ありがとうございます」



「しばらく彼は寝てると思うから。君も今は寝た方が良いよ」



「は、はい」



俺は頷いて、このアサノさんに聞きたい事があると、言葉を続ける。



「あの、……ミツキさんとは、付き合いは長いのでしょうか」



アサノさんは片付けながら答えた。



「長い、と言えば長いかな。藤君が極道になってすぐくらいに会ってるから」



「そう、なんですね。…ミツキさんって、その、やっぱり極道、なんすね。なんかいまいちピンと来なくて」



「あー、何も聞いてないの?」



「え? あ、はい」



「藤君が極道っぽくないのは当然だよ。彼、元々は警察官だから」



「…え?」



衝撃だった。驚いて愕然としたが、数秒、いや、その方が納得いくなと頷いてしまう。どこかヤクザらしくない出立ちや物腰の柔らかさ、それにあの雰囲気は、根っからのヤクザではない。でも、まさか、警察官だったとは…。俺の最初の予想は強ち間違いではなかった、という事だ。



「しかもヤクザの敵である組対の刑事。彼は色々あって極道やってんの」



次々と飛び出る衝撃の事実に、俺は驚きを顔に出すだけだった。警察官、しかも組対の刑事。この人の過去が余計に知りたくなる。



「ねぇ、君は藤君とどういう関係なの?」



「どういう関係……。隣人、としか言いようがないかも、しれません」



「そう?」



アサノさんは首を傾ける。



「はい……」



「その割には、血相変えてたように見えるし、こうして彼を看病してるよね。彼が極道だって事も知ってるのに、怖がらず、側にいようとする。ただの隣人ではないだろう?」



鋭い視線に、俺は白状した。



「……俺が一方的に想いを寄せてるだけ、です。ミツキさんには断られ続けてるんで。こうして看病されるのも、嫌なんだと思います。俺の前から早く姿を消したがってるようで、ちょっと怖いんですよね」



そう言うと、アサノさんは驚いたように眉を顰めた。風橋さんも同じように驚いていたな、とその時ふと思った。アサノさんは「へぇ」と頷いた後、疑問を続けた。



「そういえば君、さっきから彼の事、ミツキさんって呼ぶよね?」



「はい」



「藤君はその事、何も言わない?」



「引っかかるような感じはありましたけど、呼び続けてたんで、今はもう何も言いませんけど…」



「そっか」



なるほど。風橋さんもそれで驚いた顔をしていたのだろう。



「自分を慕ってた人がそう呼んでたんですよね?」



「へぇ、知ってるんだ」



「その人がミツキさんを庇って亡くなった、そう聞きました」



そうミチルちゃんから聞いた事を口に出すと、アサノさんは更に驚いたようで目を見開く。



「…え、それ、藤君が君に言ったの?」



俺は首を横に振る。



「いえ、その人の妹と知り合いなんです。それで、その人の事や、ミツキさんの事を聞いたんです。ミツキさんを庇って死んだ、って事も、彼女から聞きました」



アサノさんは、なるほど、と頷いた。



「シュウの妹、か。そうか、家族いるって、藤君が言ってたもんな。だとすると、家族にとって、藤君は憎むべき相手って事になるのかな。…シュウを組抜けさせようとしてた藤君が憎まれる状況とは、何とも皮肉なものだけど」



自分を慕っていた人間を足抜けさせる、その矢先の事だったのだろうか。もしそうならば、ただただ苦渋としか言いようのない顛末だ。



「そう、だったんですか。…その、シュウさんって人は組から抜けるはずだったのに、ミツキさんを庇ったんですか」



「抜けるはずだった、か…。どうだったんだろう。いやね、シュウは組を抜けたくなかったんだ。藤君の為に死ぬって決めて、藤君の用心棒をやってたような子だったから。でも藤君がどんどん激化する状況に危険を感じて、少し落ち着いたら頃合いを見て組から離そうって考えてたみたい。シュウは両親もいて、妹もいて、家族がきちんといるからって。それに若いし、こんなところで死なせたくないって。まぁ、藤君もシュウには色々と思いがあったからさ。で、そんな彼が唯一、藤君の事をミツキさん、って呼んでたから、ミツキさんって呼ばれる事に対して、藤君は何か過剰に反応したんじゃないかなって、思ったんだ」



過剰に反応はしてた、よな。



「確かに、その、かなり驚いてたかと思います。…あの、シュウさんと、ミツキさんって、…どういう関係だったんですか」



「うーん、少し、難しいな」



「……ただの上司と部下って関係ではなかった、という事ですか」



「そうだよね。まぁ、藤君からしたら自分を慕う一番の弟分だったと思うよ。自分の用心棒だったし、ほとんどずっと一緒にいたろうから。でも、シュウの気持ちは少し違くてね」



「少し違う…」



「うん。シュウは藤君の事を恋愛対象として強い想いを抱いていたみたいだから」



なるほど。俺はその時、その彼の葛藤と、ミツキさんの抱える痛みに思いを巡らせていた。



「ミツキさんは分かってて、側に置いていたんですか?」



「うん、分かってたんじゃないかな。何も言わないけど、シュウの態度って分かりやすいから。でもほら、藤君って、同棲してた相手いたろう?」



「恋人、ですね。聞きました。その人の最期、も、…」



「へぇ、藤君、君には相当話してるんだね。その彼、原って言うんだけど、原君が恋人で同棲相手だってシュウは最初知らなくてさ、いや、シュウは、っていうか僕以外は知らないんだけど。で、ある日、勘の良いシュウが気付いたらしいのね。藤君の同棲相手。他の人はルームシェアだって言ってるけど、そんな友人関係じゃないって、シュウは気付いて、その時の荒れようたるや、もう、手に負えなくてさ。僕のところに来るなり、知ってたんすか、って凄んでくるんだから怖かった。でも、…そうね、原が保谷に殺されて、あーっと、保谷ってのは藤君や原君がいた組の組長ね、そいつに殺されて、組抜けて…」



え……? 聞いてた話しと違う、と俺は自分の耳を疑った。



「え、ちょっ…待って下さい。ミツキさんが、恋人を殺したわけじゃないんすか…」



「あー、そう言ってた? そうなんだ。そうだよなぁ、…まだ、自分を責めてるよなぁ。正確にはね、原君は自死を強要されて、自ら命を絶ったの。藤君はそれを自分のせいだって、自分が殺したって、そう結論付けてるみたい。直接手を下したわけじゃないとはいえ、彼にとっては同じなのかな。……一生、癒える事のない傷かもしれないけど、僕は、彼が死に取り憑かれている気がしてね、どうも苦しいんだ。まぁ、だから僕はベラベラと、初対面の君にこうして話しているのかもしれない。藤君にバレたら、余計な事を話すなって叱られそう。でも藤君の助けになってほしいと、心底思うからね」



「死に取り憑かれる……、ミツキさんは後を追うつもりなんですか?」



「本当のところは分からないよ? こうして生きてるわけだし、彼から自殺を仄めかすような言葉は聞いた事がないけら。でも単に、今は色々とやる事に追われてるだけで、全てに決着が着いたら、彼はどうするのかって、少し不安になるところはあるんだ。原君が死んで、シュウが自分を庇って殺されて、どこか死に急ぐようになったと、俺は思うんだよね。だから彼の事を、損得抜きに、こうして心配してくれる君を見ていると、彼の側にいてほしいって思うんだけど…」



「側にいます。絶対に! 何があっても!」



食い気味に返事をすると、アサノさんは「うん」と頷いた後で、言葉を続けた。



「でも、彼がそれを良しとしない理由も分かるから、僕は彼が望むような形になってほしいと思ってしまう。ごめんね。きっと僕は君の味方ではないのだろう」



「………ミツキさんが良しとしない理由、ですか」



「そう。君は少し、シュウに似てるんだ。ミツキさん、って呼ぶところも、そのハスキーな声も、それからうんと若いってところも。無鉄砲で直向きで、突っ走ってしまうような、そんな危うさがある。だから、藤君は怖いんだと思う。自分を慕ってくる人間が、また自分のせいで命を落とすんじゃないかって。だから、だからね、もし、藤君が今後君の前から消えたとしても、仕方のないことだと思って、彼の事は忘れてあげて」



出来るわけないだろうと、俺は拳を握って言葉を続けようとすると、アサノさんは真顔で言葉を重ねる。



「でも、君の前に姿を見せる限りは、側にいてやってほしい。彼には誰かが必要で、でも、彼が決断して姿を消した時には、追わないであげてほしいんだ」



「勝手、ですね」



「うん、勝手だね。とても」



そうハッキリと肯定されてしまえば、それ以上、何を言えるだろうか。



「でも分かってほしい。今、組織の中で彼の置かれている状況は、決して楽観できるものじゃない。君の前から姿を消したという事は、もう忘れてほしいって、それが別れだと、本気で思ってる証拠なんだと思うから」



俺は深い溜息を吐いた。



「君は、そういう未来があるとしても、彼がここにいる限り、彼の側にいる事を選ぶだろ? 惚れた弱味って怖いよね」



そしてそう付け足すのだ。俺は何も言い返せなかった。全く、嫌になるほどその通りだった。アサノさんが帰った後、俺は深く眠るミツキさんの横に座り込み、そっと頬に触れた。


消えた時は、それが別れだと、ミツキさんの事は忘れる。そんな未来があると分かっていながら、こうして側に居続けてしまう。この人の側にいればいるほど、後に残る喪失感は酷く重く、苦しくなると言うのに。それが惚れた弱みだと言うのなら、惚れたくなどなかった。落ちたくなど、なかった。



「ミツキさん、死に急がないで下さいよ」



ぽつりと呟いた言葉は、本人に伝わるわけでもなく、ただゆらりと宙を漂って消えて行く。


ミツキさんを見下ろしながら、淡々と時間だけが過ぎていった。うとうとと、ミツキさんの横で寝落ちていたらしい。唸り声のような声でふと目を覚ます。どうやらミツキさんは魘されているようだった。苦しそうにシーツを握り締め、額から汗を流し、目を固く閉じたまま苦しそうに唸っているのだ。



「ミツキさん、大丈夫ですか…」



声を掛けながら冷たく濡らしたタオルで額の汗を拭うと、ミツキさんは魘されたまま、言葉を漏らす。



「アキ……」



誰かの名前だろうと思った。そして一粒の涙が、静かに頬を濡らして枕へと落ちていくのを見て、俺は、あぁ、きっと、それが恋人の名前なのだろう、と思った。



「大丈夫、大丈夫…」



苦しそうに息を吐くミツキさんを見下ろしながら、俺は自分に言い聞かせるように言葉を繰り返していた。



「もうそれ以上、苦しみを背負わないで」



不意に本音が口から漏れた瞬間だった。ミツキさんはハッとしたように目を見開き、呼吸を整えると俺を見上げて、怪訝そうに眉根を寄せた。言葉を無くしたような表情に、「大丈夫ですか」と咄嗟に声を掛けると、ミツキさんは我に返ったように少し間を置いて、「あぁ」と再び枕に頭を埋める。



「…熱、測りましょうか」



「……部屋に戻ってなかったのか」



「戻るわけないでしょう。戻れ、ってミツキさんに言われるだろうなと思ってはいましたけど、出来るだけ、側にいたいんです。だって、今なら消えないでしょう? 看病し放題、側に居放題」



その思いを口に出しても、看病なんて不要だ、戻れ、そう追い出すかと思った。でもミツキさんは、静かに呼吸を整えると、「ストーカーだね」と弱々しく言葉を吐いて口角をゆるりと上げた。仰向けに体勢を変えると、少し痛みを感じたのか眉根を寄せるが、すぐに表情を戻し、短く溜息をついた。



「……だいぶ痛みが和らいだのは、君のおかげ、か」



「俺は何もしていませんよ。…その、ミツキさんの携帯に風橋さんから電話あったんで、状況説明したら、アサノさんっていう医者が来てくれて、それで、何か注射を打ったんです。多分、痛み止めかなと思うんですけど。だから体が楽なんだと思います」



「そうか。アサノさん、来てたんだ。……どちらにせよ、君がいなかったらアサノさんは来てなかった。悪かったね、迷惑をかけて」



やけに素直だし、やけに弱々しく見えて、俺の心臓はぐっと鷲掴みにされて苦しくなる。



「迷惑だなんて思ってません。むしろ、こうやって側にいる事を許してくれてるみたいで、嬉しいんです」



ミツキさんは俺を一度見ると困ったように眉を寄せるから、俺は咄嗟に「あ、鎮痛剤と解熱剤貰いまして…」そう薬袋を見せて説明した。ミツキさんを困らせたいわけではないからだ。ミツキさんも俺の気持ちを察したように、何も言わなかった。



「鎮痛剤はかなり強いみたいなんで、本当に痛い時だけ飲んで、って言ってました」



「分かった」



ちゃぶ台に置かれた薬袋を見ながら、ミツキさんは頷く。



「あの、腹、空きませんか」



「あー…まぁ、少し、な。昨日買い溜めた飯が、冷蔵庫にあるから…」



そう言って無理に上体を起こそうとしては、痛みに顔を顰めている。



「寝てて下さい。俺、用意しますんで。冷蔵庫、見ますね」



そうミツキさんを横たわらせると、ミツキさんは呆れたように口を歪めていた。



「助けなんて必要ないと言い切った癖に、情けないね」



ミツキさんの弱々しい姿は、物珍しさからか、何とも言えない優越感に浸ってしまう。俺は首を横に振った。



「刺されてるんですよ。こういう時くらい甘えて、頼ってしまえば楽でしょう? ワガママ、言って下さい。俺は言われたいんで」



ミツキさんはあまり腹筋に力が入らないように、ふっと軽く笑うと、片眉を上げ、「阿呆だなぁ」と一言呟いた。瞬間、何だか少し、この人に受け入れてもらったようで嬉しくなる。


それからミツキさんは俺を追い出そうとする事はなかった。厚かった壁は少しずつ薄くなり、ミツキさんも俺に心を開いてくれているように感じた。だから俺はミツキさんの看病という名目で布団一式を持って来て、横で眠っては、飯を作り、痛みが出ると背中を摩って薬を飲ませた。熱は微熱が続いたが、治ると、傷の痛みだけが残るようだった。傷の痛みは相変わらず和らがないなと、顔を顰めては溜息を漏らす。だがアサノさんに連絡しますか、と問うと、いいや、と首を横に振る。天邪鬼なのか、強がりなのか。それでもふたりで時間を過ごせる事は俺にとってはとても貴重で、何よりも価値があった。ミツキさんの薬が効いている時は、他愛もない話をしてはミツキさんが寝付くのを待つようになった。


一週間が経ち、ミツキさんと夕飯を食べていた。



「明日、抜糸予定だからアサノさんのところに行ってくる。だから君は自分の部屋に戻ってて良いから」



「あーはい、分かりました。無事に抜糸になると良いですね」



「痛みもだいぶ治ったし、大丈夫だと思うけど」



「あ、晩飯はどうします? 何時頃、帰って来るんですか」



「病院の後はついでに組にも寄らなきゃならないからね。分からない。遅くなると思うから、食べてて良いよ」



「そうですか、分かりました」



「うん」



ミツキさんはそう返事をすると、もぐもぐと飯を口に放り込んでいた俺を静かに見つめていた。数十秒ほど、ただじっと。何をそんなに見つめる事があるのだろうか。眉を顰めると、ミツキさんは今まで見た事がないくらい優しく微笑んだ。ゆるりと口角を上げて、目尻を下げる。



「色々ありがとう、遥真君」



途端に心臓が鷲掴みにされ、今まで味のあった食べ物は全てが無味となり、飲み込む事すら困難になった。味のしない飯をひたすらに咀嚼して、無理矢理に飲み込んだ。泣こうと思ったら、俺はきっと泣けたと思う。ミツキさんの覚悟と、考えを勝手に読んでは理解して、途方もない心細さと寂しさに、ワガママを言ってしまう事もできろうと思う。それでもそうしなかったのは、アサノさんの言葉を思い出していたからだ。


全ては、惚れた弱味、というやつなのだろう。



「ミツキさんが望むなら、俺はいつでも側にいますから」



翌日、風橋さんが迎えに来て、ミツキさんはアパートを後にした。そうして二度と、そのアパートに戻る事はなかった。


あぁ、やっぱりか、と絶望しながら携帯に登録した風橋さんと、ミツキさんの電話番号を見つめながら、電話を掛けるべきか丸一日悩んだ。でも消えた相手に、何を言えば良いのか分からず、俺は電話を掛ける事をやめた。しかし何もしない、という事も出来ず、アサノさんの電話番号を手に入れていた事を思い出し、アサノさんなら、と電話を掛ける。



『お客様がお掛けになった電話番号は……』 



しかし自動音声が流れ、そっか、と深く息を吐く。ミツキさんがアサノさんに言ったのかな、そう思った。ならば、きっと、風橋さんとミツキさんのも繋がらないのだろう。番号を交換した事を風橋さんがミツキさんに伝えたか、ミツキさんは勘付いていたのか。試しに掛かるが予想通り、繋がる事はなかった。


とうとう、この日が来てしまった。それだけの事だった。


俺は布団の上にポフッと大の字に寝そべって、途端に襲ってくる空虚感を否定しながら、シーツに僅かに残る残香を感じた。


一週間後、ミツキさんが使っていたあの部屋には知らないおっさんが引っ越して来た。俺の日常はまた平凡で、刺激のない、楽しさのない日々へと戻った。空虚な日々は、以前よりもその影を色濃くして俺に纏わりつくようだった。誰かとまぐわう度に、ミツキさんとの交わりを思い出し、現実を突き付けられて、仕事にならなくなった。それが何人か続き、界隈では俺が不能になった、という噂が広がっていた。強ち、間違いじゃなかった。


ミツキさんは今頃、どこで、何をしているのだろうか。無事に抜糸は済んで、組の為に奔走しているのだろうか。


コインランドリーの扇風機は完全に壊れ、蛍光灯の一本がまたチカチカと最後の灯火のように切れかかっている。洗濯物を洗濯機に放り込んで、俺はそっとベンチに腰を下ろした。外を眺めながら、ぼうっと洗濯が終わるのをじっと待っている。


スーツの袖口に血を付けた男を、俺はきっと、いつまでも待ってしまうのだろうと思った。

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