2. 期待

日々は相変わらず淡々と過ぎていく。学校では変わらず巨乳のアイドルがどーの、彼女がほしーだの、何組の誰が可愛いだの、同じ事を何度も何度も繰り返している同級生を横目に俺は『鬼』を読んでいた。高遠さんと、あのスーツの男が揃って読んでいた本だ。きっと面白いに違いないのだろうが、活字が苦手な俺はその分厚さに溜息を漏らし、今日は帰ったらすぐにコインランドリーに行って、洗濯して、すぐに家を出て…、そう開始早々違う事を考えているのだ。集中力の欠如が甚だしい。


放課後、和哉達がカラオケに行くとはしゃいでる中、俺は本を片手に足早に家に帰った。ジャージに着替えてコインランドリーへ向かう。いつもよりは早い時間帯だ。スーツの男は来るだろうか。今日はどんなスーツを着ているだろうか。袖口に血は付いているだろうか。ぼうっとそんな事を考えていた。


洗濯が終わった頃、男はやって来た。細いストライプ入りのダークグレーのスーツを着ていた。暑いのか、珍しくジャケットは腕に掛け、中に着ていたベストは着ていない。真っ白なシャツに皺はひとつもなく、ネクタイはタイピンでしっかり止められていた。入口近くの洗濯機に洗濯物を入れると、ベンチに座ってまた読書。あの『鬼』という本ではなくなっていた。どうやら読み終えてしまったらしい。新しい本を買ったのだろうか、まだ読み始めだった。タイトルは見えなかった。


湿った空気の中、洗剤の優しい香りが鼻孔をくすぐる。クーラーなんて洒落たものはなく、頼りない扇風機がカタカタと情けない音を立てながら、何とか生き延びているかのように回っていた。頑張って回ってんなぁ、と微風を浴びながら思っていると、ドンッと腹に響くような破裂音が外から届き、間髪入れずに空気を裂くような雷鳴が轟いた。空が白く割れたように光り、鉄板を叩くような雨音が、瞬く間に屋根を打ちつけ始める。あちゃー。天気予報を見るべきだったと俺は顰めっ面をしながら、土砂降りとなった外を見ていた。空は一気に真っ暗になっている。まだ乾燥機を回したばかりだから、終わる頃に止んでくれれば良いのだが。


男も外を眺めていた。外に背中を向けて座っている為、後ろを向いてじっと外を見ている。呆れたように溜息を吐くと、諦めて再び本を読み始めた。男もまた、帰るまでに止んでくれればそれで良いと、同じ事を思っているのだろうと俺は頬杖をつきながら考えていた。


ふたりだけの空間ではあるが変わらず互いに何も話さない。静かな時間だけが流れている。雨ですね、そうですね、止みますかね、どうでしょうね、そんな会話すらなかった。だから余計にこの男の事が知りたくなってしまうのだろう。妙な好奇心に駆られながら男を見ては男の素性を考える。いつもかっちりとスーツを着ているような仕事だろうと予想する。証券マンぽいよな。大手企業の重役だったりして。だとしたら袖口の血が気になるよなぁ。気になりすぎるよなぁ。…もしかして、刑事だったりする? ドラマの刑事っていつもスーツ着てるし、インテリっぽい見た目と合う気がする。それに刑事だったら袖口に血が付いててもおかしくはないよな? いや、でもなぁ。それにしてはスーツがキマりすぎ? 刑事って感じではないか。それにちょっとアウトローな匂いがするのは何故だろう。探偵だったりして。だとしたら高級スーツなんて目立って仕方がないか…。分からないなぁ。とにかく雰囲気が独特なんだよなぁ。頭の中でぶつぶつと男の素性を予想しているが、何がどうあれ、簡単に話しかけて良い類の人間ではないから挨拶するのも難しい。一歩踏み込みたい気はするが、勇気はなかった。


外はバケツをひっくり返したような大雨で、男は再び外を眺めている。この天気の中、洗濯物を抱えて帰るのはあまりなも無謀だろう。俺はビニール袋に洗濯物を詰めているから良いとして、男はビニール袋なんか安っぽいものではなく、ご丁寧に赤茶けた木の洗濯カゴに入れて来ている。つまり雨に当たれば洗濯の意味がなくなるほど簡単に濡れてしまうだろう。可哀想に。早く止んでくれりゃぁ良いけどな。


しばらくしてその人の洗濯も終わり、乾燥機に脱水された洗濯物を移していた。同時に俺の洗濯物は乾燥を完了し、ピーピー音を鳴らしている。外はまだまだ土砂降りだった。仕事、行きたくねぇな。服を異常なほどゆっくりと畳みながら、ぽつりとそう考えていた。あまりにも雨がひどく、止む気配もない。大量の洗濯の山を目の前に俺は携帯を確認した。天気予報を見てみるとこの後もずっと大雨だった。


休も。瞬間的にそう決断した。決断したら早かった。俺は予定を入れていた数人にキャンセルをと携帯を握りしめ、入口近くのベンチに座る男を一瞥する。人がいる前で話す事じゃねぇよな。なら家に帰ってから電話するか、そう思った瞬間だった。ヴーヴーとバイブが手の中で震えた。着信は常連の男で、この後会う予定だった客のひとりである。タイミングが良いのか、悪いのか。ひとまず外に出なきゃなと、通話ボタンを押しながら足早に外に出る。



「はい、もしもし」



騒がしい豪雨の中、屋根の下で俺は音量をマックスにして相手の声を聞く。



「もしもし、ツカサ君? 今は外?」



「あ、はい。すみません、雨の音、うるさいですよね」



「ううん、大丈夫」



「………」



大丈夫、の後に何か続くかと思ったら何も続かない。…なぜ? 電話してきたのはそっちだろ。



「…あ、あの、丁度、俺も電話しようとしてたんですけど」



「そうなの? どうしたの?」



「申し訳ないンすけど、今日行けそうになくて。本当すみません。今度埋め合わせします」



「え、あー………そうなんだ」



明らかに残念な声のトーンに申し訳ない気持ちにはなるが、正直、この客は癖が強くて苦手だった。時間は1秒でも遅れたら怒鳴られ、散々ヤった後で金は支払わないとか言い出すし、面倒な要求ばかりする。俺に会う度にあーした方が良い、こーした方が良いと口煩くてかなわない。とは言え客は客。大事なお客様には変わりなく、突然キャンセルを入れた事に対して俺は丁寧に謝り続けた。



「本当、すみません。今度、たくさんご奉仕しますから」



「今度っていつかな」



「…そうですね、ちょっと来週末は難しいかもしれないので、また連絡します」



「来週末も忙しいの?」



「学校がヤバくて。テスト控えてるんすけど、今回落ちたら留年しちゃうんで」



学校がヤバいのは嘘だし、テストもないが、休む理由としては最適だった。



「ツカサ君はまだ高校生だもんなぁ。まぁ、仕方ないよね。じゃぁ連絡楽しみに待ってる」



「はい、また連絡します」



「うん」



……うん、ではない。俺は頭を掻いた。



「で、あの、俺に何か用があったんですよね」



「あー、今日は何時まで一緒にいれるのかなぁと思っただけ」



「あ、そうだったんですね。本当、ごめんなさい。次、いっぱい時間空けますんで」



「ふふ。そうだね、ちゃーんとご奉仕してもらわなきゃだなぁ。あ、一時間は無料にしてよ、ね?」



「え、一時間も無料ですか?」



「だって、こんなのドタキャンだろ?」



「……まぁ、ドタキャン、ですけど。考えて、おきます」



内心、とんでもない舌打ちを鳴らして苛立ちに携帯を握り潰しそうになるが、ぐっと堪えて感情は声に出ないよう気を付ける。じゃないとまた面倒になるからだ。



「ね、ツカサ君。もう少し話していようよ」



誰がお前と話すかよ。しかし嫌だ、とは言わない。



「本当、ごめんなさい。俺、今日これから勉強見てもらう約束してて。すぐに友達の家に行かなきゃならないんすよ」



「えー本当に? 本当は男がいたりするのかな?」



「ないですよ。この仕事してる以上は特定の誰かと付き合う事はないです」



「そう? なら良いけど。ま、分かった。じゃぁ、またね」



「はい、また」



電話を切ると早々に俺は室内へ戻る。戻って数秒で、ヴーとメールを受信した。相手は先程のアキラさん。『ツカサ君の声を聞けて嬉しかった。ツカサ君が頑張っている姿に心底嬉しくなるよ。俺も見習わなきゃなぁ。でもあまり頑張りすぎちゃ駄目だよ…』云々かんぬん。長文に白目を剥いてそっと携帯を仕舞った。あと数人の客にも今日は行けません、と言わなきゃならないがなんとも億劫だが仕方ない。帰ったら電話しようと決めて、服を一枚一枚丁寧に畳んでいく。


少ししてピーピーと乾燥機が鳴った。男は少量の洗濯物をカゴに入れると、しばらくじーっと外を睨み付けるように眺めていた。無表情なのに、カゴを抱えて外を睨みつける姿からは苛立ちや絶望感といった沢山の言葉が感じられた。


しばらく眺めて雨が止まない事を確認すると、俺の方へ歩いてくる。俺の方へ、って言い方はおかしいか。俺と同じように服を畳んで時間を潰そうと考えているのだろう。


一方的に観察していた男が大接近してくると思うと、妙な緊張が走った。何か声を掛けるべきか、否か。雨、ひどいですね、くらい言っても良いんじゃないのか。別に声を掛けてたって殴られたりはしないだろうが、俺に勇気がないだけなのだ。それに声を掛けた方が空気が和やかになるだろうし、キッカケを作る事が出来る。どうか殴られませんように。心の中で祈りを捧げながら、あの、と声を掛けようとした瞬間、「…あの、何か」と男は俺を見ていた。


え、あれ。俺、何か言った? いや、言おうとして言えてなかったよな? ってことは、目の前のスーツ男が声を掛けてきた…? なんで俺、声を掛けられた? 一瞬何事か分からなかった俺に、目の前の男は怪訝な顔をしていた。



「何か、ついてます?」



言われて俺の眉間に皺が寄る。



「え…? いえ、何も」



「そうですか。視線、感じたような気がしたので」



悪いのは俺だった。興味本位の凝視がバレるって恥ずかしいすぎる…。なんか言い訳考えないと、余計に気まずい。咄嗟に言葉を探し、男のネクタイを指差した。



「…い、いえ、こちらこそすみません。あの、そのネクタイがカッコいいなぁと思っただけなんです。Ropesってブランドですよね。ニューヨークの」



「えぇ、好きなんですか?」



男は少し驚いたように眉を上げた後、ほんの少しだけ表情を緩めた。ブランド好き、自慢好大きのおっさんを相手にして初めて知識が役に立った瞬間である。ありがとう、おっさん。助かった。



「まぁ、好きは好きですけど、スーツ着る機会ないんで。やっぱ憧れます。俺は普段ジャージなんで、お兄さんみたいにピシッとスーツ着てる人を見ると良いなぁってつい、見ちゃうんすよね」



「俺も普段はジャージですよ。スーツなんて仕事の時だけ。堅苦しいだけですから」



へぇ、この出立ちで一人称が俺なんだ。意外。こーいうインテリ丸出しのイケメンって、僕とか私とか言いそうだけどな。それにジャージも着るんだ。見てみてぇな。



「でもスーツ、すごく似合ってます。きっとラフな格好も様になるんでしょうけど」



「そ? ありがとう」



男は少しだけ口角を上げると最後の一枚を畳み終え、ふぅとひと息つく。俺に背中を向けて外を眺めると、困ったように眉を顰めているから、その後ろ姿を見ながら声を掛ける。



「雨、止まないですよ。明け方まで降るみたいですから」



男は「参ったね」と頭を掻いた。



「止むまで待ちますか?」



「いえ、帰ります。飯を食いっぱぐれたんで、さっさと帰って休みたかったんで」



「食べてないんですか?」



「朝からね」



相当残業のあるブラック企業に勤めてんのか。昼飯も碌に食えない職場って何。可哀想すぎるだろ。



「早く帰れると良いですけど…、止みそうにないですね」



「そうですね」



男は優しく頬を緩める。笑うと冷淡な印象のある顔立ちが一気に甘くなる。が、同時にどこか危険な香りがした。それはやはり、あの袖口の血を思い出してしまうからだろうか。俺は洗濯物の最後の一枚を畳み終え、男から視線を逸らすと、男は壁に寄りかかりながら腕を組み、また外を眺めていた。



「走って帰れるような距離じゃないですか?」



「家?」



「はい」



「走って帰れない事もないですけど、走りたくないでしょう?」



「まぁ、…その通りです」



それからしばらく互いに何も話さず、沈黙が沈黙を生んだ。俺も男もただ外を眺め、帰るタイミングを伺っている。雨音というのは不思議で、煩いほどの土砂降りなのに室内にいると少し心地良い気分になってしまうのだ。最近は少し寝不足だった事もあり、俺は大きな欠伸をひとつした。その顔を男に見られた。男は片眉を上げると「眠そう」と半笑いに首を傾ける。



「眠いです。今朝、早かったんすよ」



「へぇ、何時起きですか」



「6時です」



「早いですね」



「お兄さんは、いつも何時に起きるんですか?」



「最近はびっくりするくらいバラバラです。朝6時に寝る事もありますし」



「え、大変ですね。夜勤ですか」



このインテリイケメンが夜勤か。ってことは証券マンって線は消えるかな。



「一応、夜勤ではありません。一日中仕事といえば仕事ですが」



「へぇ、一日中仕事…ですか」



仕事が何か、とは言わなかったし、聞かなかった。だが一日中仕事と言われるとやはり探偵とか事件を追い続ける刑事という線が濃くなる気がした。刑事だとしたら厄介だった。だって俺の敵だ。男には絶対に素性バラすわけにはいかない。もし近所の人間だとしたら死ぬ程面倒くせぇよな。未成年って時点で色々アウトだろうから、歳は上手く誤魔化さないとな。



「さてと、そろそろ帰ろうかな」



そう俺が男の職業を飽きもせず考えていると、男は静かにそう言ってカゴを抱えた。



「もう帰りますか? まだザーザー降りですよ」



「少し弱まったと思いますけど」



「そ、すか。…本当に帰ります?」



「君は帰りませんか」



「………いえ、俺も帰りますよ」



外は言った通りまだ大雨だった。雨足がほんの少しだけ弱まったくらいだが、弱まったと言うには誤解されるくらいに雨が降っている。


でも男は帰ると言い切って洗濯物を入れたカゴを抱えて出入口に向かって歩くから、俺は咄嗟に行動に出ていた。だってこの人の綺麗に畳まれた清潔な衣服は洗ったばかりで良い香りがするのに、この雨のせいで全て台無しになってしまうから。だから俺は洗濯したばかりのジャージの上着をその人のカゴの上に被せるように置き、カゴの中の服が濡れないように覆い被せて蓋をした。



「…え、あの…これ」



男は動揺して切れ長の目を見開く。



「洗ったやつ、濡れますよ。そのジャージはまた今度、いつか会った時に返して下さい」



「え、…このジャージも洗ったばかりでしょう」



「俺のはただのジャージですから。でもお兄さんの服、良さそうなのばかりだから。雨に濡れるの勿体ないですよ」



「え、いや、俺のは別に…」



男は俺にジャージを返そうとしたが、カゴを抱えた両手は離せなかった。洗濯機の上に置こうとするが、俺はそそくさとその場を後にする。


でもこれは優しさじゃない。



「次、会う時に返して下さい。では」



本当は次に会う為の口実を作っただけだ。俺は男に好意を押し付け、雨の中飛び出した。なんだかやけに気分が晴れて清々しかった。平凡で刺激のない、楽しい事も何もない人生だが、男と会う事だけが今の俺にとって非日常で心底面白かった。つまらない日々が、どんどんと面白くなっていく。そう期待に胸が膨らんだ。

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