春には蘭を

Rin

プロローグ: 春には蘭を

「蘭、脱いで」



「……」



「あぁ、やっぱり良いな。良い眺め」



「白川さん…」



「ふふ、睨まれると勃ってしまうね」



白川さんは俺の前に両膝をつき、俺の困った顔を見上げる。優しくゆるりと口角を上げ、俺の体に彫った刺青に視線を下ろすと、細くて長い指でその線をなぞった。俺の下腹部には龍がぐねぐねと、右の骨盤をなぞり、太腿から這っている。鴉彫りと呼ばれる墨色の龍は性器の真上で牙をむけ、冷たく鋭い瞳で世界を睨んでいるようだった。図太い体は右の骨盤から太腿にかけてうねり、爪は俺の体を引きちぎろうとしているようである。鱗ひとつひとつ、髭の細部まで丁寧に描かれている。


この見事な龍を彫った目の前の男は、自分が彫った龍をじっと見つめ、下腹部のさらに下、毛のないそこに指を這わせていた。性器に近いその部分は少しでも触れられると妙な感覚に襲われる。ゾクッと背筋に何か走るような、心臓が跳ね上がるような感覚だった。この人との快楽を受け入れようと体は強張った。緊張を解こうと深く息を吐くと、白川さんは俺の緊張に気付き、優しく微笑んだ。でもそれは甘く優しいだけの笑みにも見えるが、それだけではないのだろう。この人の笑み読めない。何を考えているのか、それは本当に優しさだけの笑みなのか。俺には分からない。俺は白川さんの楽しそうな笑みを見下ろしながら、柔らかく少しウェーブがかかった長い髪に指を絡めた。白川さんは髪に触れられると、そっとそちらの方へ頭を預ける。まるで人懐こい猫のように。



「やっぱり龍はさ、最低でもこれくらいの大きさがないとね」



白川さんがぽつりと呟いた。



「最初言ってたサイズは、下腹部に収まるくらいの小さなサイズだったはずなんですけどね」



「そうだったね。でも、やっぱり龍は大きい方が良いよ」



「そういう、もん…すか?」



「うん。大きい方が守ってくれそうな感じ、するじゃない。ねぇ、今度は何か大きいのを背中に彫らせてよ」



「背中っすか。…考えさせて下さい」



白川さんは「うん」と返事をすると、何かを考えるように首を少し傾ける。



「龍はもともと嫌いだったのになぁ。でも、どうやら龍って主を守るみたいだから、やっぱり君にも背負ってほしかったかも」



「主を守る? 俺、あんま刺青の意味とかわかってないんですけど。そう、なんすか?」



「あー、ううん。なんていうのかな、経験談、かな? 主を守るってのは、僕が見てきた事、体験した事に基づいてるの。だから大切にしてあげてね。きっとこの子も、君を守ってくれると思うから」



「そう、なんすね」



白川さんは不思議な人だった。この人の事は何も知らない。過去なんて特に、未知だった。でもこの人は今、何でもない事かのように体験した事と言ったが、それはこの人が過去に、背中に龍を入れた人と関わりがあり、その人は龍によって守られていた、という事になるのだろう。背中に和彫の龍を背負うような人って、やっぱりそっちの人なのかな。どうなのだろう。



「ねぇ、今度はさ、背中に大きく毘沙門天なんか、良いんじゃない? こう、キリッとした顔つきのを、背中一面に。龍を下腹部に入れたから、なんかこう、背中から繋がるようなデザインにしたいよね」



「そう、すね」



「ふふ、うん。蘭は素直で良いコだね。…ご褒美、あげるね」



白川さんの瞳の色は髪に比例した薄い茶色で、その瞳に見上げられるといつでも鼓動が速くなる。苦しくなって緊張するのは何度経験しても慣れない証拠だった。この人との行為にはいつも緊張してしまうのだ。だって本当に、あいつに似てるから。その瞳の色も、髪の色も。雪みたいな真っ白な肌も、手足が長くて、俺より背が高く体格が良いのも。


あいつはいつも優しく俺に笑いかけてくれていた。いつも側にいた。離れていても、近くにいた。柔和で、温厚で、俺には関わったこののない類の人間だった。


好きだった。でも今は……。



「しら、かわさん…」



白川さんは大きな手で俺のを包み込むように握り、丁寧にしゃぶる。この人のこういう姿はこれで何度目だろうかと、俺はひたと考えていた。



「うっ…ふ…」



俺という人間はいつもこの人の甘い快楽に流されてしまう。ごくりと生唾を飲み込み、白川さんの髪に指を絡める。後頭部を押さえ付け、喉奥に当たる感覚がした。腹筋に力が入り、びくんと強く体が反応する。欲を放つと白川さんは俺をそのままベッドへと押し倒した。俺より一回り大きいその人は、もちろん力も俺より強い。きっと、あいつも俺なんか簡単に押し倒せるのだろうな。いいな、それ。あいつのことを忘れよう、忘れようと必死になればなるほど、深い暗闇に落ちて行くようだった。


どう足掻いても苦しいだけ。だから俺は白川さんといるのに。白川さんといる時だけは、何もかもを忘れてしまえるから。白川さんは甘く、優しい笑みを浮かべながら俺の唇に触れた。



「たくさん気持ちよくなろうね」



優しい口調なのに、どこか違う。 俺の欲しい人と、どこか違う。 この人は違う、と、熱い息を吐きながら、快楽に思考が止まりそうになりながら、そう思った。事が終わると白川さんは満足したように下腹部の龍に軽くキスを落とし、部屋のカーテンを開け、学生の下校を眺めている。



「ねぇ、蘭の青春ってどんなだった?」



白川さんはタバコを取り出しながら、そう訊ねた。



「青春です、か…。あまり青春らしい事、してなかったから、…よく覚えてません」



俺の濁した返事に、「そっかぁ」と白川さんは特別、興味を示さない。白川さんは火の点いていないタバコを指に挟み、膝を抱えて窓辺に座り、外をただじっと眺めている。その腕には蛇と鬼が彫られ、その太ももには背中から繋がる鳳凰の尾がたれている。甘い顔をしたこの不思議な人は、体に和彫りの刺青をいくつも入れていて、それは本当に迫力があり、圧巻だった。


この人は、俺に興味を持っているようで、持っていない。縮める事の出来ない距離というのがいつもあった。いや、それで良いのかもしれない。だって俺はきっと忘れようと必死になっても、結局は、忘れる事などできないあいつだけを、今もこれからも追い続けてしまうのだから。

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