ユア・ブラッド・マイン―冥き獣たちの墓標―

ぜっつん

『ひとつ目。それは、自罰の獣のお話』

EP.1『はじまりには、嵐が在った』

 ごうごうと、風が吹いていた。


 かつて地上十数メートルのビル群が立ち並んでいた筈の世界は、今や打ち砕かれた瓦礫の山がまるで砂嵐が如く吹き荒れている。

 金網みたいに入り乱れる竜巻は、先にこの世界に呑まれてしまった人たちの血潮で赤く染まっている。一体何百の人々があの中で粉微塵に砕かれたのか、想像する事すら叶わない。


 これは終の雨だ。触れるもの何もかもを絶命させる死の嵐、この世にあってはならない筈の地獄の顕現。ソレはこれまでと何ら変わらぬ日常の最中、まるで盤面を力づくでひっくり返したみたいに世界のあり方を変貌させた。


「――――ぁ。」


 この豪雨の中では、人はきっと一秒と生きられない。その礫の先が微かに肉を掠めるだけで、容易にこの四肢を砕け散らせるモノだ。

 だがソレでもこの意識は継続している。今まさに血肉が弾け飛ぼうとしていながら、鮮血のカーテンが視覚を覆い尽くしながら、今すぐにでも死んで解放されたい程の痛みに晒されながら、ソレでもこの命は継続している。


 一瞬が何時間にも何日にも感じられる、なんて表現はあまりに生ぬるい。永々無窮、一瞬の無限、それがこの地獄の本質だ。


「――――――っ、ぁ。――――?」


 極限にまで引き延ばされたコンマ一秒が猛毒となって、まるで薄紙に染み込んだ水のように精神を浸していく。

 巻き上げられた粉塵と瓦礫の天幕で、先程まで/随分と昔まで空を覆っていた晴天は見る影もない。ただ、この嵐の中枢で爛々と輝く恒星のような輝きだけが、この灰色の世界に於ける視覚の機能を保証してくれていた。


“ああ、ああああああ、あああああああああああああああ”


 ソレは血に飢えた獣の咆哮のような、或いは絶対的な恐怖を前にして溢す絶叫のような、張り裂けんばかりの崩壊さけびそのもの。

 この極限の地獄の中にありながらも自らの構成速度を維持したソレは、きっとこの空間において唯一存在を許された『生命』だった。“ぼくたち”のように、世界の速度から取り残されてしまった塵芥とは違う、唯一のいのちだった。


 恒星の光を中心に、世界は爆発的に書き換わっていく。“ぼくたち”には守りたい人がいて、歩みたい未来があった筈なのに、その全てはこの無限という世界の中で色褪せ、朽ち果てていく。

 罵倒も疑問も、口にする前に風化した。救いを求める懇願も、遥か太古に朽ちて壊れた。


 ただ、ここには風があった。


 触れるモノ全てを切り刻む風と、終わることのない永劫があった。“ぼくたち”はこの永劫の夢を見ているのか、それとも未だ始まりからたったの一秒も経過してはいないのか。それすら、考えることはとうに放棄していた。

 恐怖という感情は色褪せて、苦痛という感覚は退化した。ただ、残っているのは漠然とした名残りだけ。


 “ぼくたち”はずっと死んでいた。死にながら死んでいて、生きながらに死んでいた。そうしてずっと死に続けていたから、もうとっくに在るべきだった“ぼくたち”のカタチなんて忘れてしまったけれど。


“あああああ、ああ、あああああああああああああああああああああ”


「――――――――――、ぁ」


 ただ、その『恒星』があんまりにも寂しそうに泣いていたので、あんまりにも苦しそうに哭いていたので。

 どうしても、心のどこかがぎゅっと苦しくなって、そこで夢は終わるのだ。


  ⬜︎ ⬜︎ ⬜︎


「……ぁ」


 夢の中で溢した声は、いつの間にか現実の肉体にも――雨宮あまみやしゅうという存在にも反映されていたらしい。


 閉じた瞼の上から容赦なく照らしてくる陽光の気配に、微睡む意識が少しずつ覚醒していく。感覚の遠い右腕をふらふらと持ち上げて容赦のない日差しを遮り、光に慣れさせるように僅かずつ眼を開いた。


 部屋の一角に設置された年季たっぷりのホールクロックが示す時刻は午前6時頃。いつもの起床時間よりは少し早いが、とはいえ再び眠りにつく程の猶予があるわけでもない。

 未だ残る眠気を振り払うように乱雑ながら頭を掻いて上体を持ち上げると、不意にコンコンと部屋の戸を叩く音がした。


「失礼します――っと、もうお目覚めでした?おはようございます、今日はお早いんですね」


「……おはようございます、那月さん」


 ティーワゴンを押して部屋を訪れたその人物は、この雨宮邸に給仕として雇われている女性だ。苗字は確か小原だとか聞いた記憶があるが、あまり定かではない。というのも、当人が『あんまり可愛くないじゃないですか』と苗字呼びを徹底して嫌っているのが要因だ。

 きちんと名前の『那月さん』で呼ばなければ拗ねてしまうので、今では那月さんで完全に浸透してしまっていた。


「今朝のお茶は、ブザイ王国から特殊なルートで取り寄せた非売品です。あちらの大家が名のある方々を持て成すため独自に配合したモノですので、本来は滅多にお目にかかれないような代物なんですよ」


「……いつもの事ながら、一体どこからそんなモノを?」


「秘密です♡さ、ご用意しますので少し待ってくださいね。いつも通り、少し冷まします?」


「お願いします」


 はぁい、とふわふわした口調で了承の意を返した彼女はカラカラとワゴンを隣にまで寄せると、慣れた手つきで豪勢なティーセットの準備を済ませていく。

 とん、とポットの蓋を叩けば、その動作に反応するようにポットの外側を彩る装飾が淡い青色の光を宿した。記憶が正しければ、ソレ自体を急速に冷却する事で自由に内容物の温度を調節する事の出来る、魔鉄製のティーポットだった筈だ。


 一世紀ほど昔、世界各国にまるで湧き出すように姿を現した未知の金属『魔鉄』により、世界中の文明は飛躍的に発展した。


 『魔鉄』は外界のあらゆる物理的アプローチの一切を遮断し、当初は加工不能の金属、物質界の悪魔とも言われていた。だがその『魔鉄』と同様に世界中で存在が確認され始めた特殊な体質――過剰想起体質者、通称OオーバードIイメージ能力者が描くイメージに沿ってのみ、その姿や性質を自由に変化させるということが後に判明する。

 エネルギーの有無を問わず、与えられた性質を発揮し続ける事もできるこの技術の発展は、文字通り世界中の常識を変革するほどに大きな変化だった。


 それは良い意味でも、当然悪い意味でも、だ。


「あ、美味しい。あと、ちょっと甘い?」


「夢見が悪いようでしたので、少しお砂糖を入れてみました。適度な糖分は脳のリラックスに良いそうですよ」


「……ありがとうございます」


 彼女は微かな顔色の変化から、コンディションの変調を見てとったらしい。流石の観察眼に舌を巻くばかりだ。


 シュウがこのような夢を見るのは、別に今朝に限った話ではなかった。それは文字通り嵐のようにやってきては、彼の世界を何もかもめちゃくちゃにして気付けば去っている、そんなモノ。

 もうとっくに慣れてしまった……或いは慣れざるを得なかったとでもいうべきか。生まれてからずっと見続けてきた、もう一つの現実とも言うべき光景。


 夢想の中に吹き荒れる嵐は十七年という月日を経ても、決して愁という存在を離してはくれなかった。


「――うん、落ち着いた。美味しかったです」


「ふふ、それは何よりです。今日も朝食は日課の後になさいますか?」


「はい。いつも通りでお願いします」


「かしこまりました。では、また後ほど」


 慈母のような微笑みを湛えたまま恭しく頭を下げた那月はティーワゴンをカラカラと押しながら、先んじてシュウの自室を後にする。その様子を見送ってからベッド下のスリッパに足を通して、横のラックに掛けられた半纏はんてんを羽織った。

 こんな時代を感じる洋館に半纏というのもいかがなものかという話だが、どうせこの別館には自分と那月以外の人間は住んでいないのだ。他の雨宮の人間すらこちらに足を運ぶことはまず無い以上、誰かに咎められるような謂れもない。


 裏の勝手口から外履き用のスリッパに履き替えて、竹林を分けるように整備された道を歩く。秋も深まってきたこの頃、肌寒さに身を震わせる機会も増えてきた。


「……っ」


 微かに痛む眼孔に眉を顰めながら、日差しから目を覆って空を見上げる。視界を覆う緑のカーテンの隙間から微かに覗くのは、真っ白な外壁を持つ巨大な建造物だ。

 聖憐学園。魔鉄の登場に併せるように世界に産み落とされた、こことは異なる世界との繋がりを持って生まれた少年少女のための学び舎。


 この竹林は――否、この竹林の先で繋がっている難波臨界緑地公園は、そんな校舎の裏手に広がっている。なぜ緑地公園の裏に学園をなどと疑問に思うのは仕方のないことだが、ある意味では当然の摂理と言えた。

 この緑地公園は、数十年ほど前に突如として発生した。発生した、という表現が適切かどうかは定かではないが、ともかく発生したとしか形容できないので仕方がない。


 日本皇国に数箇所存在する都市部の一角。大阪府二大繁華街の片割れたる難波は、その昔はオフィスビルや多くのブランド店、或いは著名な飲食店などが立ち並ぶ観光名所でもあった。別に今がそうではないという訳でもないが、少なくともこの近辺は当時からそのあり方を大きく変えている。

 魔鉄文明が世界に出回り始めてすぐの頃、世界中で大きな混乱が発生した。それは例えば経済的な混乱であったり、治安的な混乱であったり。或いは、国家間の秩序的な混乱であったりといったモノ。


 日本という国も多かれ少なかれ、その混乱の余波を受けた。変貌した新たな戦争のカタチを振り翳して攻め入ってくる脅威も、少なからずあったのだ。

 そうした敵国の刺客との交戦中、超常の力同士が衝突した結果、付近一帯の街並みは消し飛んだ。その跡地に生まれたのがこの難波臨界緑地公園の前身――大阪府防衛戦、臨界事件跡地、という訳だ。


 聖憐をはじめとした聖学園は、そんな人類の新たな闘争のカタチ……人智を越えた超常の力を振るい、従来の兵器による干渉の一切を意に介さぬ『製鉄師』と呼ばれる人々を育成するための機関でもある。つまるところ、国防の基点の一つ。

 超常の影響を色濃く受けたこの土地は、聖憐に所属する製鉄師らの手によって管理されている。それは例えば、シュウに先んじて目的地に立っていた、彼女のような。


「――や。おはよう、ユズ」


「……毎日飽きないね、雨宮くん」


 気さくな挨拶に嫌味で返してきたのは、まるで生きた人形かと疑う程に美しい少女だった。

 肩ほどまでの混じりっ気のない黒髪に、ほのかな黄金色の色彩が美しい瞳。少しばかり小柄な体格とは裏腹に、真っ白なレース生地のトップスの上からでもその女性的な膨らみはしっかりと感じさせられる。

 髪色と同様に深い黒色のロングスカートには腿あたりからスリットが入っていて、日焼けなど関わりすらなさそうな程に真っ白な足が覗いていた。


 雛崎ひなさき柚鈴ゆず、聖憐学園高等部に所属する一年生。つまるところ愁の一つ年下である16歳の少女であり、件の超常社会に生きる人間……『製鉄師ブラッドスミス』と呼ばれる人々の内の一人だ。


「それはお互い様だろ。っていうか、毎朝こんなに早くから居たのか?今日はそこそこ早起きだったつもりなんだけど」 


「早朝の方が人は少ないから、落ち着いて鍛錬出来る。華恋も、寝てるから来ないけど」


「華恋さん、見るからに早起き苦手って感じだもんな」


 話に出た華恋というのは、彼女の相方である魔女の名を指している。

 製鉄師と呼ばれる人種は、基本的に二人一組のペアで構成されている。これはそう言う形式が推奨されるとかそういった話ではなく、そうでなければ製鉄師として活動することが不可能だからだ。


 ペアの内訳は、まず一人が当然製鉄師当人。言い換えるなら、製鉄師として成立したオーバード・イメージ能力者だ。過剰に想起されたイメージ――彼らが垣間見た別世界の景色を現世に引き出し、超常の力として振るう術者本人。

 そしてもう一人。空想を現実に具現化するための力の源泉、OI能力者が抱えるもう一つの世界を解釈、出力する特異な体質を持って生まれた少女たち。


 彼女らは、一般には『魔女アールヴァ』と呼ばれる。かつて魔鉄の出現とともに少しづつその存在が確認された、その素質が高ければ高いほど銀に近づく髪色と、十代前半頃で成長が停止するという特殊な体質を持った女性の総称だ。

 OI能力者と魔女が契約を結び、彼らが抱えたその世界を魔女に託す事で、製鉄師たちは人智を超越した異能力者として成立するのだ。


「……日課は大丈夫?」


「っと、そうだった。ちょっと失礼」


 律儀に促してくれるユズの言葉で当初の目的を思い出して、彼女の後ろにある石碑へと足を運ぶ。話しているのもいいが、朝食を用意して待ってくれている那月さんをあまり待たせるのも忍びない。


 その石碑は、この緑地を産んだ臨界事件の被害者らの冥福を祈って建てられた慰霊碑だった。

 交戦に伴う近隣地域への避難勧告こそ出されてはいたものの、半径数キロにも渡って発生した超常現象の暴発は、実に数千人にも及ぶ被害者を産んだ。まるでマンガじみた規模の竜巻や暴風が辺り一帯を抉り、大小様々な瓦礫の雨は巻き添えとなった人々の肉体を粉々に打ち砕いていく。


 辛うじて破壊を免れて残されてたその記録は、雨宮愁という人間が囚われ続けている夢の世界での光景に他ならなかった。


 事件が起きたのは今から30年ほど前のこと。今現在未成年である愁は当時まだ生まれてもいない上、この事件について詳細を知ったのはつい五年ほど前の事だ。だというのに、この夢は物心ついてからずっと愁を捕えて離さない。

 前世がこの災害の被害者だったのか。或いはたまたま似た光景の悪夢を垣間見て、以降トラウマにでも残してしまったのか。その辺りのところは実際定かではないが、それでも一縷の希望を信じ、愁は一日も欠かす事なくこの石碑へと足を運んでいる。


「――、ありがとう、助かるよ」


「……別に。構わない」


 石碑に乗った落ち葉を払い、被害者らの名が刻まれた一面へ付着した土埃は、ユズが近くの給水所から持ってきてくれていた水バケツで洗い流す。

 愁の毎日のルーティーンと化している関係で、派手な汚れが付いている事は殆どない。時間にして数分と掛からぬ作業ではあるが、精一杯の祈りを込めて余分な水分をタオルを用いて拭き取っていった。


 この悪夢が、愁の垣間見る地獄の風景が、もしもこの慰霊碑の下で眠る誰かの見た光景だと言うのなら。

 もう、充分にわかりました。あなたの嘆きを、あなたの苦しみを聞き取りました。だから、どうか。


「どうか、もう眠ってください。もう、解放してください」


「――。」


「……もう、許してください」


 石碑の前に屈み込み、両手を合わせて祈りを捧げる。呟くようにぽつり、ぽつりと言葉を溢して、名も知らぬ誰かへと懇願する。

 これが意味のある行為なのか、そしてこの懇願が届くのかなどわかったモノではない。だが気休めでも、あの悪夢から解放される日を祈る事は止められない。止めることなど、できる筈もない。


 がさり、と背後で落ち葉を踏みしめる音がする。微かな息遣いの音の発された位置から鑑みるに、ユズもまた屈み込んで何かを祈っているようだった。

 これが、愁にとっての一日の始まり。事件を知ってから五年間、ずっと欠かすことなく続けてきた願掛けの儀式。


 そうして今日も、無限の死ねむるまでの一日が流れ始める。



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