さよなら レイ=ペンバー
石田くん
さよなら レイ=ペンバー
俺は怒っている。
まず最寄に急行が停まらないこと。
まず今が二十二時だということ。俺が大学一年生なのにこんな時間まで働いているということ。
まず金がないこと。今のSuicaの残高が二百六十五円だということ。
「まず」が三つ続くのは基本的におかしい。「まず」というのは「一番」という意味だと思う。なので「まず」から始まる文章は一つでないといけない。そんな風に理屈っぽいのは、俺が国語好きだからだ。もっというと俺が創作者だからだ。俺は詩人になりたい。
俺の職場はお堅くて困る。日本橋のどでかい本屋の、クソつまらないビジネス書コーナー、客は全員金儲けに黒目を満たされて生きる意味を見失っている、の十七時から二十一時半のシフトに入って、ずっとレジをやる。この前休みの日に新宿の違う系列の本屋に行ったらセルフレジが見えて、俺はその場で倒れて死にそうになった。俺はその日からずっと、働いている間の自分はロボットだと思っている。そして俺は本当はロボットではないので、俺は働いている間ずっと悲しい。
俺は駅のベンチで怒っている。まず俺の最寄に急行が停まらないこと。急行で俺の最寄の一個前の駅まできて、対面のホームに停まっている各停に乗り換える。大体いつもはそうだ。たまに各停が来るまで数分待つ日がある。今日はそれだ。二分。二分も立っていられなかったので、乗り損ねるのが心配ではあるが、各停が来るであろうホームに背を向けて、今降りた急行が走り去ったホームに向かって座る。ふと、左の電光掲示板を見る。今向かい合っているホームに各停が来るとわかる。俺は少し安心する。視線を左に向けたまま落として、ぼーっとする。まず考えるのは自分の事、さしあたり何者でもない自分の事である。俺は詩が好きで、自分には才能が有って、詩人になれると思って、四月は短歌会や詩吟会の新歓に行ったりしたけれども、先輩も同級生もずーっと訳の分からないことを言っているのでやめた。俺は臭い知識のお披露目会を見たくて来たのではない。
違う。もう九月なんだから、俺は正直に言わなくてはならない。他の学生が訳の分からないことを言っているのではなくて、俺には他の学生の言っていることがわからなかったのだ。俺は詩人になりたいのに、詩を読んだことがなかった。昔教科書の端で読んだゴンドラの唄の訳に魅せられて、その香りを忘れられないだけであるという事を認めなければならない。
俺はその幻惑の中で高校の三年間と大学一年の春を過ごして、その間にプライドだけが高くなっていったと思う。国語だけを取柄にして大学受験を突破し、勉学の才能(こちらも実は大してありはしない)と創作の才能を都合よく混ぜて、僕は夏まできてしまった。大学生になりたてのバイトを決める時期は、その混同のおかげで自分は本が好きだと思っていたので、本屋を選んだ。挙句ロボット。この際見つめると、僕は恐らく、本を読むのが好きではない。ただ詩を書くのが好きなのだ。そしてもう少し長く見つめると、僕はあまり詩を書いたことがない。スマホのメモに、たまに打ち込むだけだ。・・・
ぼーっと、左を見つめる。足を組んで、膝に両手をひっかけて、左に上半身は流れている。いつの間にか、二つ隣にベビーカーを連れた母親が座っていた。母親が赤ん坊に話しかける。赤ん坊は恐らく愛されていると思う。僕はそれがとても羨ましい。赤ん坊はその時点で、その赤ん坊がその赤ん坊であるだけで愛されていると思う。僕もそうなりたい。そして今のところは、詩によって、そうなりたい。僕は僕であるだけで愛されたい。赤ん坊を一瞥する。少し目線を変えて、赤ん坊と母親を同時に視界に捉え、家族として見る。なぁ母親よ。僕にそのおっぱいでも吸わせてくれよ。俺とその赤ん坊の何が違うって言うんだ?俺も必死に生きてる。というか今の時点では、俺の方がその赤ん坊よりずっといろいろなことができる。国語もできる、詩を書ける、英語も少しは読める。だいぶ頭がいい。・・・僕はこの醜さのおかげでずいぶん迷惑している。
僕はもうずいぶん死にたい。なんでもいいな。何者かになりたい。せめて。
目の前に電車が来た。僕は立ち上がろうとする。昨日読んだ漫画のあるシーンを思い出す。
ある犯罪者(その犯罪者が主人公なのだが)の正体を突き止めようとするFBI捜査官のレイ=ペンバー。駅構内で犯罪者に背中から凶器を突き付けられ、犯人の顔もわからぬまま山手線の電車内で犯人の指示に従い行動する。一時間半山手線に乗り、犯人から指示された行動を全て終え、ホームに降りる。犯人を一目見ようと怪しい人物を車内に探したその瞬間、レイ=ペンバーは犯人の策略によりその場で倒れこんで死んでしまう。死の間際に、閉まる電車のドアを見ると、以前尾行した後に犯人でないと断定されていた主人公がこちらを見つめて、最後に呟く。「さよなら レイ=ペンバー」
レイ=ペンバーでもいいから、なりたい。脇役には過ぎないけれども、名シーンであることには変わりない。誰かはきっとキャラの中でレイ=ペンバーが一番好きなはずだ。
目の前に電車が停まる。僕はよろよろと歩き出す。ドアが開く。僕はどさっとホームに倒れこむ。どさっと音が鳴った。顔から少し血が出たかもしれない。「各駅停車〇〇行」僕は少し息をして、「ドアが閉まります」閉まるドアにゆっくり顔を向ける。「ドアが閉まります」熱い息を吐きながらドアが閉まる。犯人の足が見える。「駆け込み乗車はおやめください」眼だけ動かして目線を上げる。犯人の顔が見える。「ドアが閉まります」僕がこっちを見ている。電車の中の僕は、僕に向かって言った。
「さよなら レイ=ペンバー」
さよなら レイ=ペンバー 石田くん @Tou_Ishida
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます