その手に触れて

ナナコロ ヤオキ

第1話 眠すぎる…

 眠すぎる…。また今日も朝だ。


 スマホの目覚ましアラームを職場で止めるのは何回目だろうか。というか、もしかしたら家で聞く方が少ないかもしれない。同僚の中には机の下に寝袋や夜食がたんまり入った箱、安眠(できるわけないが)のためのアイマスクなどのグッズを常備しているやつもいる。

 伊谷いたに信弥のぶやはこの鬼畜会社に入って5年になる。

 同僚のように、枕を持ってきたら疲れ具合が幾分マシなのかもとも思うが、そう準備をすることがフラグになるんじゃないかという恐怖と、そういう日常に慣れてしまうのが怖くて、意地でもお泊まりセットの用意を拒否している。すぐにでも辞めてやると思い続けて5年。そうして今日もいつものように会社にお泊まりである。今日はまた、作業中に落ちてしまっていたようで、座ったまま机に突っ伏していたために、背中から足まで痺れて動けなかった。

 それでも、バッキバキになった体をなんとか起こして、仕事再開前にお腹だけでも満たそうと近所のカフェまでやってきた。


 今の案件が終わったら辞めてやる。


 それももう何回、何十回思ったことか。


 通りに面した日差しの暖かい明るい席。そこに影を落とすように、信弥は両手で苦いコーヒーのカップを包むように持って項垂れている。

 クーラーで頭や背中は冷えるし、ガラス越しの日差しはなかなか暴力的。


 座る席を選び間違えたな。


 しかし、移動する気力も湧かない。いい感じで頭が重い。

 このまま寝てしまいてーなー。


 半分夢心地だった信弥は、そこで突然現実に呼び戻される。

「うわぁあ!!すみませんっっ!!!」

「バカ、お前何やってんだ!」


 気付けば信弥は、頭からアイスコーヒーを被っていた。

「これがあったかいシャワーだったらよかったぁ…」

 つい、ぽろっと出た一言に相手はびっくりしている。

「…い、いや、いやいやいやいや、そーじゃないでしょうよ、タオルもらってきたからコレでとりあえず拭いてください!」

「大丈夫ですか!?ほんとすみません!」

 信弥の間の抜けた一言と鈍い反応に戸惑いを隠せないまま、お兄さん二人がせかせかと動いている。

 側から見たら、完全に介護状態である。そこに店員さんも加わって、ざわついている状況にやっと頭がついてきた信弥は慌てた。


「いや、ほんと大丈夫です。冷やされて逆にスッキリしたくらいです。」

「そんな訳ないでしょう…」

「あの、とりあえず、うちに来てください!良いっすよね、店長。」

「ほんとに大丈夫ですよ。この後も仕事ですし…。」

「いや、じゃあ、なおさらちゃんとキレイにしないと!事情なら俺、説明しに会社まで行くんで!」

「すみません、ぜひ来てください。てか寧ろお詫びさせてください。すぐそこで美容室やってるんです。Tシャツくらいなら着替えもあるんで、頭流させてください。」

 店長と呼ばれていた男性が、興奮気味の青年の首を押さえつつ、穏やかに申し出た。

 ここで押し問答になっても騒ぎが収まらないし、ベトベトのままで会社にも戻れない。

「じゃあ、コーヒー流すだけでも…お願いします。」

「分かりました!任せてください!!!」

 青年に激しくパタパタと跳ねる耳としっぽが見えてきそうな勢いである。結構背があるから大型犬だな、と信弥は思った。

「はしゃぐな、誰のせいだと思ってる。」

 店長にたしなめられ、耳としっぽが垂れ下がる。

 それを見た信弥は不意に笑ってしまった。

「いや、いいですよ、沼から引っ張り出してくれたので。

「「は??」」

「夢です。こうズブズブっと、暗い沼にハマって身動き取れない、っていう夢を見てたんです。さっき。そしたら急に雨が降って全部洗い流してくれたんですよ。」

 それは本当だった。コーヒーのカップを握って一瞬落ちた瞬間に、泥に包まれてもがいている夢を見た。そして、雨が降ってきてスッキリした気持ちになったのも本当だった。

 何を言ってるんだ?というような顔をしていた二人だったが、信弥の疲れ具合を察したようで、同情するような表情で見つめられた。その後は丁寧に寄り添いお店まで案内してくれたのだ。その姿は本当に介護のようだった…。


 ヨレヨレのシャツとスラックス、ぼさぼさの頭(おまけにコーヒートッピング)。そんな格好で綺麗な店舗に入るのを躊躇ったが、まだ開店前、という状況に助けられた。ここにおしゃれなお客さんや、他のスタッフがいて、好奇の目で見られるなんて事はやめて欲しかった。耐えられそうになかった。

「急ぎますね。」

 シャンプー台に案内されて手慣れた様子で準備する。

「さっき上司に連絡したら、ちょっとゆっくりしてこいって言われたんで、なんなら一回家に帰れ、って。だからそんな急がなくて大丈夫です。あ、でもお店の邪魔にならない程度で。」

「俺は全然大丈夫なんですけど…」

 何やら青年の表情が暗い。なにを心配しているんだろう。

「…あ、あの、上司は怒ってたりする訳じゃなくてですね、僕が疲れてるの知ってるんで、慌てて戻ってこなくていいよって意味で。」

「なんだ、上司の方は、優しい人なんですね。」

「というか、社長がちょっとバカで、営業が鬼なだけで…みんないい奴ばっかなんですよ。それがなかなか辞められない理由でもあるんですけどね…。」

「そういうことなんですね。てっきりマジもんのブラック企業なのかと…」

「まぁ就業環境は実際ほぼ黒に染まりかけてますけどね…。はは…」

「その社長さんたちにみんなで抗議はしないんですか。」

「バカで鬼畜だけど、いい人たちなんですよ。参りますよね。」

 信弥はそういって笑った。作り笑いではない。普通に、普通の笑顔だ。

 青年は少し驚いたが、つられたように優しく笑った。

「いい職場なんですね。」

「はい、いい会社なんですよ。鬼が住んでますけどね。」

「良かったです…。」

 青年の声が安心したように聞こえる。椅子を倒して目をタオルで覆われた。いい匂いがする。柔軟剤の香りだろうか。

「こちらの店長さんもステキな人だよね…。」

「…そうですね、俺の恩人で、最高の上司です。うるさい時もありますけどね。」

 その声から、本当に慕っているのだろうということが分かる。仲が良いんだなと思う。

「でも、いつまでもガキ扱い…すみません、子ども扱いなのは困ってます。」

「いいですよ、楽に喋ってくれて。僕は『お客さん』じゃ無いですから。」

「そういうわけにはいきません。それにあわよくば…と思ってます。」

 正直な子である。話していて気持ちがいい。その低めで優しく響く声も、シャワーの音も、水温も、全てが気持ちがいい。頭を掴まれる手が、力強いのに包み込まれてる感が半端ない。この安心感…どちらかというと、こちらが頭をわしゃわしゃと撫で回して愛でてやりたくなるような子だと思ったのに…いや、変な意味はない。気分が良くてちょっとおかしくなっているのだろう。

 少し恥ずかしくなった。タオルをズラして顔全て覆いたい。

 信弥は話すのが苦手なのだが、青年が聞き上手なのか会話が全く苦痛ではなかった。会話が途切れず、余計な事まで話しすぎたかもしれない。楽しい時間だったが、会話後に後悔するのは今回も変わらなかったらしい。

 シャンプー台から席を移動して、軽くタオルで髪を拭きながら青年は言った。

「時間あるならついでに髪、切っていきません?」

「そこまでしなくていいですよ!」

 ぎょっとして信弥は答えた。が、キツく言いすぎたとすぐに反省して言い直す。

「すみません、そんなに時間取らせられないですよ。コーヒーを洗い流してもらっただけで十分です。シャツも借りちゃいましたし。」

「どーせする事なくて暇ですし、お代も要りませんし。練習台になるつもりで、お願いします。」

 ずるいな、その顔は。そんなに耳をしょんぼりさせてもダメなんだからな。

「こら!マコト!暇とか言うな、印象悪いだろ!」

「えー、実際暇でしょ、今の時間は。」

「今日、今、たまたまな!」

 二人のやり取りに苦笑いを浮かべる。

「必死になると、余計心象悪くなるっすよ〜ほらお客様の前、前。」

「いや、僕はお客様では…。」

「いいでしょ?お願いします!絶対似合うように、絶対かっこよくしてみせますから!」

 そう言って鏡越しに信弥の顔を覗く青年は本当に人懐っこい大型犬だ。それに距離感もバグっているようだ。鏡を見ていてすぐに気づかなかったが、頬が触れそうなくらい顔が近い。いい匂いがする。

 出会い頭でコーヒーをかけられた後からは、ぼんやりしたまま連れてこられ顔にタオルをかけていたため、初めてしっかり青年、『マコト』くんを見た。信弥の友だちには、いないタイプの『今時のおしゃれな男の子』である。黄色に近い明るい色で長めの髪を流してあるが、全くいやらしく無い。チャラい感じもするが、ちゃんと清潔感もある。テレビに出てくる見るアイドルみたいな子だなと思った。不意に、伊谷はそういう言い方するところ、おじさんみたいだなと同僚に言われたことを思い出した。確かに三次元には興味が無く、最新の情報に疎いところは否定できないが。

 それにしても、マコトくんもビジュアルがいいし、鏡の奥に写っている店長は、40代くらいだろうか。きつめのパーマであれはあれで触り心地が良さそうだ。雰囲気も気取ってなくて、親近感がわく。営業の志儀しぎさんと同じくらいの歳であろうが、しかし、アロハシャツにハーフパンツという格好が手伝ってもっと若い印象である。いつのまにか増えていたスタッフの女の子もちょろちょろ動き回る姿が可愛い。勝手に顔が緩んでしまう。

「オッケーっすか!?」

 つい、出てきてしまった笑顔を「承諾」の意味に捉えられてしまった。

「あぁ、いやぁ、でも、ちょっと恥ずかしいんだよね…僕1000円カットしか行った事ないし…」

「なんでそんな気にするの?」

 その言葉にはなんの含みも無い。信弥を覗き込んでくるピュアな瞳。

 なんで?なんでって言われると…なんで答えたらいいのか分からず余計恥ずかしくなった。

「髪切るだけじゃん。」

 なんて澄んだ目。マコトくんの後ろに映る店長さん。すべてを悟ったような表情で生暖かい眼差しを信弥に向けている。そして、目が合った瞬間、ゆっくり頷いた。「何も言わずに任せてやってください…」そう言われた気がした。

「お、お願いします…。」

「任せてください!」

 咲いたような笑顔が眩しかった。


 洗ってもらう時もそうだったけれども、くすぐったいような、恥ずかしいような、でもとても心地良い気分だ。なかなか人に頭を触られる事がないから、新鮮な気分である。

 怒られるかもしれないが、さすが1000円と違うなと思った。いつものところでも決して悪くはない。短時間で、伸びた分だけ切ってもらってその場で、はい終わり、さよなら。入り口までついてきてくれて、別れ際にいつまでぺこぺこしなきゃいけないのか分からない、そんな小綺麗な洋服屋の店員みたいな堅苦しいめんどくさい事もなく(信弥はコレが本当に苦手)、さっぱりと帰れる気軽さ。何度となく通っているのに一切こちらの顔も覚えていないような適当さも楽でいい。悪いところはといえば、ちょっと扱いが雑なところと、そして雑なところ。髪が引っ張られて痛かったり、櫛やハサミが勢いよく動くためよく刺さる。でも、怪我もないし、値段が値段なため、文句は言えない。たとえ左右の長さが違っても文句は言えない。(いや、中には丁寧な人もいるんだよ?)

 まぁ、なんやかんや、早さと値段が一番なので特に他のところに行く選択肢が今までは無かった。

 でも、こんなに気持ちいいのなら、変えてしまってもいいかもしれない。

 ただ…こういうところは、いくらするんだろうと思いながら、ちらちらと店内を見渡す。目だけで追える範囲にメニュー表のようなものは見つけられなかった。途端に不安になる。時価で出す寿司屋に入ったみたいだ。タダだとは言われているが、なんだかドキドキしてきた。

「そんなに怖がらなくても、耳切ったりなんかしないすよ。これでも、腕は認めてもらってるんで、安心して。」

 マコトくんは、大きな口を開けて笑う。気持ちよく笑う子だな、と思う。目が合った店長がまた、大きく頷く。

「いえ、不安な訳ではなく、単に、緊張してるだけで…、大丈夫、君のこと信用してるから!」

 ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったかも知れないと思いながら、ゆっくり彼を見ると、一瞬固まったあとすぐに表情を崩した。

「会って間もないのに、嬉しいっすね…ありがとうございます。がんばりますよ〜!」

「コーヒーぶっかけたのにな。」

「ちょっ、余計な事を…。」

「ほら、あれは、僕もぼーっとしてたし、それにほら、そのおかげで二徹明けの洗髪もしてもらって、髪も切ってもらえるんだし。」

 信弥は、マコトにしょんぼりとした耳が見えたので、フォローした。

「二徹…。」

 あ、しまった。話すのが苦手な理由は、こういうところにもある。余計なことを言ってしまうのが悩みの一つでなのである。

 ほら、みろ…心配そうな顔をしている。

「ヤバいすね…ご飯はちゃんと食べてるんすか?」

「あー…食べてるよ。家に帰れてないだけで仮眠はとってるから大丈夫ー。」

 不自然ね棒読みになってまった。つい、『エナドリとかゼリーを』とか言ってしまいそうになったが、そこは飲み込めた。

「髪切り終わったらマッサージもしましょうか!」

 そう言いながら、すでに伸びっぱなしの髪を触り始めている。軽く引っ張ってみたり、手櫛でといてみたり、くしゃくしゃっと撫でてみたり。

「…じゃあ、…お願い、しようかなぁ…。」

 急に瞼が重くなってきた。

 しっかり起きてないと、切れないじゃないか。『マコト』くんが困る…。

 鏡の中で動くマコトの手を見つめた。


 魔法使いみたいだなぁ。


 心の声か、実際に出してしまったのか、もう分からない。

「寝てしまっていいですよ。」

 マコトのその言葉すら、現実か夢か分からなかった。



「終わりました。」

 ぼうっとする。

 急に我に返り、まずは謝罪。

「いや、それはおかしいでしょ。は要らないっすよ。」

 気付いたら他の客が増えていた。

 

 …恥ずかしい…。


「で、どうすか?見てみてください。」

 耳のすぐ横で声がする。

 本当にこの子は、距離感が…。


 いろいろ心臓に悪いなぁと思いながら鏡を見る。

「俺こんな顔してた?」

「ぶはっ!」

 店長が吹き出した。

「すみません。でも変わるでしょ?ほんと腕はいいんですよ。バカですけど。」

「ちょっと眠れたのもあってか、表情も柔らかくなりましたね。」

 すごいすごい、スルーできたんだね。

 一瞬、店長に何か言い返そうとしたのを飲み込んだ事を、信弥は気付いていた。できなかったことができるようになった子を見守っているような、褒めてあげたいような、なんだか微笑ましい気持ちだ。ただどうやら、ニヤけてしまうのを我慢していると顔が険しくなっていたようだ。

「切り過ぎちゃいましたか?」

 心配そうにマコトが聞いた。

「大丈夫、問題無いよ!なんて言うかびっくりして、自分じゃない気がして、恥ずかしいと言うか…。」

「不満なら手直ししましょうか?」

 あぁっ、耳が、しっぽが…。

「違う違う!」

 伝えたいことはそうじゃなくて

「すごく素敵だよ!ありがとう!」

 言った後に、また後悔した。

 自分自身に『素敵』だなんて、ナルシストみたいじゃないか?どう言えばいいんだ?マコトくんの腕を褒めたい場合は?うまいね、なんて言うと上からな感じがするし…

「なんか俺みたいなのでも、それなりにかっこよくなれた!」

 …違うな…。自分で自分をかっこよくなったとか、恥ずかしい過ぎる…。

 クスクスと静かに笑う声が聞こえて穴に飛び込みたくなった。

「お兄さん、男前が更にかっこよくなったよ。」

 笑い声の主は、店長のお客様で、長い黒髪が綺麗な、かっこいい女性だった。店長と同じくらいの世代だろうか。

「うん、いいね!かっこよくなった、は普通に嬉しいよね、マコト!」

「店長さん…あ、ありがとうございます…?えーと、マコト、くんも?ありがとうございます。」

 そう言って、マコトの方を見た。

「え、ちょ、大丈夫???」

「あははははは!」「ふふふふふふっ」

 信弥の心配する声と、店長とお客さんの笑い声が響いた。戸惑う信弥、笑う店長とお客さん。そして、真っ赤になっているマコト。そしてもう一人、それを見て察した、アシスタントの女の子。

「…尊い。」

 小柄なアシスタントちゃんは、そういうと静かに手を合わせて何かをお礼を告げた。

「どうしたの?怒ってる?マコトくん???あっ!勝手に名前呼んじゃったのまずかった??店長さんがそう呼んでたから、つい…苗字分からなかったし…!ごめんなさい!」

「いやっ、違います!怒ってないです!大丈夫ですっ!」

「でも、尋常じゃない赤さだよ?!!??」

「ほんとに本当に大丈夫なんで、そんなに近づかないでっ!!!」

 気付けば店長も笑い過ぎて真っ赤になっている。彼がマコトに睨まれている事に気付いているのかどうか知らないが。

「…この後ちゃんと怒られてくださいね、店長…」

 そう呟いたアシスタントの声は誰も聞こえていない。





 



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