26.血河を越えて


「フェレ、シー……ラ?」


 判然としない意識の中で、俺は彼女の名を呼ぶ。

 すると、こちらの肩へと手をかけたフェレシーラが安堵の息を吐いてきた。


「よかった……怪我はない? 意識はハッキリしてる?」

「べつに、どこもなんともないし、大丈夫だけど……それよりもお前、おもったより……追いついてくるの、早かったな……」 

「なに言ってるの。こっちはあれから大変だったんだから」


 多少のふらつきを堪えながら口を開くと、今度は溜息が返されてきた。


「その様子だと結構な間、気を失っていたようね」 

「気を失ってたって……そ、そうだ、フェレシーラ! あの、影人ってやつらがこの先で」


 言葉の途中、脳裏に蘇ってきた生々しい光景に衝き動されて、俺は慌てて身を起こしにかかる。

 そこに、フェレシーラが肩を貸してきた。


「大丈夫。それなら私も確認したから。木の後ろで倒れている貴方を見つけて、すぐにね」

「……そっか。じゃあ本当に、俺、気を失ってたんだな……」


 情けない。

 あれだけ勇んで出向いてみたというのに、血を見た程度でこんなザマとは……

 本当に自分が情けなくなる。


「あんな場面にいきなり出くわせば、誰だってそんなものよ」 


 落ち込む俺に、フェレシーラは影人の姿形については触れぬまま、慰めの言葉をかけてきた。


「とにかく、今は貴方に怪我がなかっただけでも良しとしないと。問題は、ここからどう動くかだけど……」

「俺のことなら、心配しないでくれ。頭のほうも、だいぶ覚めてきたし……っ」

「無理しない。気休めかもしれないけど、体力だけでも回復しておくから。暫くじっとしてて」

「いやほんと、平気だって……それよりも、グリフォンのほうだ……!」

「グリフォンって。その、影人って奴のほうじゃなくて?」

「ああ。初めてみたときから気になってたんだけど……なにか、あるはずなんだ」


 間近で首を傾げてきた少女に、俺は頷く。

 

「なにか……なにかグリフォンが戦っていた理由が、あるはずなんだ……!」

 

 心の何処かに棘が突き刺さっているような、落ち着かない感覚があった。

   

 影人のことは、当然気になる。

 なるが、ここであいつらの死体を眺めてみたところで、すぐに得る物があるわけではない。


 それより今は、あの叫び声のほうが気になった。

 命を賭して絞り出すようなあの咆哮が、俺の耳から離れてくれなかった。


「私としては、魔物同士がやり合ってくれるっていうのなら、楽が出来て良いのだけど……」


 そう口にしながらも、フェレシーラが俺の肩を引き上げる。 


「ごめん。でもこれは、完全に俺のわがままだから、あんたはここで――」 

「生意気なこと、言おうとしない。まったく……そんな顔されて、放っておけっていうほうが難しいでしょう?」 

「……ごめん」


 言葉につまり謝罪を繰り返すと、彼女にしては珍しい苦笑がやってきた。


「そういうときは、感謝の言葉を口にするものよ。ほら、どうしても様子が気になるっていうのなら、まずはシャキッとしてみせなさい!」 

「あ、ありがとう……フェレシーラ!」 


 その言葉に背中を押されて、俺は四肢に力を籠めて立ち上がる。

 咽返るようであった血臭は、不思議と少女の傍にいる間は感じることはなかった。

 

 微かな痛みを残す頭を軽く振り目を閉じて、息をゆっくりと吸い、吐き下ろす。

 意識が、少しずつ鮮明になってゆく。

 

 数えて十、それを行ったところで俺は再び瞼を開いた。


「どう? 動けそう?」

「ああ。少し頭痛がしてたけど……治まったみたいだ。大丈夫、後は自力で歩けるよ」 

「それならよかった。でも、しつこいようだけど無理は厳禁よ。特にさっきの坂滑りみたいに一人で突出するのだけは、絶対になし。それだけは約束して」 

「う――あ、あれはちょっと加減をミスって、滑り過ぎたっていうか……いや、言い訳だな。ごめん。勝手なことはしないって、約束する」 

「本当かしら……貴方、大人しいようでいて、わりと勢いに任せて突っ走るきらいがあるみたいだし……うん。やっぱり心配だから、ここからは私が前衛に回ります。影人がまだ複数潜んでいる場合も想定して、貴方は背後の警戒に専念。オーケー?」

「オーケー……です」 


 口調を正して前に進み出るフェレシーラに、反論する術は見当たらなかった。

 仕方なく、俺は彼女の後ろにつき周囲の様子を窺うことにする。

 それを確認して、フェレシーラが戦槌を握りしめて前進を開始した。


「それにしても、グリフォンっていうのは話に聞く以上に厄介そうな相手ね」

「ん。なんでそう思うんだ?」 

「……あんまり、見たくはないかもだけど」


 じりじりと歩を進める壁役に可能な限り言葉少なに反問すると、すぐに答えが返ってきた。


「そこに転がっている死体の、牙と鉤爪。返り血どころか、羽根や体毛の一本も付いていないでしょう。ただの一体もね」 


 ……なるほど。

 フェレシーラの指摘から察すれば、あの飛び回ってたグリフォンは、ここにいた影人の攻撃を一切受けつけずに、一方的に攻め立てていたってことになるわけか。 

 そういう部分にすぐに目がいく辺り、流石に場慣れしていると言わざるを得ない。


「じゃあ……もう鳴き声も聞こえないし、影人は片付いてるかもしれないな」

「そう考えるのは、早計よ」 


 しかし希望的観測を込めた俺の言葉は、少女の首振りによって即座に否定された。


「さっきから、水音がしてきているでしょう?」

「え……あ、本当だ。先のほうから……それと、空気が震えるような音もしてるような……」


 立て続けの指摘に耳に手をあて集中してみる。

 すると、微かな音が届いてきた。

 どうやら視界の確保に気を取られていたことで、それ以外が疎かになっていたらしい。

 前衛のフォローに回るべき後衛としては、早くもマイナス一点といったところだ。


「地図にも載っていたけれど。ここから先は、ちょっとした渓流になっていたはずよ」

「なるほど。そういえば、岩場から見下ろしたときにも川が見えていたもんな。それなりに大きな滝があっても、おかしくないってわけか」


 そこまで言って、俺は「あ」と声をあげていた。


「そっか……声が聞こえてこないのは、そっちにグリフォンが移動して聞こえなくなっただけって可能性もあるんだな……」 

「ええ。わかったら、先を急ぎましょう。どの道この分だと音に頼って警戒するのは難しいもの。それなら、早めに開けた場所に出たほうが賢明ってものよ」 


 言外に気を抜くなと言い含めて、フェレシーラは先を急ぎ始めた。

 それに従う形で、俺も歩を進める。


 屍の群れより遠ざかるごとに、耳朶に響く水音はその激しさを増し始めていた……


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