贄街

黒沢淳介

1 帰還 - 高村有希子

「わっ」

 瞬きの合間に意識が落ち、道路脇の車線を派手にはみ出していた。有希子はハンドルを切り戻し、瞼の重い目頭を擦る。

 時分は正午過ぎ。早朝に妙高のコテージを経ってしばらくはスマホのカーナビに頼っていたが、高速に乗ってから先は勝手知ったる道筋が続くだけ。それで気が緩んで眠いのか。

 不測の渋滞に遭わなければあと小一時間で黒河へ着くはずだが、男を刺して逃げてきた東京近郊へ戻るにつれて心臓が不規則に脈打ち始めた。加えてこのしつこい睡魔のせいで頭が痛くてめまいも感じる。

 できるならすぐにでもUターンしたい。でも、今はこうする他に途がない。預金はとうに底を尽いており、クレカのキャッシング枠もゼロ。あとは手許の端金を遣い果たせば、そこで完全に詰むことになる。一刻も早く手を打たなければ─。

「有希子さんなら上手く切り抜けられますって。もし、ダメでもその時は俺が─」

 賢哉の声が脳裏を掠め、眠気に緩んでいた頬が引き攣った。


 三年前、当時の勤め先を解雇されたばかりの有希子を、行きつけのバーのカウンター越しに優しく慰めてくれたのが西脇賢哉だった。

 部署で開かれた懇親会からの流れでたまたま同僚たちに連れて行かれた南欧のバルを模した小さなバーで、屈託のない笑みを投げかけてきた年下の男の姿を一目見て、年甲斐もなく胸が熱くなった。

 それが初めての出会い─。その後もマスター兼バーテンとしてそつなく立ち振る舞う賢哉との交流を目当てに、女独りで取り憑かれたように通い詰めた。

 彼から偽りの好意を打ち明けられたのは、会社を解雇されて間もない頃だった。

 深夜、他の客が途絶えた店内で失職の恨み辛みを漏らしているうちに、いきなり先の言葉が返ってきた。どういう意味なのかと野暮に訊ねると、カウンターに置いた手をいきなり握られた。

「今、言わなきゃいけないって。天から降りてきたのかな」

「上手いこと言って」

「いや、本心です。あなたの笑顔だけ見たいんで」

 そんな手垢まみれの甘言に呆気なく騙された。向こうにすれば腐りかけの熟柿を棒先で木から払い落とす感じだったのではないか。あの時期はそれくらい心が弱っていた。将来への不安で気が変になっていたのだと思う。

 それから間を措かず深い仲になり、数ヶ月はお互いの部屋を頻繁に行き来し、抱かれた後には薔薇色の未来語りを聞かされた。

「─大学出てからいったんは普通に就職したんだけど、夢を叶えたくてすぐに辞めました。で、その第一歩がこの店ってわけです」

「夢って?」

「もちろん、商売人としての成功ですよ。俺は正式に修業した料理人じゃないし、ゆくゆくは経営の方に専念するつもりなんです。今、切り回しているバルの他にも向こうの下町風のカフェテリアとか量り売りのレストランテとか、イマドキの連中に受けそうな業態へ狙いを定めていこうかと。じつはあともう少しで二号店が出せそうで─」

 それから先はお決まりの流れ。まことしやかな口実を付けて金の無心を繰り返され、都合二千万近くの蓄えを瞬く間に剥ぎ取られた。

(積立も保険の解約金も、パパが残してくれた大事なお金まで・・・・・)

 騙されたと悟ってすぐ、賢哉が暮らすマンションへ走った。室内がもぬけの殻になっていることを確認し、今度は店へ飛び込んでみるとたまたまそこにいた本物の経営者に「先週、突然辞めて行方を眩ませた」と告げられた。

 誕生日にプレゼントされたハリー・ウィンストンの指輪も中華製の紛い物だった。持ち込んだ質屋で「一万円」と査定された帰り道にそれをドブ川へ投げ捨て、彷徨い歩いた末に行き着いた公園のベンチで朝まで過ごした。

 ようやく少し正気に戻れてからも警察へは届け出なかった。この手の詐欺被害で金銭が戻るケースが稀であることは知っていたし、結婚詐欺に騙された愚かで惨めな女であることをこれ以上誰かに知られるのも嫌だった。だから、自分の手で報復することを考えた。

(ねえ、賢哉。こんなゴミ屑みたいなオバサンにお腹を刺されてどんな気持ちだった? )


 半年以上の時間をかけて賢哉の居場所を突き止めた。引っ越し先のマンションのエントランスはオートロック仕様ではなく、あいつが暮らす部屋へ辿り着くのはとても簡単だった。

 玄関ドアも施錠されていなかった。だから室内へも易々と侵入できた。

 おまけにその夜、当人はリビングで正体なく酔い潰れていた。だから非力な女でも難なく床へ押さえ込むことができた。

 だから、だから、だから、自分だけが悪いのではない。最悪の結末へ向かう条件があの場所に予め揃っていたのだ。

 それでも、あいつが土下座でもして見せたなら、深手を負わせるまでのことはしなかったはずだ。倒れた頭を踏みつけて、蹴り飛ばすくらいで済ませていたと思う。

 でも実際には面と向かうなり嘲り笑われた。

「あははっ。ババア、またヤッてもらいに来たのかよっ」

 その一言で頭が白くなり、再び我に返ると賢哉が血塗れで倒れていた。

 凶器は自ら持ち込んだものではなく、あの部屋のキッチンでたまたま目に付いたペティナイフだった。咄嗟の思いつきで柄の指紋を拭い、俯せに倒れた片手へ握らせてはみたものの、その程度の小細工で痕跡を消せるはずはないし、途中の防犯カメラの確認もしていない。

 それほど杜撰な犯行だったのに、どうしても都合の良い展開を期待してしまう。

 揺らしても叩いても無反応。それで死んだと早合点したのだが、酒で酩酊していたところへ腹を刺されたショックが重なり、気を失っただけだったのかもしれない。

 さらにあの夜遅く、水商売の仕事から帰宅したはずの同棲相手の女が自殺未遂と勘違いしてくれて、病院へ運ばれた当人も事実の経緯を誤魔化しているのだとしたら─。

(フツー言いにくいよね。騙して金を毟り取った女に刺されたなんて。ああ、どうでも良いけどもう目、開いてらんない。ヤバイ・・・・・)

 どうしてこんなに眠いのだろう。偽名で借りた山奥のコテージでも毎日、泥のように眠り続けていた。現実から逃避する手段が他にないとはいえ、これほど追い詰められた状況下でも人間は惰眠を貪れるものなのか。

 首を括る夢も幾度か見た気がするが、元よりそんな度胸は持ちあわせていない。人は刺せても自分を刺すのは無理だ。想像するだけで身が震える。

 これほどの惨めさと絶望に追い詰められても、それでもまだ生きていたいのだ。人間の屑と罵られても構わない。総てが無に帰す死の恐怖とは比べようもない。だから、ここはいったん大嫌いな姉に頭を下げて頼ると決めた。もう、それ以外に道はないのだから。

 能の女面のように冷え切った亜紀子の微笑みが瞼に浮かぶ。気紛れで怖ろしい女だと避けていた存在だったのに、意外にもその口から「助けてあげる」という言葉を聞いた。

 父が死んで以来、久し振りに交わした電話越しのやり取りも拍子抜けするほどに穏やかだった。棘のある言葉遣いは変わらずとも、その口調の響きには仄かな気遣いまで感じ取れた。通話が始まって暫くの間は、姉の声とそっくりな別人ではないかと疑ったほどだ。

「─もし警察沙汰になっているんなら、あんたもう、とっくに捕まっているはずだからね。今、掛けてるこの電話も自分のスマホでしょう? だからね、それは相手がまだ届け出ていないってことなのよ。運が良ければこのままスルーしてくれるかも」

 有希子自身も姉と同じ考えに傾きつつある。携帯の電波を追跡して容疑者を捕まえる話はたまに聞くし、運転しているこの車とナンバーも、オービスやら監視カメラやらに記録されているはずだ。それなのに自分は未だ野放しだ。

 焦り、心乱れる一方で絶え間なく睡魔に襲われるのも、逃げ切れる可能性が見えてきて緊張の糸が緩んだからではないか。

 季節外れのスキー場近くに隠れていた五日間、思いつく限りのキーワードを入れてひたすらニュースを検索し続けたが、該当する記事を見ることはなかった。だから、そういうことなのだと素直に信じ込みたいところなのだが─。

(人が刺される事件なんて今どきいくらでもあるから、よっぽどのことがないと報道されないのかな。それともホントに賢哉が黙っているのか・・・・・)

 仮にその憶測の通りだったとしても、それはそれで割り切れない思いが残る。傷が癒えた後にあの男が再び何食わぬ顔で生きていくことがどうしても許せない。

(こんなことなら初めから本気で息の根、止めれば良かった)

 刃物で脂肉を貫く感触がハンドルを握る指先に甦る。実際に人の身体を刺してみて、その意外なほどの脆さを知った。

 骨がある箇所を上手く避ければ、豚肉の塊を刺すのと変わらない。だからその気になれば殺人は容易いし、自分も同じように刺されれば簡単に命を失うのだろう。死体となって横たわる我が身の姿まで連想し、有希子は唇を噛み締める。

 再び運転に集中したが、それも長くは続かなかった。今まで抑え込んでいた別の不安がここへ来て急に頭をもたげ始める。

(アレ、今でもまだ出るのかな。そうだとしたら用心しなきゃ。姉さんに引き留められても、絶対に長居は禁物・・・・・)

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