第4話 恋と孤独
山田長政がシャム(現在のタイ)に足を踏み入れた当初、彼はその異国の風景と文化に圧倒されつつも、心の奥底で不思議な感情を抱いていた。異郷の地に溶け込み、異なる言葉や風習に対する興味を抱きながらも、彼の心はどこか冷たかった。それでも、彼はこの国での役割を全うするために、地元の女性と結婚し、多くの子供をもうけた。しかしその結婚生活は、一般的な愛に満ちた家庭とは異なっていた。
その夜、長政は自宅の広間に座り、静かにシャムの夜空を眺めていた。柔らかな月光が庭を照らし、その中でひっそりと育つ植物が風にそよいでいた。彼の妻、マナカンはその様子を見ながら、長政に近づいていった。
「あなた、今夜もまた月を見ているのね?」
マナカンが優しく声をかけた。彼女の言葉には、かすかな不安が滲んでいた。長政はその声に一瞬反応するも、すぐに目をそらし、また空を見上げた。
「ああ、そうだな。」
長政は短く返答した。彼の返事には冷静さと距離感が漂っていた。
「何か、悩んでいることがあるの?」
マナカンはさらに問いかけた。彼女は長政が遠くを見つめるたびに、彼が何かを抱えているのを感じていた。だが、彼はそれを決して口にしなかった。
「別に。悩むことなんてねえよ。」
長政は無感情な声で答えた。彼は感情を表に出すことを極力避けていた。自分の使命に集中するためには、感情に流されてはならないと固く信じていたのだ。
マナカンはしばらく沈黙した。彼の冷たさに傷つきながらも、それが彼の性分であることを理解していた。彼女は優しく長政の肩に手を置いた。
「私のこと、どう思っているの?」
彼女の声は微かに震えていた。彼女は長政の妻でありながら、彼の心の中に自分がどれだけ存在しているのか不安に思っていた。
「おめぇはええ嫁さんだ。」
長政はそう言ったが、その言葉には感情がこもっていなかった。彼の目は依然として遠く、心の中で彼の関心は、シャムという国の未来や自分の役割に向けられていた。
マナカンはそれ以上言葉を続けることができなかった。彼女は静かに身を引き、広間を後にした。彼女が去った後、長政は一人で深いため息をついた。
「この国に生きるためには、感情に流されるわけにはいかんだ…。」
彼は独り言のようにつぶやいた。シャムの地での成功を収めるためには、冷静でなければならない。彼が常に心がけていたのは、感情に左右されず、目標を達成することだった。それが彼の信念であり、家族や恋人に対しても同じ態度を取っていた。
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ある日、長政は王宮からの帰り道、川沿いの街を歩いていた。彼の横には幼い息子が歩いていたが、その息子は彼に話しかけようとはしなかった。父親が何を考えているのか、子供には理解できなかったからだ。
「お父さん、どうしていつも黙っているの?」
息子が突然尋ねた。その純粋な問いに、長政は一瞬歩みを止め、息子を見つめた。
「黙っていたほうが、いろいろ考えやすいだ。」
長政はそう答え、再び歩き始めた。
「でも、お母さんは寂しそうだよ。」
息子の言葉が長政の胸に鋭く刺さった。彼はそれを感じないように振る舞おうとしたが、息子の純粋な目が彼の心に問いかけ続けていた。
「寂しいだとか、そんなもんは感情の揺らぎだ。感情に流されると、大事なもんを見失うだ。」
長政は冷たく言い放った。だが、その言葉が自分に向けられたものであることに、彼自身も気づいていた。
「でも、お父さんも時々寂しそうに見えるよ。」
息子の言葉は鋭かった。長政は答えることなく、ただ黙って歩き続けた。
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その夜、長政は書斎にこもり、一人静かに考えていた。彼が築いてきたものは確かに大きな成果だった。だが、その裏に流れる孤独感は消えることがなかった。シャムでの成功、家族、仲間、すべてが手の中にあるはずなのに、心は常に何かを求めていた。
「本当に愛していたのは、この国そのものだったんだな…。」
長政は自分自身に語りかけた。彼は日本という故郷に対する思いを心の奥底にしまい込み、シャムでの役割に生きることを選んだ。それが彼にとって最も大切なことだったからだ。
ふと、彼は机の上に置かれた古びた巻物に目をやった。それは彼が日本を離れる際、母親から渡されたものだった。巻物には「故郷を忘れずに」という言葉が書かれていた。
「…故郷か。」
彼はその言葉を呟き、巻物をそっと手に取った。手触りはもう何度も触れられて柔らかくなっていたが、それを読むたびに、故郷への思いが蘇ってきた。
彼は再びシャムの夜空を見上げた。輝く星々は異国の地においても同じように輝いていたが、その中に日本の空を感じることはなかった。
「どれだけこの地で成功を収めても、あの空には戻れんだな…。」
彼は自嘲気味に笑い、静かに巻物を元に戻した。
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翌朝、長政は再び王宮へと向かった。彼の表情はいつも通り冷静で、決意に満ちていた。家族や愛情、そして故郷への思いはすべて心の奥に押し込め、彼はシャムでの役割を果たすために動き出した。
しかし、その背中には常に「孤独」という影が付き纏っていた。それは決して彼の前に現れることはなかったが、常に彼の心の奥深くに潜んでいた。彼が感情に流されないように、常に冷静であることを選んだ結果、それは彼の一部となっていた。
長政は歩みを止めることなく、ただひたすらに前を見続けた。シャムの大地に足を踏みしめながらも、彼の心の中では、故郷の日本の風が静かに吹いていた。
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