第1話

夜から再び降り始めた冷たく細かい雨が、きりのように降りしきっていた。


静かな病院、そのリノリウムの床をばたばたと駆ける足音がうるさくひびき始めた。

神林湊人かんばやし みなとはあがる息を必死に抑えながら、病室を目指し走っていた。

受付で病室の場所を確認した直後、湊人は走りだしていた。教えてくれた受付の女性に廊下は走らないでと注意されたが、湊人は無視した。一刻もはやく、彼女のもとにたどり着きたかったからだ。

つい数時間まえ、彼女とは笑顔で手を振ったばかりなのに…。

泣きだしたくなりそうな思いを抑えながら、とにかくいまは彼女がどういう状態なのかをはやく知りたかった。


さかのぼる、二千十八年十一月、同日の午後。

湊人が講堂の扉を開けると、すでに教授の講義は始まっていた。

「…であるからして、人の脳とはとても複雑にできているのです」

教授がホワイトボードを指しながら説明を行うなか、湊人は講堂のなかを見渡した。程なく目的の人物たちを見つけると、湊人は小走りにそのふたりが座るテーブルのもとへ行き、となりの席へ座った。

「おせえよ、湊人。なにしてたんだよ、メッセージも既読きどくになんないし」

染川拓海そめかわ たくみが湊人を小声で咎めた。

「あ、いや、昼メシ食い終わったら、そのまま寝ちゃってさ」

湊人は言い訳がましく拓海へ言い、へへへっと笑ってみせた。

「神林くん、まーた昨日も夜勤のバイトしてきたんでしょ。いい加減、体こわすよ」

拓海の向こうどなりに座っていた北村珠月きたむら みづきが、拓海ごしに湊人へ向かって言う。

「なんだ、バレてたのか、昨日バイトだったって」

「ばーか。おまえ、朝からずっと眠そうな目ぇしてただろ。バレバレだっつーの」

拓海はあきれたようにつっこむ。

「まじかぁ、うまく隠してたつもりだったんだけどな」

「いやいや、ぜんぜん隠せてねーからっ」

「それが、急にバ先のオーナーから電話きてさぁ」


湊人は昨夜、アルバイト先のコンビニエンスストアから連絡を受けた。夜勤シフトに入っていたひとりのアルバイト学生が来られなくなってしまったとのことだった。

電話越しにコンビニのオーナーは、湊人へ代わりにシフトへ入って欲しいと懇願こんがんした。

コンビニの夜勤シフトは通常、二人体制でまわしている。片方が欠ければ、ひとりで店をまわさなければならなくなるが、当然そんなことは不可能だ。休憩はとれないどころか、トイレにすらいけなくなってしまう。

ほかに代われるひとがいないのだとオーナーが畳みかけ、湊人に入ってくれないかともう一度言った。湊人は渋々それを了解した。

そして湊人は急いでアルバイト先のコンビニへ向かい、そのまま朝までの勤務を終えて、その足で朝から大学の講義に出席したというわけだった。

湊人にはこういったことは今回が初めてではなかった。断らない湊人をいいことに、オーナーはシフトに欠員が出てはたびたび湊人を頼っていた。だが、何度も夜勤シフトを経験しているとはいえ、やはり夜勤明けからの大学の授業はかなり辛いものがある。


「えー、記憶とは、大きく分類すると感覚記憶かんかくきおく短期記憶たんききおく長期記憶ちょうききおくの三つに大きく分類されています。また、その記憶は脳にある海馬かいばという部分で作られます」

教授は説明を一旦そこで止め、スクリーンへ映像を流し始める。

湊人は鞄からノートを取り出し、メモを取る準備をした。

「感覚記憶とは、外部から刺激を与えたことで起こるもっとも短い保持期間の記憶のことで、その保持期間は最大で一、二秒程度だと言われています」

教授はスクリーンに映し出された映像を解説しながら続ける。

「続いて短期記憶ですが、その名のとおり情報を短時間保持するのがこの短期記憶です。この短期記憶には容量が決まっていて、短期記憶された情報は時間が経つと忘れていきます。それから長期記憶ですが、この長期記憶はさらに陳述記憶ちんじゅつきおく非陳述記憶ひちんじゅつきおく二分にぶんされます。陳述記憶は言葉で表現できる記憶であり、意味記憶いみきおくとエピソード記憶があります。また、非陳述記憶とは潜在記憶せんざいきおくなどとも呼ばれ、手続き記憶やプライミングなどがあります。えー、では、ひとつずつ解説していきましょう…」

教授のなにやら難しい説明を聞きながら、湊人をふたたび眠気がおそい、うとうとし始めた。やがて教授の声が彼の耳から遠ざかっていった。

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