鳥の帳

志央生

鳥の帳

 烏の声が夕暮れを告げる。顔をあげると窓越しに見える山間が橙色に燃えていた。その手前、原っぱの中に一本杉が悠然と生えていて頂上に一羽のカラスが鎮座している。じっと動かず窓から杉を見ている私を見ているようでもあった。

「もうそんな時間か」

 持っていた筆を机の上に転がし、白紙の原稿用紙に目を落とす。罫線に区切られた正方形が何かを訴えかけてくるようで私は視線を窓の外へ逸らした。杉の木はすでに暗闇に影を残すだけになっている。

「こんばんは」

 無遠慮に玄関の戸を開く音と静かな声が入ってきた。腰を下ろしていた書斎兼寝室の机から立ち上がり私は居間に足を向ける。

顔を見なくても誰が来たのかはわかっていた。律儀に玄関口で私が出迎えるのを待ち、両手に買い物袋を提げている。

「先生、どうですか執筆は」

「あのなぁ、来なくていいと何度も言っているだろう」

 笑顔を浮かべて彼女はいつものように訊ねてくるが私は無視した。けれど、彼女には意味はなく靴を脱いで家の中に上がり込んでくる。ため息を吐きながら私は止めることもできず諦めて台所に移動した。

「今日もおいしいご飯を作りますね」

 手慣れた様子でフライパンや鍋を戸棚から出して、まな板の上に持ってきた荷物から野菜を置いていく。ため息が出るほど手際がよく止めることもできない。こうして毎日やってくる彼女を私は追い返すことができずにひと月以上が経ってしまった。

「ほら、先生は座っててください」

 顔をこちらに向けることなくそう言って彼女はリズムよく野菜を切っていく。何も手を出すことがないため私は言われるがまま居間に腰を下ろして机に置いてあった煙草を一本取り出した。

 私がこの家に越してきたのはひと月ほど前の事だった。叔父が住んでいた家を譲り受け、都会での生活に嫌気がさしていたのもあって逃げるようにしてやってきた。ただ、地方の田舎がよそ者に向ける目は都会にいるよりも面倒なものを感じたのを覚えている。年寄りが多いわりに耳ざとく、私が小説を書いていることはすでに町中に広まっていた。

 おかげで好奇な視線に晒されることになり、引っ越し早々から引きこもり生活が普通になった。

そんなとき、彼女がうちにやってきたのだ。夕暮れどきの時間に普段はならない呼び鈴が響いて白紙の紙と睨みあう私を現実に引き戻した。家を訪ねてくる人などほぼおらず、引っ越し当日に駐在員が挨拶と称した注意喚起をしにやってきたくらいでそれ以外は誰も来ていない。そんな家にやってきたのが彼女だった。

「あの、先生のファンです。サインください」

 胸に抱くようにして持っていた一冊の本をこちらに差し出してきて少し緊張したような声をしていた。

「あぁ、サイン。サインね」

 少し意表を突かれて思考が一時遅れて私は家の中にサインペンを探しに戻り、手近にあった万年筆を持って本にサインを書き入れた。そのときの彼女の笑顔はわずかばかり良いことをしたな、と私の心に思わせてくれた。

 あのときはまだ初々しく距離感を保っていたはずの彼女の面影が今はない。それがいつの間にか毎日やってくるようになり、家に上がり料理を振舞うようになっていた。

「懐かしく感じるな」

 煙草を吸いながら思い返していると彼女が料理を皿に盛ってやってくる。

「おまちどうさまです。今日は自信作なんですよ」

 自慢げに胸を張って机の上に並べた料理はたしかにどれもおいしそうだった。今までも食べてきたが不味いものが出てきたことはないが、これといって格別においしかったものもない。それが彼女の腕前なのか、私の舌が悪いのか判断をつけようがなかった。

「うまいな」

 一口食べてありふれた感想を口にする。もちろん、味の差なんてわかってはいない。昨日食べたものより味が濃いか薄いか、それくらいはわかるがそれ以外はさっぱりだ。

 それでもこうして感想を言うのは一種の義務のようなものだった。

「ほんとですか。よかった、実はこれ隠し味にですね」

 私のその一言で彼女は笑顔を見せるし、楽しそうに話しだす。不要な世話を焼かれてはいるが、せめてお返しとして適当な感想で満足するのなら義務的だろうと口にしてやる。

「そういえば、今日はどうだったんですか」

 話を聞き流しながら料理に手を伸ばしていると、彼女は何かを思い出したかのように聞いてきた。

「執筆ですよ、執筆」

 目を輝かせながら尋ねられて私は目を背ける。一番の面倒ごとは食事後の進捗確認だった。私のファンだと言ってやってくるようになってから、ほぼ毎日一回は聞かれている。

「どうもこうもない。進んでいないし、進んだとしても教えはしない」

 話を切り上げるべく一気にご飯をかきこみ、手を合わせて食事を終える。

「そんな、いいじゃないですか。ここまで先生のために尽くしてるんですから、完成したら一番に読ませてくれても」

 後片付けをしながら彼女はぶつくさと文句を口にするが、しつこくは食い下がってはこない。引き際というか、ある程度の線引きをしているようでもあって不気味さを感じた。

 窓から真っ暗になった原っぱを眺めながら煙草に火をつけ、一本杉が生えているあたりに視線をむける。暗い中でもぼんやりと存在している気配を感じ、そのてっぺんを見た。

「何見てるんですか」

「カラスがいるか確認していた」

 いつの間にか隣に来ていた彼女が問いかけてきたので、私は指さしながら教える。

「この時間にカラスはいませんよ。知らないんですか、鳥は鳥目だから夜になったら山に帰るんです」

 そう彼女は笑いながら「かーらーす、なぜ鳴くの」と歌いだす。たしか童謡だったような気がしたがタイトルはわからなかった。結局、気分良く歌われ続けて最後には知らない流行り曲に変わっていた。

「それじゃあ、帰りますね」

 時計でもつけているのか彼女は定刻になるとそう告げる。簡単な身支度を整えて、名残惜しさの欠片もなく玄関まで向かう。

「先生、楽しみにしてますね」

 戸口を開けて部屋の明かりが玄関先の闇を照らす。私はそこから先には一歩も出ず、彼女が暗闇に消えていくのを見送った。


 目覚まし時計はすでに時間を把握するための置物と化していた。それよりも正確に、私を起こすのは烏の鳴き声だ。美しく伸びた「かー」という声が聞こえて、書斎の机から頭をあげる。窓から入る朝日に目を細めながら、一本杉のてっぺんに視線を向けるとカラスがそこに鎮座していた。

「またダメだったか」

 夜中から執筆にとりかかるも、遅々として進まず早々に諦めて別のことを始めた。夜更けも近いと煙草を吸いながら、カラスの出社を見てやろうと考えた。煙草だけでは暇をつぶせないと手元にあった小説を読んでみるも退屈はつぶせず、襲い来る睡魔に負けて寝てしまったようだ。

 相変わらず手元に散らかる原稿用紙は白いままで、ペンを持つことすら億劫になる。窓の外にいるカラスを観察しているほうが今の自分には合っている気さえした。

「腹が減ったな」

 誰に言うわけでもない独り言だが、空腹だと一度でも理解すると急激に食欲がわいてくる。重たい腰をあげ台所で食い物を探し、眠気覚ましにとインスタントのコーヒーを一杯。

 それらを持って机に戻り、原稿用紙を片手で薙ぎ払ってコーヒーカップを置いた。どうにも筆が乗らない。何を考えても行き詰まり、体よりも先に心が折れてしまう。そんな弱音をコーヒーと共に流し込む。

 カラスはあれから鳴いていない。ピクリともせず、置物のごとく杉の頂上に鎮座している。私もいっそのことあんな風に生きていられたら楽かもしれない。決まった時間に鳴いて、あとは動かず日中を過ごす。誰からも期待されず、締め切りに追われず、気ままに生きる。それができたなら、どれだけいいかと妄想をした。

 ふと、カラスと視線が合った。気のせいかもしれないが、たしかに私の瞳は烏の瞳を捉えていた。

何を見ているのか、何が見えているのか、何を考えているのか、私の中に何を見るのか。それが少しでも瞳から読み取れないかと、じっと見続ける。一瞬でも視線を逸らしたら二度と機会を得られないような予感がしていた。

あの鳥は、私なのかもしれない。そう感じたのはずいぶんと時間が経ってからだった。どれくらい見つめ合っていたかはわからないが、長くカラスの目を見ていて突然に自分の中にそんな思いが芽生えたのだ。

空っぽになったコーヒーカップを机から下ろして、散らばっていた原稿用紙をかき集める。転がったままのペンを握り、白紙だった枠に溢れ出してくる言葉を綴った。


私はカラスであり、あの杉の木に日の出とともにやってきて日が沈むとともに帰る。規則正しく、同じことを繰り返す。いつからか、杉のてっぺんから見える家に人が住み始めた。その男は私と同じように、窓際に座り杉の木を見ては日々を過ごす。私があの男ならば自由に生きただろう。何にも縛られず、白紙の紙に頭を悩ませることもなく、気ままな日々を送る。それが人であったならばできるかもしれない。

はて、私は何に囚われているのだろうか。あの男は何に縛られているのだろうか。気になった。気になって私はじっとその家を観察することにした。


ひときわ大きな鳥の鳴き声で私は動かしていたペンを止めた。白かった原稿用紙がびっしりと文字に埋もれていて、自分がそこまで書いていたことに驚いていた。何か憑りつかれたように、一つ溢れ出したものが誘発を引き起こし、私の筆を進めたのだ。

カラスの鳴き声がなければ止まることはなかったかもしれない。ただ、窓から覗く山間は薄暗く、太陽は沈みかけている。時計を確認しても、じきに彼女が来る頃なのは間違いがなかった。

ひらすら書いた原稿用紙をまとめながら話になっているのか不安になる。あとで見直したら使えないかもしれない。私の次作期待する彼女に報告するのは今はやめておこう。

そんなことを考えていると、玄関の戸が遠慮なく開けられる音がする。

「こんばんは」

 原稿用紙を隠すようにしまって、私は玄関に向かう。いつものように手にぶら下げた買い物袋に満面の笑みで立っていた。

「どうしたんだ」

「いいことがあったんですよ」

 靴を脱ぎながら明るく嬉しそうに彼女は鼻歌を歌いながら台所へ行く。いつもより気分が高揚しているのか、落ち着きがない彼女に戸惑いながら私は居間に腰を下ろした。

「先生、今日はどうでした」

 煙草に火をつけていると、野菜を切る音の合間に彼女からいつものことを訊ねてくる。

「あぁ、まぁ。いつも通りだ」

 どうにも嘘をつくのは居心地が悪く、それを誤魔化すように煙草を吸った。

「ほんとですか。内緒にしてるだけで実は進んでたりして」

 彼女の言葉に動揺してむせてしまい、「大丈夫ですか」と余計な心配をかけてしまう。

「変なことを言うからだ。それに進んでいたとしても君には教えないし、見せない。以前からそう言っているだろう」

 そう私が言うと彼女は不満をいくつか口にしながらも、どこか上機嫌のまま晩御飯を支度していた。咥えた煙草の味が苦く感じて早々に灰皿に捨てる。口寂しさと手持ち無沙汰を忘れるため、すっかり暗くなった外を窓越しに眺める。

 部屋は違うが杉の木がどこにあるかは見失わない。その影を見つけて、頂に見えないカラスの姿に山へ帰ったのかと想像する。

あの鳥はどう羽を広げ、どんな格好で飛ぶのか。手元に原稿用紙がないのが悲しくなる。今なら止まっていた時間を巻き返せるほど筆が進むだろう。せめて頭の中で浮かぶ言葉を忘れないようにどこかへ書き溜めておきたい。手近な紙にペンを走らせ、思いつく言葉を書き連ねていく。思考がそこに集中していき、私は彼女のことを忘れてしまっていた。

「それ、先生。もしかして話を書いてるんですか」

 海の底に沈んでいた意識を彼女の嬉しそうな声が引き上げた。動いていた手が止まり、にこやかな彼女の顔を見て、私は言葉を探した。

「これは、これはそうメモ書きだ。少し言葉が出てきたから、忘れないようにしていただけだ」

 嘘は言わなかった。彼女もそれ以上は何も聞かなかった。ただ嬉しそうな笑顔で支度した晩御飯を並べて、一緒に食べる。これといって会話はなく、機嫌よさそうに料理に箸を伸ばして口に運ぶ。

 もはや日常の一部と言えるほど彼女がいることは当たり前になっている。口先では許していないが、これがこの場所での私の生活だと思い始めていた。

「それじゃあ、帰りますね」

 片づけを終えて一服に煙草を吸い始めた頃、彼女はいつものように身支度を整えていた。近くに時計はないが、時間が来たのだろうと察しが付く。重い腰をあげて玄関口まで行って彼女を見送る。

「明日はきっと、今日よりも書けますよ」

 玄関を出た先で彼女は振り返りながら、とびきりの笑顔を見せた。その返答に言葉を詰まらせている間に彼女は待つことはなく暗闇の中に進んでいってしまう。何というべきだったか迷いながら玄関を閉め、書斎に向かう。

 その途中、呼び鈴が鳴り踵を返した。彼女が戻ってきたのかと少し浮足立って玄関の戸を開けた。

「夜分遅くにすみません。わたくし、交番の者ですが」

 立っていたのは警察服に身を包んだ男で、引っ越してきたときに一度だけ顔を合わせたことがある。そのときは挨拶回りで来たと言っていたが、地方の田舎に越してきた人間がどんな奴なのかを年寄りどもに相談されて見に来たのだろう。あれ以来、一度も私の家に来なかったのがいい証拠だ。

「何かご用で」

 私は苛立ちを隠すことなく対応する。それに苦笑いを浮かべて彼は本題を口にした。

「実は行方不明になっている高校生をさがしているんですが、何か知りませんか」

 そう聞かれて私は眉間にしわを寄せた。この男は私を疑っているように思えたからだ。この辺鄙な土地でよそ者は私以外にいない。事件が起これば疑われるのは必定とも言えるだろう。ただ、それを素直に受け入れられるわけがない。

「知らん。第一、私は家から出ることもほとんどないし、このあたりに高校生が住んでいるなんて興味もない」

 きっぱりと言い切り「それじゃあ」と口にして玄関を閉めて話を終えようとした。彼はそれを察知したのか、玄関に足を挟み阻止する。

「いえいえ、このあたりは過疎化でしてね。高校生、となると一人しか住んでいないんです」

 その言葉に私は戸を閉める力が抜けた。思い当たるのは彼女のことだった。

「その言いにくいんですが、あなたが越してきてすぐから家に帰ってきていなかったようで。ただ、電話での連絡は取れていたらしく」

 彼の説明に頭が追い付かなかった。彼女はひと月もこの家に来ていて、料理を作って一緒に食べて、帰る姿を見送ってきたはずだ。

「ここに来るまでに誰ともすれ違わなかったのか」

 私は震える声で彼に聞く。この男が来る数分前に彼女は帰って行った。暗いとはいえ一本道で、警官は懐中電灯を持っている。人に気付かないわけがない。

「いえ、誰ともすれ違いませんでしたけど。それが何か」

 求めていた答えとは違った。ならば、彼女はどこに帰ったのか。そもそも、どこから来たのかそれすらわからない。

「とりあえず、目撃した場合はご連絡ください」

 茫然としていた私に警官は丁寧な敬礼をして去って行った。彼女のことで頭がいっぱいになりながら、書斎の机に腰を下ろす。隠していた原稿用紙を取り出し、ペンを持つが進まない。

 窓の外に広がる真っ暗な世界に目を向け、杉の木を見る。彼女はどこに行ったのか、そもそもどこから来たのか。あのカラスのようにすべては私の想像の中で完結している。私は知らなければいけないのかもしれない。そう使命感が突如として沸き上がり、私を立ち上がらせた。

 停電用にと買っておいた懐中電灯を片手に玄関を出て、家の裏手に回る。目指すは杉の木だった。書斎から眺めているのと実際に近づいて見るのとではすべてが違う。想像していたよりも大きく、顔をうんと上げないと頂上は見えない。懐中電灯の明かりを向けながら、その頂を照らす。その先には何もなく、夜空が広がっているだけだった。

 その事実が私をひとつ安堵させる。再び来た道を戻ろうと杉の木に背を向け、足元に懐中電灯を向けた。その明かりが、先ほどは気づかなかった靴を見つける。それを手に取ろうと屈んだとき、杉の木から鳥の羽ばたきが聞こえた。

 慌てて振り返ろうとした私の耳に、あのカラスの声が響いたのだった。

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