花の章
原生蘭
太陽が文字通り真上から照り付ける未舗装の道を、列を成した兵隊が進む。
道の片側では巨大な実を付けた椰子が
列の先頭近くを歩く
「それにしても、絵のように見事な風景ですね。砂も海も暗い小樽の海水浴場とは大違いです」
「小樽の方がまだこれに近いぞ。岩だらけのオホーツク海沿岸とは全くの別物だ。暗号名〝
「なあ、あの樹はなんだ。マングローブというやつか。しかしあれは水辺に生えると聞いた気がするな」
「仰るとおりマングローブは干潟など湿地のもので、根はもう少し細かく枝分かれします。あれはタコノキでしょう。名前のとおり、蛸の足のように支柱根が放射状に伸びます」
「あれはなんだ。絡まり合って何がなにやら」
「中心の樹はよく見えませんが、外側の樹はガジュマルでしょう。絞め殺しと言って、他の樹に寄生して育ち、最後には寄生先の樹を枯らしてしまいます」
「南洋の生存競争は凄まじいな。花も咲いているが、あれも寄生しているのか」
樹の半ばからは羽を広げた蝶の様な形をしたマゼンタ・ピンクの花が咲いていた。花の根元には艶のある細長い楕円の葉を付けた茎があり、茎から伸びる緑味の節ばった根が、灰色の根に絡まっていた。
「着生種の原生蘭ですね。これは寄生ではなく、陽光を求めて他の樹の上に間借りしている、とでも言いますか。贈答用の胡蝶蘭も、あのような花から品種改良を重ねたものです」
「
「自分で尋ねたのに不思議がらないでくださいよ。出発前に南洋の地誌について予習しただけです。暑さに慣れるため、図鑑を温室へ持ち込んで」
「勉強熱心だな。温室というと北大の植物園か」
「いえ、庭に薬草栽培用の温室がありまして」
「さすが大病院……それはさて置いて、たしかに暑い。温室どころか蒸し風呂だった船倉より空気は良いが、歩くと汗が止まらない」
「全くもって。荷物も背負っていますし」
「
「色々入り用ですので」
二人の前を歩く、年若い衛生上等兵が振り向いた。
「お荷物をお持ちいたしましょうか」
衛生上等兵の隣に並ぶ、小柄な衛生兵の少年も振り返って
「
「他の者たちはそろそろ目的地へ到着した頃かね」
「海岸近くの高射砲陣地にはもう到着したかと思いますが、他は――――そうですね、衛生兵たちは皆、野戦病院の配属ですから、まだ移動途中かと思われます」
「そうか。兵站病院へもまだ暫く掛かるか」
涼康衛生上等兵は道の先を指差し「もうすぐです。そこで曲がって密林を突っ切る道を」――――
道を曲がった先の方角から、甲高い悲鳴が上がった。将兵たちが息を呑んだ。銃に手を掛ける者もあった。その内に草を掻き分ける音と、次いで砂道を駆ける音がした。一人の少年が、道に飛び出した。
「大変だ!
少年の目が、
少年は近くにいた方の医者――
*****
蘭の花が、ガジュマルの根に捕われた少年の目と口から咲いていた。広がる葉で顔はほとんど覆い隠され、マゼンタ・ピンクの花が蝶の様な花弁を大きく広げている。
「先週、密林で食べ物を探しているとき行方知れずになりましたので、探していたのです」
「苦しそうです。モルヒネを打ってやれませんか」
少年が懇願し、
「根を切って降ろしてやれ」
涼康衛生上等兵が銃剣を手に近付き、
「どうした」
背面の突起を減らすべく、涼康上等兵が蘭の根を短く刈り込んでいると、肩で息をしながら
「船の上で一生分の惨たらしい遺体を見たと思ったが、上陸早々とんだ歓迎だ。寒村の眼医者の手には余るぞ」
「眼の外傷もあるようですからご専門の範疇では。それと、まだ息があります」
はっとして軍医携帯嚢からカンフル剤のアンプルを取り出し、アンプルカッターで切れ目を付けて割り開けた。葉とは違って緑っぽさがなく、より鋭い
「だから云ったでしょう」
背後からの歌うような声に、
「皆、もっと
気づかぬ間に、長身の少年が立っていた。視界の悪い密林では背後を取られても気づきにくい。彼は背負っていた担架を降ろし、地面に広げた。巻いた赤毛の隙間からブーゲンビリアが咲いて軍帽に絡んでいる――
「ああ、
涼康上等兵が「
「病院前の道で彼に呼び止められました」
「先生、
「先ほど試みたが上手くいかなかった。ここで無理に抜く方が危ない。きちんと手術で取り除く必要があるだろう」
「あなたが
「ああ。ぼくと――ああ、ぼくは
「先ほど補給船で着いたばかりだ。前任者は軍歴もある小児科医だったと聞いているから、後任が予備役の眼科医と学生では頼りないかもしれんが、まあ、二人で一人分と思ってお手柔らかに頼むよ」
「君たちは彼と同じ部隊か」
「彼らは飛行場建設に当たっている部隊の者たちです」涼康上等兵はそう言い、二人に指示する。
「彼は兵站病院で預かるから、君たちは上官へ報告してきてくれ」
二人は頷いて立ち上がり、その場を去った。
涼康上等兵の合図で
ばさばさ。列の背後で鳥の羽音が鳴った。
葬列は無言で熱気が籠もる密林を進む。ラワンなど葉を密に繁らせた広葉樹が遥か高い所で陽を遮るため薄暗いが、頭の高さで芭蕉に似た大きな葉を広げるバナナの木が蓋の役割でもするのか、人の歩く高さには熱の湿気が押し留められていた。
どこかで発酵しているような、熟れすぎた果実の匂いが漂ってくる。楠の葉を千切って遺体に被せておくべきだっただろうか、と
暫く歩くうち、蘭とは違う甘い香りが
*****
手術台の上に、腹の中身を晒した少年の躰が横たわる。内蔵の殆どを取り出された虚ろな身。台に並んだ洗面器の中、切り開かれた消化管の中には、絡まり合う根が詰まっている。直腸から十二指腸、大腸、小腸、胃、それから食道。
手術用のガウンを着てマスクとゴム手袋を着けた
傍らに立つ黒髪に細目の軍医が、
「大学を出てからまだ臨床経験がない軍医学校の学生と聞いていたが、中々手慣れているではないか。その上、肝も座っている」
「祖母が病院をやっておりまして、授業や訓練がない日にはそちらを手伝っておりました」
「御実家は札幌の
一歩離れた場所で書類に書き込む
「やはり癒着が酷いですね。形態は樹に根を張る着床生の原生蘭のように見えますが、人間にも根付くとは聞いたことがありません。この島の風土病だなんて仰らないでくださいよ、湖弓大尉」
「まさか、俺も初めて見た。これは全部摘出したら末期のロブラ患者の内蔵のように目茶苦茶になってしまいそうだな。適当なところで切り上げよう」
湖弓と呼ばれた細目の軍医が返した。次いで、
「
「俺は大学の解剖実習で卒倒して、それで眼科を専攻したんだよ」
と吐き捨てると蒼い顔で遺体の頭に近付いた。眼から咲いていた花は取り除かれ、瞼が閉じられていた。これは、まず眼を閉じてやるべきだと
「専門も何も、ご覧の通りだ。眼球を刳り抜いてから花を挿し込んだように見えますがね」
「こちらは根を張っていません。
「こんなものでいいか。解剖の記録係なぞ初めてだから勝手がわからん」
「はい。無理を承知でお願いしてしまいました。なにしろ人手が足らぬもので」
「
「開始前にも伺いましたが、本当にこの名前なのですよね」
「ああ。前に三日熱マラリアで入院していて、俺の受け持ちだったから間違いない」
「そうですか。たしか他の少年たちからクルミと呼ばれていて、女みたいな名前だと思ったから印象に残っていたのですが、どうも聞き間違いだったようです」
「たしか、そんな名字だったな。彼の部隊は函館召集だ」
「本州ではまだ名字を使うと聞きますが、道南の方でも使うのですね。四民平等の廃姓令から半世紀以上経ちますが」
「何でも新しいものが好きな都会の若者には分からんこともあるんだよ。しかし、一番分からんのは――――」
「この子はなぜあの状態で生きていたのかね」
湖弓も
ふわり。どこからともなく吹いた風が、琺瑯の洗面器に積まれた根の上から、蘭の花弁を落とした。
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