あなたの心に穴を開けてこの月光で満たしたい

ささまる/齋藤あたる

第1話 月が眩しい

 月が眩しい。


 月が眩しい。そういう月夜だ。私は退屈な机に突っ伏して、来もしない客を待っている。カフェのバイトは慣れてきたが、慣れとはすなわち退屈をも意味している。ひんやりと差すようだったテーブルの冷たさも、今やすっかり私の体温が伝播して温くなった。同じことだ。

 それにしても、薄暗い店内に差し込む月明かりが、本当に眩しい。退屈な装飾の店内に退屈なカフェミュージック。長い夜の勤務時間で、情動的なのは月明かりだけだ。尤も、店内奥に居る私に、月そのものは窺えない。ただその存在が放っている光だけが、相も変わらず眩い。

「君、暇?」

 にわか雨みたいだ。端的な声が降ってきた。

 私はガバリと起きて、頭の上に居るであろう存在に相対する。


 月が、立っている。


 ああいや、人間だ。月のように美しい人が、立っている。私を見て、悪戯っぽい謎めいた微笑を湛えている。男? 女……? 中性的な造形の顔にウルフカットの髪だから判然としない。

「お、お客様、ええと、申し訳ございません」

「いや、いいよ。それより、暇なのかな、君」

「えっ……っと」

 これは嫌味だろうか? 悠然と微笑むその人は……物言いからして恐らく彼は、スレンダーな体の上に鎮座した頭を柔らかく傾げている。その表情も声色も、保育園の先生みたいに優しすぎて、むしろ怖いくらいだ。

「気に病む必要は無いよ。それに怖がる必要も無い。ただ僕は……君が今暇なのか聞きたいだけ。酷く退屈しているように見えたから。こんな夜に」

「ええと……」

 安心させたいのか、謎の男は柔和に微笑んだままでいる。その笑みに、私は嘘を見つけられない。それにここは、多分答えないと進まないやつだ。

「退屈……では、ありましたね。夜勤なんて、そんなものですが……」

「二四時間営業のカフェなんて珍しいよね。今時ファミレスもコンビニも減ってきているのに」

「店長の意向なんです。『どんな人でもふらりと立ち寄れる店にしたい。鳥が止まり木を見つけるように』って」

 立派な心掛けに聞こえるだろう。実際そうなんだろうが、私は勤務初日にこの文句を憶えさせられた。その時点で正直、「ここブラックかも……」なんて嫌な予感が芽生えなかったわけでもないが、何を隠そう、直近で金が無かった。

 眼前の男は微笑みを湛えたまま、「それは素晴らしいね」と優しく言った。

 それから単刀直入に、こう切り出した。

「実はね、今僕は人材を探してるんだ。君はぴったりだと思う」

「……は、人材?」

 まさか新手のカルト勧誘か、なんて思う。我ながら悲しいことに、目の前の男に見合うほどの美貌は持ち合わせている自信が無い。そもそもこんな夜にバイトなんてしている私だ。

 だが彼は、予想の更に斜め上を行った。

「そう。ちょっと――探偵の助手を探してるんだ」

「た、たた」

「探偵ね。あ、僕は探偵じゃないんだけど。ごめんね、がっかりさせて。でももし君が会いたいならすぐにでも会える」

 どうする? と彼は、斜め上の位置から視線を合わせて来た。吸い込まれそうな瞳は、性別を超越した美の輪郭を象っている。それはまるで満月と半月のちょうど中間くらいの――今宵の月は、確かそんな感じだったはずだ。満月じゃなくても明るい夜はある。

 それにしても普通に考えて、普通じゃない提案だ。それこそ私の平凡な人生において、これが最もスリリングな体験となる確信がある。良いか悪いか、その未来までは見えない――。

 ただ一つ、確認すべきことは、頭に浮かんでいる。

「あの、お一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか……?」

「一つと言わず、なんでも聞いてくれ」

 彼は、こちらを気遣うように言う。

 ならば遠慮なく聞かせてもらおう。

「ええと、労基って適用されてますか……? それに、お給料も、どれぐらい……」

 彼はクスクスと笑った。口元を抑える仕草はとても丁寧で、育ちが良さそうな雰囲気が漂っている。言うなれば、高貴だ。

「あー、ね、大事なことだね。まあそこは大丈夫だと思うよ。彼、真面目だから」

「彼……あ、まあ、そうですか」

 なら行ってみるか、と私は従業員用のエプロンを脱ぎ捨てる。彼は面白おかしそうにそれを眺めて、私を待っていた。

「流石に今すぐ職務放棄しろとは言っていないけど」

「客なんて来ませんよ。今日、確か隣町で花火大会じゃないですか。みんなそっちに行ってますから」

 ただでさえ閑古鳥が鳴いている店内に、訪れる人はきっと居ない。

 あるいは、月明かりだけ。

 店のガラス扉にcloseの札をかけて、私はその場を後にした。

 私たちは。


「え、誰だよ、その女」

 推定・探偵と思しき男の第一声はそれだった。グレーのトレーナーにダボついたパンツ、黒縁メガネ、目にかかった黒髪、この世のありとあらゆる平均値を取りそろえた格好の彼は、酷く鼻白んだ顔で、私と月のような人に視線を右往左往させた。

 その時点で、少し違和感を禁じえなかったのは確かだ。だが、何か事情があるのかもしれない。私は、とりあえず、その場を静観する。

「ごめん、入るよ」

「いやごめんじゃなくて……お前、まさか……」

 憐れな推定・探偵を退けて、彼は私を先導した。

 連れて来られたのは、何かの事務所と思しき二階建ての建物の、一階部分だ。閑静な住宅街を抜けて、小さな緑地が茂る、静かな場所だ。近くには川も流れていた。自然豊かと言えば聞こえはいいが、恐らくは防災の面では人の住むべき土地ではない気がする。

「え、お前、ついに女を連れ込むようになったのか。そんな方向に更生する馬鹿がどこに……」

「違うよ。彼女は助手。新しい」

「え?」

 少し高い声の後に続いたのは、「聞いてない」という如何にも怪訝な一言だった。そんな推定・探偵を余所に、月の人は私をカウチに座らせて、自分は私の前に屈みこむ。立ったままでは高い位置にある顔が、私より低い位置に下がり、微笑んでいる。

 ジッと見つめられると、まるで夜空の月にたった一人見下ろされて相対しているようで、少し恐ろしい。慈悲深い面持ちの中に、こちらを裁くような神性を感じる。知らぬ間に立っていた鳥肌は、夏の夜には相応しくない。

「怖がらなくていい」

 彼はまた、そう言った。それが私には不思議でならない。まるで心を読まれているみたいだ。

「こんなところまで連れてきてしまって、ごめんね。でも損はさせないから」

「損……つまり、お給料は弾むってことですかね……」

 彼は声を上げて笑う。何故だか分からないが、私の一挙手一投足が面白いらしい。あるいはそれは、神が人の人生を俯瞰して喜劇としているような。

「それは彼の方がなんとかするんじゃないかな。まあ僕としては、素敵な助手ライフを楽しんでほしいのが一番なんだけど」

「素敵な助手ライフ……」

 確かに、なかなか得難い体験に違いない。少ない探偵知識で、頭の中にはホームズとワトソンが居る。助手、ワトソン……私は……。

「おい、勝手に話を進めるなよ。さっきから意味が分からない。新しい助手? なんだってそんな――」

「どうどう、説明なら明日するよ。とりあえず君ももう仕事をやめて、寝な?」

「明日⁇ 言うに事を欠いて明日なのか。こんな意味不明な状況で!」

「僕が言っているのは明日も仕事があるんだから、それに備えようということだよ。説明ならいつだって出来るんだし」

「俺が言っているのは、こんな状況で寝られるかって話だよ! 知らない女がひとつ屋根の下に居るんだぞ!」

「君はこんな可憐な女性が命を脅かすとでも思ってるの? 何のための護身術?」

「いくら高等な護身術でも就寝中には役立たずだからな!」

「はぁ……」

 溜息まで優雅な彼は、細身の肩を小さく落として壁の方を見やった。呆れているみたいな仕草だ。

「君と喧嘩になるといつまでも終わらない。こう言うの、売り言葉に買い言葉って言うんだよね。馬鹿馬鹿しい……僕は疲れたから、寝るよ」

「いや馬鹿馬鹿しいのはこの状況――」

「おやすみ、良い夜を」

「え、あ……」

 推定・探偵の見事な惨敗だ。月を思わせる玲瓏な男性は、部屋を出て行く。階段を上る音がするので、きっと二階に行ったのだろう。二階に彼の寝床か自室かがあるのだ。

 残された私は、同じく残された推定・探偵と目が合った。

 なんだろう、静観していたはいいものの、結局思うことは変わらない。

 あれ、なんだか思っていたのと違う、なんて。


 朝になった。月は沈み、太陽がその背を追いかけて空に上っている。早い時間からあがりはじめた気温が、もはや三十度を超えて、エアコンなしでは生きられない。

 私は、台所の小窓から空を眺めていた。白い雲が綺麗に思えたのは、まだ平均気温が今よりずっと涼しかった頃だ。さすがに今は、暑さに参ってしまう。それに突然の豪雨も怖い。来客用のガラスコップに注がれたぬるい水を喉に押し込んで、私は歩き始めた。行く先は昨日から過ごしている事務所一階部分。

 昨日はあまり見もしなかったが、こうして周囲を見渡すと、殺風景な場所だ。来客を不快にしたくないのか、テーブルも椅子も、私が昨日腰掛けたカウチも、無彩色のシックな色味をしている。窓の近くに小さめのカフェテーブルがあって、その上の植木鉢の白い花が、唯一の遊び心といった風だ。囚人じゃあるまいしとは思うものの、ここの住民は二名とも男性らしい。ならばそう揶揄することもないか。

 私はカウチに腰を下ろす。ぽすんと音が鳴る。あまり高級なそれではないのか、若干中のビーズがくたびれて、潰れかけている。

 さて、兎にも角にも問題は仕事内容だ。探偵の助手とは、一体何をするんだろうか。

 私の数少ない探偵知識で言えば、探偵の助手の仕事とは、探偵のすごさを周囲に知らしめることである。具体的に述べるなら、最初にそれらしい推理を披露するも、探偵には否定され、もっとすごい推理を披露するための踏み台にされる。

「推理か……やったことないな」

「要らねえよ」

 すぐさま突っ込みが飛んできた。飛ばしてきたのは、何を隠そう探偵様だ。

 今朝の彼は、昨夜のそれとは違うようだ。明らかに気の抜けた家着だった昨日と比べると、今日は白いシャツに糊のきいたスラックスという清潔感と常識を非常に兼ね備えた格好をしている。髪も、水とワックスでそれとなく整えられているみたいだ。眼鏡はそのままだが……まあ眼鏡には何の罪もない。全体の印象が大事だ。

 私に気を遣ったわけではないのだろう。だが、何かに気を遣えると言うこと自体が、自分を客観視できるという価値観の現れである。ますます、疑問は強くなる。

「……あの、本当に探偵なんですか? その、あなたが」

「それはあいつが言ったのか?」

「あいつというと、彼ですか?」

「そいつ以外に居ないだろ」

 推定・探偵は苛立った様子で指をコツコツと机に叩きつけ始めた。朝から何をそう怒るのだろう、とは思えない。昨夜の言葉通りだ。この状況全てが、彼には受け入れがたいことらしい。すなわち、私の存在だ。

「探偵助手を探していて、私がぴったりだと言われました。ちなみに自分は探偵ではないとも。二引く一の単純な引き算です。彼じゃないならあなたしか居ない」

「なるほど、ご立派な推理どうもありがとう。ついで聞きたいんだが、昨日のあいつは酔ってたか?」

 昨夜の様子を思い出してみても、やたらと鮮明な月明かり以外には、なんだか記憶が朧気だ。あまり過去を思い出す質でもないので、いつも通りではある。しかしそんな海底のような記憶を思い返してみても、特段酔っているようには思えない。それも、勢いで人材勧誘をするような出で立ちには。

「多分ですが、素面だったと」

「そうか。まああいつ、酒嫌いだしな。俺も酔ったところは見たこと無いわ……」

 探偵は指でコツコツするのをやめる。その横顔は、何かを憂うような渋面だ。怒ったり憂鬱になったり、地味な見た目に反し感情豊かな人なのかもしれない。私の知る探偵増からは離れていく。つまるところ、彼は探偵っぽくない。

 なら誰がそうなのかと言えば、これもまた単純すぎる引き算になる。

 残った一は、たった今階段を下りて来る気配がする。

「あー、疲れた。あ、おはよう」

「なんで起きて早々疲れてるんだよ。ていうか遅いんだよお前……!」

 既に着替えてはいるのか、彼は探偵と同じような服装をしている。だが確かに眠そうだ。昨日は輝いているように見えた湖底を思わせる瞳はしょぼしょぼと朝を嘆き、足取りはとぼとぼしている。うなじの長いウルフカットの髪はやや青みっぽいグレージュで美しいが、寝癖がいたるところに見受けられた。前髪なんか目にかかって視界の八割を塞いでいる。ほとんど勘で階段を下りてきたに違いない。

 面白いほど、酷く朝が似合っていない。それもそうだ。白昼の月ほど存在の薄れたものはないのだ。

 だがそれでも、綺麗な人なのは確かだ。地味な方の探偵とは違って、彼は寝ぼけまなこをこすりながらも、場を華やかにする。舞台の主演みたく人の目を惹き付けながら、押しつけがましい厭味は無い。

 何もない場所に青嵐が吹いたみたいだ。これを探偵と呼ばずして、一体何が探偵だ?

「僕が疲れてるのはね、亜門、あの後結局よく眠れなかったからさ。月が眩しくて」

「へえ。それで何時に寝た?」

「五時くらいかな」

「朝じゃねえか」

「だから眠たいんだよね。その分プログラムは進んだけど。でも進みすぎてサウンド部分がちょっと気に食わなくなってきた。作り直したいな」

「後でな……」

 亜門と呼ばれた地味男は立ち上がる。そして寝ぼけまなこの彼に並ぶと、その肩に腕を回した。身長は大体一緒くらいらしい。百八十を軽く超えた長身二人組だが、不思議と威圧感は無く、二人ともキリンみたいな細身の体躯をしている。大の大人であろう男性二人が朝から肩を組んでいるなんて普通なら暑苦しそうだが、そうでもない。

「俺に寝ろと言っておいて自分はその体たらくなわけだな。あ?」

「怖いなあ。輩みたいだねえ」

「お前は人たらしだな」

 亜門と呼ばれた男の目が私に向く。

 なるほど、私は誑し込まれたのか。

 気づいたところで遅いのは、私の昨晩の職務放棄と、これから来るであろうバイト先のからの電話で確定する。嫌々ながらも住み込みのバイトだった。行く当てはない。

「人たらしって……僕が?」

「当たり前だろ。昨日言っていた通り、明日になった。説明しろ」

「眠いなあ……」

「コーヒー淹れるから」

 亜門の口ぶりは、少し重苦しい。元より低いトーンの彼がそんな言い方をすれば、まるでライオンが唸るみたいだ。

 亜門の真面目な様子に思うところがあるのか、月の彼もまたすとんとおふざけを落として真面目な様子を見せる。彼は私の斜め向かい、ローテーブルを挟んで下座の腰掛に座ると、私に向き直って微笑む。

「よく眠れた?」

「どこでも眠れるのが特技なので」

「それはすごいね。僕と真逆だ」

「眠れなかったって言ってましたね。確かに昨晩の月はすごかったですけど」

「街灯の明かりでも少しキツいんだ。君みたいな体質の人は羨ましい」

 世間話もそこそこにコーヒーの香りが濃く部屋に漂い始める。職員室みたいだ。

「ところで、君、荷物とか無いみたいだけど大丈夫?」

「あ、財布とか大事なものは持ってるので。それ以外はそのうち取りに行こうかと」

 そのうち店長から、怒りとか怨念とか色々こもったお𠮟り電話が届くに違いないのだ。その話はその時でいい。

「あ、もうここに住む気満々なんだね。まあそれがいいよ。決まった勤務時間とか無いし。君ならきっと、そういう特殊性に向いてる」

 よく分からないが、随分と私のことを買ってくれているようだ。まだ会って二日目……時間にして半日程度なのに。

 だがどこか説得力すら覚えてしまうから、この人は人たらしなのだろう。心のロックをそれとなく開けてするりと中に入ってくるような、それでいて全然許せてしまう感覚とか。

「なるほど。確かにその図太さは、うちの業種に向いてる。だがそもそもの発端を俺は知りたい」

 コーヒーが置かれる冷たい音とともに、亜門が会話に押し入ってきた。彼は下座のもう一つの腰掛に座ると、足と手を組む。鋭い目つきは、眼鏡レンズを通して隣を睨んでいた。

「新しい助手って何だよ。俺は求めた覚えがない」

 そこまで毅然と言われると、私としてはかなり気まずい。まるでお前の存在自体を認めないと真正面から叫ばれたみたいだ。

 救いがあるとすれば、いつの間にか浮かんでいる彼の微笑みだ。それはまるで夜空の月のように、穏やかに。

「果たして本当にそうかな?」

「果たして本当にそうだよ……なあ、俺は時々、お前の考えが全くわからなくなる」

 鉛のように、重い空気だ。

 彼はまだ微笑んでいる。

「僕は君の望む通りにしたいと常々思ってる。間違えたのなら謝るよ」

「じゃあなるべく早く、この迷い猫を元の段ボール箱に戻してくれるか。ここはペット禁止の賃貸だ」

「それはできない」

 彼は微笑みを揺らして続ける。

「それは君の望みじゃない」

「へえ……」

 腰掛がぎしりと低い悲鳴をあげる。亜門が背もたれ、ゆっくりと長い体を預けて。

「俺以上に、お前は俺の望みを知ってるってことだな。さすがはお前だ」

「褒めてくれてありがとう」

「皮肉なんだが」

「それも知ってる」

 朝から何を見せられているんだろうか。外で鳴いた鳥の声さえ場違いみたいだ。

「ねえ僕は、君のことを想ってるんだ。君はいつも大変そうにしているから」

「だから新しい助手を? こっちを慮るにしても変化球過ぎるだろ。受け止めきれねえわ」

「そんなことはない。猫の手も借りたいって、君が言っているんじゃないか。彼女は、猫の手なんかより役に立つよ。僕が言うんだから間違いない」

 だろ、と彼は念を押す。亜門とは逆に前のめりに体重をかけ、その端正な顔を近づけた。心なしか、亜門の表情が強張る。

「お前の言うことは確かに信じてるよ……だが、こんなに急だと俺だって……」

「混乱した?」

「当たり前だろ……」

 こう言っては何だが、亜門のことが可哀想に思えてきた。普段からなんだかんだ振り回されているのかもしれない。

 ともかくとして、亜門が折れたのは確かなようだ。彼はそれ以上突っかかる気力もなさそうに、黒縁眼鏡の奥の瞳を細くする。これから仕事なんて、考えるだけでこっちまで心労が伝播しそうだ。

 だがふと、亜門が私を見た。兎を狩る鷹みたいな目つきに、寸でで息を止めそうになる。

「じゃ、期待してるぞ新人」

「……あ、まあ、どうも」

「役に立たないと分かったら即行でクビな」

「期待しててください」

「なるほどね」

 皮肉っぽい笑みを浮かべて、亜門は横を向く。

「確かに、お前の言う通りだな」

「僕の観る目に狂いはないから」

 果たして本当にそうだといい。自分の中に眠れる才能なんかがあればいいなんて、希望的観測を抱きながら天井を仰ぐ。

「ああそうだ」

 思い出したことがあった。独り言を言った私に、二つの双眼が向いている。一方は泰然と、もう一方は射るように。

「あの、まだお名前を伺っていないです」

 というよりは、私自身も名を名乗っていない。私たちはまだ、互いを知らないのだ。

「なんだ、そんなことか」

 ここで唯一分かっている人物・亜門が呑気に言う。彼は面倒そうな調子で胸元から名刺入れを取り出した。木目調に銀の金具の付いたシンプルなものだ。それをかちゃりと開けると、中には当然、名刺が数十枚も入っている。その中の一枚をごつごつした指先で器用に取り出し、私に差し出してきた。かなりぶっきらぼうな手から、私は受け取る。

「俺のことは亜門でいいよ。ていうか問題はこっちだな」

 亜門の目は隣へ向いている。

 そうだ。今のところ、最大の謎は亜門の隣にある。月のように佇み、微笑む麗しの彼。

「もしかして僕のことが知りたいのかな」

「当たり前だろう。むしろここまで連れて来ておいてまだ名乗ってすらいないのかってところだが」

 ハーメルンかよ、と亜門がぼそりと呟く。彼が笛吹なら、私はほいほいついてきた愚かな子供か。

 いや、そんなので終わりたくはない。目下、住み込みのバイトをやめた今、ここをクビになるわけには行かない。あとなんか、面白そうだし。

「私は三上由美です。友達からは大体ミミって呼ばれてま。あなたは?」

 私の名前なんてほとんど没個性なものだ。別に面白味も無いので、さらっと流してメインへ向かう。

 彼は、照れ臭そうに笑っている。

「えー、恥ずかしいな……」

「恥ずかしがるから恥ずかしくなるんだよ。さっさと言っちまえ」

「まあそうなんだけどねえ……」

 切り替えたのか、迷いを帯びていたその面持ちが、余裕そうな笑みに戻る。

 彼は私を見て、なんでもなさそうに口を開いた。

「じゃあ、僕のことはミシェルって呼んで」

「……え?」

 ミシェル? どう考えても、そう言う風には見えない。

「僕はミシェル。よろしく」


 無駄に車体が低い車というのは存在するものだ。乗り心地が良いようには思えないし、勾配のキツイ坂だと車体の下部をこすってしまう可能性もある。お洒落なのだろうから外野がとやかく言ってもそれこそ無駄だが、機能性が良いようには思えない。

 私がそれを思っていたのは、この二人が機能性を重視しているだろうからだ。

 運転席には亜門、助手席にミシェルを乗せた車はすいすいと朝九時の車道を走る。なかなか混雑しがちな時間だ。だが亜門に困惑する様子は無い。慣れた手つきでハンドルを握り、隣のミシェルと会話に興じている。

「亜門、あのファイルどこ?」

「あ? なんで欲しがるんだよ。要らないだろお前」

「僕じゃなくて彼女に」

「お前の前に開く部分があるだろ。そのティッシュのところに、一緒に突っ込んである」

 聞くや否や、亀のように緩慢な動作で、ミシェルはぱかりと収納部分を開いた。確かに、手帳サイズの小さなファイルが入っている。手帳サイズとはいえ、分厚さで言えば辞典を軽く超えているので、それなりの分量はありそうだ。

「おい、助手見習い」

 ほとんど怒声みたいな鋭い声が飛んでくる。機嫌の悪い正社員よりはましだ。私は特に遺憾も無く、バックミラー越しに目を合わせた。

「そのファイルの最後のページに今回の事件要項が入ってる。一応読んどけ」

 ミシェルが身をよじってファイルを手渡してきた。はいどうぞ、の声はまだ眠たそうで少し舌足らずである。身だしなみは整えているものの、彼はまだ朝食も済ませていない。下手に食べると車酔いして吐くかもしれないと、とっておいているらしい。だがそろそろ食べ始めそうだ。膝の上のクロワッサンが、車が揺れる度に食べて欲しそうに踊っている。

「最後のページ、最後のページ……お、あった」

 ワードか何かでまとめられたらしい文書と、図表、写真等が記載されている紙がファイリングされている。なるほど、何も知らない素人が見ても、分かりやすくまとめられているようだ。

 私はその、一番上の言葉を読み上げる。


『密室の保証』


「あ、おい馬鹿! 読みあげるな!」

 突然だった。雷のように飛んできた声に、さすがに体がびくりと跳ねる。だがそれを素直に吐露するのは恥ずかしいし、亜門相手だとなんか癪だ。

「別に良くないですか? 恥ずかしかったです?」

「違うそうじゃない」

 その時、助手席の彼が涼やかに口を挟んだ。

「亜門、僕のことなら良いよ」

「いや……」

「大丈夫だって。気遣わなくていい。これくらいで吐いたりしないよ」

 どうやら彼の車酔いを心配してのことらしい。

「いいやダメだ。絶対ダメ」

「亜門……」

「お前の予測は確かに当たるが、今のは希望的観測だろ。お前には元気でいてもらわないと困る。現場に着いたが使い物にならないなんて、認められないからな」

 エアコンのブーという音が鼓膜に響く。

「お前だけの問題じゃないんだよ」

「……なるほど、確かに」

 ミシェルの口ぶりは思ったより軽い。気まずい雰囲気に感じるのは、私の杞憂なんだろうか。

「僕の考えが足りなかったよ。君の言う通りだ」

「ああ。それに寝てないんだろ。せめて目を瞑るぐらいしてろ」

「りょーかい」

 ミシェルは座席シートの上で居住まいを正し、胸の前でシートベルトの位置を調整する。それも終えてしまうと、めっきり静かになってしまった。きっと寝てはいないのだろう。目を瞑る彼を、騒音で邪魔したくはないものだ。私は口を閉ざして、書類に目を落とす。分からないことは到着してから聞くか……聞く余裕があれば良いが。

 何はともあれ、書類を見る限り、やや――キナ臭そうな雰囲気はあるが、困難な依頼ではなさそうだ。朝方、「お前は見ているだけで良い」とも言われている。見て覚えろという職人的なあれそれで行くつもりかもしれない。探偵にマニュアルなんて、期待するだけ無駄だ。

 それにしても、私は先ほどの会話を反芻する。

 元気でいてもらわないと困る、か。

 なら、やっぱり、そうなんじゃないだろうか? いや、こんなのは憶測か。

 どうせ現場に着いてしまえば全て確定する。それぞれがどういう役割で、私に求められるものは何なのか。

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