第2話 ドイツ語書籍専門店
昼過ぎから絶え間なく雨が降り続いている。
空は厚い雲に覆われ、書籍が所狭しと並ぶこの店内は、まるで夕刻のように薄暗い。こんな日はいつだって客足が鈍い。
「……いや、普段からこんなものか」
祖父が営むこの店はドイツ語書籍を専門に扱っている。誰でもネットで物を取り寄せられるこの時代に赤字を抱えながらも営業を続けているのは、いつ来るとも分からない常連客のためだ。使命感とでもいうのか、これが祖父の生きがいらしく、今もカウンター奥の狭い事務室で精力的に仕事をしている。
隼人は、大学でドイツ文学を専攻しているというただそれだけの理由で、時々店番を任されていた。
「じいちゃん」隼人は、レジカウンターの椅子に座ったまま、奥の部屋に顔だけを向けた。「今日は天気が悪いから、早めに店を閉めようか」
「隼人の好きにして構わんぞ」
「あっそう。じゃあ、今日は六時に閉める」
そう宣言して店内に視線を戻すと、ガラスドアの向こうに人影があることに気づいた。小柄な女性だ。軒下で閉じた傘を片手に持ち、中に入るのを
「仕方がないか」
とつぶやき、隼人は椅子から立ち上がった。
誰しも初めての店には勇気がいる。
隼人は彼女を脅かさないように、とんとんとんと軽い足取りで出入り口に向かうと、静かにドアを開けた。
「いらっしゃ……あっ」
隼人は思わず驚きの声を上げた。彼女の足元から現れた黒猫が音もなくすり抜け、一瞬の
「す、すみません! 猫がいたなんて全然知らなくて」
慌てる彼女に、「いえ、大丈夫です」と隼人は返した。
「とりあえず中に入ってください。そこにいては雨に濡れますよ」
隼人は入り口脇の傘立てに傘を入れるよう
「じいちゃん、悪い。店に猫が入った」
「猫?」
「黒猫」
「ああ、それなら気にしなくていいぞ」
いつの間にか猫でも飼い始めたのだろうか。隼人は首をかしげながら彼女に向き直った。
「お聞きのとおりです。猫のことはお気になさらず。ご用がありましたら、いつでもお声がけください」
「あの……」
「はい」
「隼人先輩、ですよね?」
「ん? 俺のことを知っているの?」
「はい。私、先輩と同じ大学でドイツ文学を専攻していて……」
「あ、そうなんだ。一緒だね」
と答えてから、彼女の顔を見ると、その表情がずいぶんと緊張していることに気がついた。ほんの少し頬に赤みが差しているように見える。もしかして俺に会いに来たのか、などと
「ヴィーハイストドゥ?」
彼女ははっと顔を上げ、ほんの少し言葉に詰まるも、「しずくです。
「しずくちゃんか、よろしく。で、うちの店は初めて?」
「はい」
「見てのとおり小さな店だけれど、ドイツ語を学んでいる者にはけっこう楽しめると思うよ。それより、雨脚がどんどん強くなってきているから、今日はもう帰った方がいいんじゃないかな。俺はだいたいこの曜日のこの時間には店にいるから」
と、さりげなく店番の日をアピールすると、彼女がこぼれんばかりの笑みを浮かべた。
どうやら勘違いではなさそうだ。嬉しさのあまり、隼人の頬が緩んだ。
彼女は傘立てから淡い水色の傘を取り出して、明るい声で言う。
「じゃあ、また来ます」
「うん、気を付けて」
隼人が彼女の
軒先で彼女が傘をさすと、その時を待っていたかのように店内から黒猫が現れた。子猫とも
彼女が
どんよりと重たい空気をまとったこの街に、隼人ははじめて「こんな日も悪くない」と思った。
◇ ◇ ◇
店内に戻ると、祖父がカウンターの奥から顔をのぞかせた。
「幸せがやって来たな。ドイツで黒猫は幸せの象徴と言われているんだぞ」
「はあ?」
ぶっきらぼうにそう答えたが、本当は知っている。ドイツのある村では昔から「黒猫は幸せをもたらす」と言い伝えられていることを。
隼人は店内に残された猫の足跡を見て、小さく鼻で笑った。
「掃除の手間を増やしにきただけじゃないの?」
むろん照れ隠しだ。ドイツのその伝承を、隼人は今誰よりも実感している。
【ドイツ語書籍専門店 〈了〉】
前奏曲集 楠 菜央 @kusunokinao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。前奏曲集の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます