◯森下さくらの話 落ちる
恵麻の居る場所はわかっている。本田家を飛び出して、ショッピングモールの前まで駆けてきていた。
中に駆け込もうとして――足が止まる。眼前に立ちはだかる建物は、圧倒的な質量をもって彼女を見下ろしていた。
ポケットに手を入れる。フードコートで破裂した鈴の残骸に、指先が触れた。
守ってくれるものは、何もない。それでも、ここで逃げ出すわけにはいかない。
「逃げるな…………恵麻は…………恵麻は、アタシの……友達なんだから……」
鈴を強く握り込み、その手を額に押し当てた。それはまるで、祈りを捧げるように。
物心ついたときから、さくらの隣にはずっと、恵麻がいた。幼稚園のときからの親友だ。
楽しいと思える思い出には、必ず恵麻が隣にいた。
辛いときに寄り添ってくれたのも、恵麻だった。
家族仲が良いとは決して言えないさくらが、家族団欒の暖かさを知ったのは、恵麻の祖母や両親が、何かと気を使って家に招いてくれたからだ。
――だから、逃げるわけには、いかない。
「迷子のお子さんをお探しですか?」
突然、背後から声をかけられる。小さく悲鳴を上げて振り返ると、そこには、一人の男性が立っていた。
ショッピングモールの警備員の制服を見に付けた男は、気を悪くした様子もなく、再びこちらに話しかけた。微笑んで出来た目尻の皺は、どこか人を安心させる人相だった。
それに、どこかで見たことが、あるような。
「迷子のお子さんをお探しでしょう」
迷子――といえば、そうかもしれない。さくらは覚悟を決めて男を睨みつけた。
「だったら……何、ですか?」
「こちらですよ」
男はくるりと背を向ける。そのまま、ついてこいとばかりに、ずんずんと歩き出した。さくらは少し躊躇って、それでもその後に続く。
「――私ね、ヒーローに、なりたかったんです」
「はい?」
「でもね、志半ばで倒れちゃいました。だから、ここで警備員をすることにしたんです。ここでは――こどもがたくさん、泣いているから」
「は、ぁ……」
「泣いてるこどもを助けるのは、それは間違いなくヒーローですよね。だから。……でも、私じゃ少し力不足のようでした」
正面玄関を回り込み、植え込みの脇を抜け、人気のない場所へと歩いていく。不安になりはじめた頃、ようやく男はその足を止めた。
そうして、音もなく振り向きながら、前方に手を伸ばす。
「――ここがね、一番、安全なんですよ」
そう言って男が指し示したのは、彼の膝の高さほどの、地面から生えた円錐だった。かつて母方の祖父母の家で同じものを見たことがある。――組み上げ式の、古い井戸だ。
「入るときはね、ちょっとね。アレですけど。一番、入りやすい場所ですから。きっと迷子の方にも、たどり着けますから」
「入る……って、まさか」
その時、腕が、何か強い力に引っ張られた。さくらは前につんのめり、井戸の縁に膝をぶつける。
そして彼女の背を、何かが、押した。
声も出せずに落ちていく彼女を、井戸の上から覗き込む男の顔は、黒い犬のものになっていた。
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