◯森下さくらの話 いらない人

「――ねえ、見てよ、これ」


 連日、耳をつんざくほどだった蝉の声が消え、ようやく人間が息を付けるようになってきた、夏の終わりのこと。遊びに来た本田家の部屋の中で、部屋の主から渡された一枚の葉書。そこにはへたくそな手書き文字で「あなたのいらない人を書いてください」なんて書かれていた。

 

 ――また、恵麻の悪い癖が出た。さくらはジト目で親友を見上げる。「飽きないねえ」という嫌味を意に介する様子もなく、恵麻はにこにこと笑っている。


「何なの、これ」

「へへ、気持ち悪いでしょ。呪いのアイテム! 縁切りの御守り……過激版、みたいな? そこにね、『いらない人』の名前を書くの。そしたら、縁が切れるんだってさ。ヤバい筋からもらったんだぁ」

「ヤバい筋て。あんたは反社か?」 


 恵麻は、その可愛らしい外見に反し、こういったオカルトじみたものが好きだ。そして、長い付き合いのさくらには、しょっちゅう、そう言ったものの良さ、とやらを語ってくる。こんなふうに、呪いのアイテムなんていう触れ込みの、怪しげなものを見せられるのも慣れっこだった。

 残念ながら、彼女の熱狂に共感できたことは一度もなかったが。

 

 さくらはあきれ返ったまま、指でつまんだ葉書をまじまじと見つめた。薄汚れて黄ばんだ紙には「いらない人」とやらの名前や、その理由なんかを問う文章が書かれている。 

 その中に、ひときわ異彩を放つ単語があった。「贄」と書かれた部分に目をとめて、さくらは思いっきり眉をしかめてみせた。

 

「贄……って何? 気持ち悪いなあ」

「さあ。生贄、の贄、かなぁ。いらない人を生贄にしちゃって、お化けも人間も双方ハッピー、みたいな?」

「生贄にされるほうはたまったもんじゃないでしょ、それ」 

 

 そう言いながら、さくらはその葉書から目をそらせずにいた。

 

「……あげるよ、それ」

「え? いや――」

 

 だから、恵麻からのその言葉を、すぐには拒否できなかった。

 恵麻はその紙を、さくらの鞄の中に素早くしまい込んでしまった。慌てて突き返したものの、自宅に帰って鞄の中を見ると、いつの間にかもう一度入れられたらしいその紙が入っていた。

 

 捨ててしまう気になれなかったのは、「縁切り」という響きに、ほの暗い魅力を感じてしまったからだろう。

 簡単に切って捨ててしまえるものではないとわかっているからこそ、その響きは甘美さをもって、さくらの心に残り続けた。


 それでも実際に、その相手の名前を書くまでには至らず、季節は酷暑から秋を飛ばしていきなり冬になった。その間にも着実に「いらない」と、さくらが思う相手との関係性は、ゆっくりと破綻を重ねていった。

 

 決定打は、あの、ショッピングモールでの出来事だった。

 

 母は実の娘であるさくらには興味がなく、その割にその友人――恵麻のことを気に入っていた。曰く、自分の若いころにそっくりに可愛くて、素直な子、なのだと。

 一方で恵麻は長年、そんな母子の仲を、どうにか取り持とうとしてくれていた。だから、習い事の教師とその生徒――という関係性しかない母の誘いに応じ、さくらも交えて、仮初の楽しい時間を演出しようとしてくれた。

 白々しい時間を、それでもさくらは嫌いではなかった。潤滑油のような存在の恵麻がいれば、母がヒステリックに叫ぶことも、物を投げたりすることもない。

 この時間だけは普通の親子なのだと、錯覚しそうになることさえあった。

 

 その日も、どうにか理由をこじつけた母は、恵麻とさくらを連れてあのショッピングモールへとやってきた。

 目当ての画材を購入し、さくらは二人に断って、フロアの隅にある女子トイレへと足を運んだ。

 その個室の扉の裏側に、男が潜んでいた。


 腕を掴まれ、もう少しで口も抑えつけられるところだった。さくらが素早く動けなければ、恐怖で悲鳴を上げることができていなければ、たまたま近くを警備員が巡回していなければ――一体、何をされていたか。

 警察に男が連行されていく後ろ姿を、恵麻に肩を抱かれながら、さくらは見ていた。全身が、がたがたと震えていた。

 男には「特段の事情」とやらがあるらしく、重い罪に問うのは難しいと聞いた。恐怖、怒り、恥辱――そんな激しい感情がぐちゃぐちゃにさくらの中で煮えたぎった。


 「そんな恰好してるからでしょう」


 母の一言は、その煮え湯に浴びせられた冷や水だった。

 次の記憶は、例の葉書に向かって、滅茶苦茶にボールペンを走らせる自分だった。

  

 ――ぺたり。


 ふたりの上方、外に面した窓ガラスがある辺りから、ぬめりを帯びた、粘着質な音が聞こえる。さくらは弾かれたように顔を上げた。


「あ…………あ、あ…………!」


 ――窓の外、気持ちの良い冬晴れの青空に、黒いものが浮かんでいた。いや、浮かんでいるのではない。それは窓ガラスに張り付いている。

 べたりと、濡れた感触のてのひらが一つ、そこに貼り付いていた。

  

「……えま、は……わる……いこ…………」


 気持ち悪い声がする。喉の奥、死にかけの息で無理やり絞り出したようなそれは、確かに窓ガラスの内側から聞こえる。そして、続く言葉も。


「さくらはどう?」


 さくらは悲鳴を上げ――へたり込んだまま、背後へ後退る。


 「恵麻……。恵麻?」


 逃げなきゃ。そう思い、後ろにいるはずの恵麻を呼ぶ。返事がないことを訝しんで、振り向いた。

 

 ――誰も、いない。

 

 一人残された部屋で、唖然としてへたり込む。本棚に置かれた写真立ての中から、幼い日の二人が彼女を見下ろしていた。

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