◯森下さくらの話 最悪な朝

 喉の渇きで目が覚めて、森下さくらは怠い体を持ち上げた。時計を確認すると、既に朝とは言えない時間だ。長く寝たはずなのに、身体はひどく重くて座位を保持することも困難だった。


 見渡しても、彼女の部屋の中には飲み物は置かれていない。部屋の中はまるで生活感なく整えられており、まるでさくらの趣味ではない子どもじみたぬいぐるみが我が物顔で幅を利かせている。

 

 母親がだらしないと嫌うので、飲み残しなどは都度片付ける癖がついていた。それは母が消えた後も半ば強迫観念のように、さくらの中に染み付いている。

 

 舌打ちをして、部屋のドアを開けて階段を降りる。キッチンで水を汲み、一気に飲み干した。冷たい水が喉を流れ落ち、こういうときは一瞬だけ、生きていると感じる。


 口元を拭って息をつくと、階段を降りてくる足音が聞こえてくる。さくらはあからさまに嫌な顔をすると、乱暴にガラスコップを流し台に置いた。


「……さくら、起きたのか」


 キッチンに現れたのは、開業医をしている彼女の父親だ。この時間に家にいるということは今日は非番らしい。もっとも、母が失踪する前は非番の日だって滅多に帰らなかったけれど。

 

 さくらは返事の代わりに一度舌打ちをして、くるりと父に背を向けた。一言たりとも彼とは話したくなかった。

 父親はため息をつくとダイニングテーブルに数枚の紙幣を置いて、拒絶の意志固い娘の背中に向かって話しかける。


「父さんは今から出かけるから。夕飯は適当にしなさい。ここに、お金は置いておくから。……それと、今からでも学校には行くように」


 淡々と話す父親の声に、さくらは返事をしない。

 ――けれど、続いた彼の言葉に、さくらは全身の血が沸騰しそうなほどの怒りを覚えた。


「……母さんがいなくなったほうが気楽なのはわかるが。ちゃんとしなさい。いいな」


 ――こんなときだけ、理解者ヅラするんじゃない。


 さくらは激昂して、先ほど流しに置いたガラスコップを手に取ると、父親に向かって投げつけた。コップは閉じたドアにぶつかって粉々に砕け散ったが、父親がそれに反応する様子はない。

 もう、玄関から出て行ったのだろう。ガラスが砕けた音が聞こえないはずもないだろうに。


「……くっそ」


 さくらはズルズルと座り込み、その顔を覆う。そのとき背後から、甲高い声が聞こえてきた。


「なにを癇癪起こしてるの。みっともない」


 ここにはいないはずの母の声だ。彼女はどこにもいなくなってしまった後でも、変わらずさくらを悩ませ続ける。


「……うるさい」

「親に向かってなんて言い方? そもそも、ぜんぶあなたのせいでしょう」

「……………………」

「あなたのせいよ」


 さくらの呼吸が荒くなる。そんなことは言われずともわかってる。そんなことは。


「あ、な、た、の、せ、い」

「うるさい!!」

 

 さくらは大声とともにその顔をあげて、勢いよく背後を振り返った。

 ――そこには誰も、いなかった。

 

 その時、彼女のポケットに突っ込んだスマホが鈍いバイブレーション音を鳴らす。

 

 画面を見ると、友人の本田恵麻からのメッセージ通知が表示されていた。

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