◯渡会颯太の話 モール

 日曜日。渡会一家は揃って、そのショッピングモールを訪れていた。


 凉香は久しぶりの外出にはしゃいでおり、その表情は明るい。思えばストーカー教師の件があってから、娯楽らしい娯楽がなかったのだから無理もない。

 両手に買い物袋を携えた兄の腕を引っ張る妹を、母と祖母が少し後方から見守っている。

 

 ――平和だった。事前に恵麻の話を聞いていなければ、なんの憂いもなかっただろう。


 凉香から「ショッピングモールに行きたい」と言われた時、颯太の脳裏に過ったのは、当然というべきか恵麻の語った話だった。失踪した友人の母――人が消える場所。

 

 そんなところに、精神的に不安定な妹を連れて行くのは抵抗があった。けれど、無邪気に行きたい店を挙げていく凉香の顔を見ると、それに水を差すようなことは言えなかった。


 幸い今は真昼間だ。外はよく晴れており、ガラス貼りになった壁からは抜けるような青空がよく見えている。


「お兄ちゃん、次、本屋さん行きたい!」

「はいはい」


 ペットショップのある場所はさりげなく避け、昼食を選ぶにも恵麻が話していたカフェは却下した。

 

 ぼんやりと混雑したモールを眺めながら、クラスメイトの言葉を思い出す。こんなに明るくて、人の多い場所が怖いわけがない。その言葉どおり、かつて感じた恐怖は遠い昔のことのようだった。


「本屋で何見んの?」

「えっとね、花海棠はなかいどうサヤ先生の新刊が出たらしいから、欲しいんだよね」

「あー……あのキラッキラの恋愛小説な……」

「あ、馬鹿にしてるな? お兄ちゃんも一回読んでみてって。絶対泣くから」

「俺みたいなガタイの男が持ってていい表紙じゃないんだよ、アレは……」


 颯太は妹を適当にあしらいながらも、その様子には安堵していた。以前の凉香は年相応に恋愛モノの創作物を好んでいたが、ストーカー教師に悩まされてからというものそういった内容を忌避するようになっていたのだ。再び以前の好きを取り返せるのなら、彼女にとって良いことだ。 


 書店に入り、凉香に引っ張られながらティーンズ文庫のコーナーへとやってきた。凉香は新刊コーナーにあった目当てらしい本を手にとって、その他の棚の背表紙を物色している。

 

 颯太はその様子を横目に――視線を巡らせた。


 書店には、老若男女さまざまな人間がいた。絵本コーナーが広いためか、小さな子どもを連れた親子連れの姿も目立つ。

 何も異常はない。平和な光景だった。颯太は小さく息を吐き、その視線を妹へと戻す。


「……凉香?」


 いつの間に手に取ったのか、凉香は真剣な眼差しで、一冊の本をそれを立ち読みしていた。あまりに集中していて、颯太の声かけにも気づいていないようだ。訝しく思い、颯太は少しかがんでその本の表紙を盗み見た。


 そこには「読むと気が狂う本」と、書かれている。


 颯太は戸惑った。凉香は極度の怖がりで、ホラーに類するものは近づけると悲鳴を上げるほど忌避している。そんな彼女が手に取る本とは思えないタイトルだ。


「なあ、すず――」

「お兄ちゃん」


 颯太が妹の名前を呼ぼうとすると、彼女はそれを遮るように顔を上げた。

 その口元は不自然に歪んだ笑顔を形作っており、目は大きく、限界まで見開かれている。そしてその顔色は蒼白だ。

 彼女の体はがたがたと震え、手に持った本を揺らしている。白い歯が上下にぶつかりあってカチカチと音を立てている。

 

「ど、どうした? そんな、怖いのか、その本」

「…………わたしのせいなんだって」

「…………は?」


 不可解なセリフに、颯太は戸惑って聞き返す。

 凉香は、まるで出来の悪い子供に言って聞かせるように――ゆっくりと、言った。


「ぜんぶ、わたしの、せい」


 そう言って颯太を見上げる彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その時


「ああああああああああああああ!!!!」


 ――彼らの背後から、絶叫が店内に響く。

 

 驚いた颯太が背後を振り向くと、そこには一人の女が立っていた。四十代くらいの彼女は、小綺麗な服装に反してボサボサの髪を振り乱し、血走った目と口を限界まで開いてこちらに向かって指をさしていた。

 

 女の様子と大声に颯太が呆気に取られていると、彼女は凄まじい勢いで両手を伸ばし、颯太を通り越して背後にいた凉香に掴みかかってきた。


「それは! アタシの本! アタシの本! アタシの本! アタシの!」

「……ちょっと、何なんですか!?」


 颯太は急いで凉香の腕を掴む女を引き剥がす。女は長身の彼に防がれながらもその腕を大きく振り回し、凉香に向かって行こうとする。


「なんでなんでなんでなんでなんでなんで!」


 女は絶叫しながら、必死に手を伸ばす。颯太が彼女を押さえつけているうちに、突然その動きがピタリと止まった。


「ああ」


 絶望的な声とともに、女はよろよろと後退する。唖然とする颯太の目の前で、女の皮膚が――剥がれ落ちた。


「あああああああ」


  彼女の右目の下から頬にかけての皮がべろりとめくれ、その下から赤い血が噴き出して流れ落ちた。それは一度では収まらず、左頬、額、と、次々と剥がれ落ちて行く。


 同じ箇所も何度も剥がれるものだから、女の皮が、肉が、黄色い脂肪と、奥の骨が。まるでピーラーで剥かれた野菜の皮のように、べろべろとめくれては、床に落ちていく。

 

 顔から始まった崩壊は、首から胸、さらにその下へと範囲を広げ、その身体を少しずつすり減らしていった。床に落ちた体組織は、触れた瞬間から粉雪のように溶け、跡形もなく消えていく。

 それはまるで現実感を欠いていて、出来の悪いCGを見ているようだった。


「いだいいだいいだいいだいいだいいだい」


 剥離していく体を捩りながら、女は叫ぶ。

 異様な光景を見ながら――颯太は声も出せず、その場に立ち尽くした。

 

 女の身体はどんどん細く、赤黒くなってゆき、最後に残った喉の管から消え入りそうな音で


 ――さくら

 

 そう言うと、その場から、消えた。


 後には一点の汚れもなく、ひたすら清潔な書店の光景が広がっていた。


「……凉香、そうだ、凉香!」


 颯太は我に返って、慌てて後ろを振り向く。


 ――そこには、凉香が手にしていた恋愛小説と、彼女の鞄が落ちているだけだ。


 誰の姿もなかった。

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