◯渡会颯太の話 いもうと

 帰宅した颯太を第一に迎えたのは、妹の凉香すずかだった。


「おかえり、お兄ちゃん」


 ぱたぱたと玄関に駆け寄ってきた凉香は、白いトレーナーの上に黄色いエプロンをつけている。肩のあたりまである真っ直ぐな黒髪はポニーテールに束ねられていた。


「おう、ただいま」


 颯太は妹の明るい様子にホッとしてぎこちない笑みを返す。凉香はにこにこと笑いながら続けた。


「今日ね、おばあちゃんに筑前煮の作り方教えてもらったんだよ。渾身の出来です。早く食べてみて!」

「まじか。ばあちゃんの筑前煮うまいもんな」

「でも育ち盛りのお兄ちゃんにはそれでは足りないかと思い、唐揚げもたっぷり揚げております。あと白ご飯とお味噌汁!」

「助かる。うわ、急に腹減ってきた」


 凉香は朗らかに笑うと、「早く手洗ってきてね」と言い残し、元気に台所のほうへ戻って行った。


 颯太は手洗いとうがいを済ませると、二階の、かつて母が使っていたという部屋に通学鞄と外套を放り入れる。

 

 ふと視線を上げると――箪笥の上に、母が家を出る時置いていったという、子犬のぬいぐるみが置いてあった。

 

 その姿に、今日見たもの――異形の子犬を思い出し、颯太は身震いする。


「なんだったんだ……あれ」


 考えても答えが出るわけはなく、颯太は頭を振ると階段を降りていった。

 日常の象徴のような味噌汁の香りが、胸に残る恐怖の残滓を忘れさせてくれた。


 ◇◇◇


「……うま。この味噌汁、なんかすごいうまくね?」

「おお、そうちゃんはお目が高いねぇ。今日はちょっと良い昆布で出汁をとってるんだよ。昨日お隣さんからいただいてねぇ」


 颯太の祖母は麦茶用のお湯をやかんでわかしながら、孫の反応に満足げな笑みを浮かべた。

 

「へぇ……出汁で変わるもんなんだな……」

「ねぇ、お兄ちゃん。筑前煮は? 筑前煮はどう?」

「うん、めっちゃうまい。……でもばあちゃんのには、あと一歩敵わん」

「そうかぁ……」

「ばあちゃんの筑前煮がうますぎるんだよなぁ……。でも凉香のもうまいよ。白米がいくらあっても足りねぇ」

「あらま。嬉しいねぇ」


 祖母は笑いながらやかんの火を止めると、麦茶のパックを放り込む。唇を尖らせて拗ねる凉香の背中を優しく叩くと、孫二人が並んだ食卓の向かいに腰掛けた。


「……若い子が二人もいると、家の中が華やぐねぇ。こっちに来てくれてありがとうね、二人とも」 


 しみじみとした祖母の言葉に、凉香は曖昧な笑みを浮かべながら筑前煮の人参を口に運ぶ。


 

 ――颯太たち家族がこの家に越して来たのは、凉香につきまとう男、いわゆるストーカーから逃がれるためだ。


 凉香は兄の贔屓目を抜きにしても、中学生にしてなかなかの美少女だ。そして、大人しくて優等生でもある。教師に毎朝しっかりと挨拶をし、頼まれ事は断らないような。

 その模範的な態度を最悪な形で勘違いする男がいた。よりにもよって、聖職である教師の中に。


 初めは軽い贔屓から始まった。その後、その教師が他にもいる生徒の中で凉香にだけ手伝いを頼むことが増え、用事のないときにもやたらと話しかけてくるようになったという。

 凉香は戸惑ったものの、自意識過剰だと自分に言い聞かせ、家族にも伝えていなかった。今思えばそれがよくなかった。

 

 教師は拒否されないことに増長し――最終的には、凉香に交際を迫る手紙を渡すに至り、事態が発覚した。


 話し合いは拗れに拗れた。学校側は転勤させると提示したのだが、当の教師が「転勤させられるくらいなら辞める、凉香の近くに居たい」――と、話の通じない状況だったのだ。


 更に悪いことに、そいつは放課後に渡会家の周りをうろつきはじめた。幸い凉香と出くわすことはなかったが、その事実は彼女を更に追い詰めるのには十分過ぎた。警察にも相談したが、実害がない以上は見回り強化の他に何もできないという。

 

 あの男はもう、何をしでかすかわからない。話し合いに同席した颯太の意見に、母も同意した。 


 悩んだ末、渡会一家は長年住み慣れた自宅を離れることに決めた。 

 そうして夜逃げ同然の状況でこの家に避難し――現在に至る。


 

 結局白米を三杯平らげて、颯太は洗い物を買ってでていた。隣で凉香は洗い終わって濡れた食器を布巾で拭いている。

 祖母は居間でテレビを見ていた。なんとかという演歌歌手が祖母の「推し」なのだ。今放送している歌番組に出ているらしい。

 祖母の様子を横目で伺い、凉香は彼女に聞こえないくらいの声で、颯太に話しかける。

  

「……今日はね、オンラインで授業に参加させてもらった。やっぱり……外に出るのは、ちょっと怖くて」

「いいじゃん。わかんねえとこあったら言えよ。兄ちゃんが教えてやる。……英語以外ならな」

「あはは。……ありがと、お兄ちゃん」


 例の件の後、凉香は家の外に出ることに恐怖を感じるようになっていた。颯太が付き添えば出られはするのだが、学校という空間には長時間居るだけで無理らしい。


 初めは無理して転校先に通っていたが、過呼吸で倒れるにあたって止めさせた。現在は児童精神科の元に通いながら、自宅で勉強をする日々だ。


 ――理不尽だ。加害者はのうのうと生活を続けているのに、被害者である彼女がこんなに追い詰められて。

 

「『おにがくる』……か」


 鬼と言うならば、あの教師のような人間だろう。あまりに不吉な予言めいた言葉を思い出し、颯太の胸が重たく濁った。

 

 ――本当に鬼なんてものがいるんなら、あの男……凉香を苦しめた教師を、地獄に連れて行ってくれないか。


「お兄ちゃん、何か言った?」 

「……いや、なんでもない」


 颯太はそう言うと、凉香に向かって微笑んだ。

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