男嫌いアリスは恋を知る

綴音リコ

第1話 アリスの目覚め

 〈恋慕〉、という単語を辞書で引いてみたことはあるだろうか。

 読み方は音読みでれんぼ、類義語は恋情とか傾慕。

 意味は『特定の異性を恋い慕うこと』。

 使い方で言えば、こんな一節が素敵だろう。

 『だがアイリーン・アドラーに恋慕の情といったものを抱いているのではない』_アーサー・コナン・ドイル著『ボヘミアの醜聞』より。


 さて、何故ここで恋慕の意味について触れたのか疑問を持っている頃だろう。

 その答えは、今この物語の主人公である少女の頭の中が、この単語でいっぱいになっているからである。 



 目が覚めたら知らない森でした、なんてモノローグを使える人間、或いはそれを信じる人間が、世界には一体どれほど存在するのだろう。

 少なくとも少女なら友人からそんな連絡が来れば、ついに頭をやったかと鼻で笑うか、それともよもや事件に巻き込まれたかと110に指を伸ばすかのどちらかだ。

 しかし少女の眼前に広がるのは紛れもない深緑で、鼻腔を擽るのは朝食ではなく植物と土の香りだ。ついでに小鳥のさえずりも、確実にすずめではない。


「……なに、ここ」


 ゆっくりと起き上がって辺りを見回す。体を横たえていた地面はふかふかと柔らかくて、光を浴びる草が青々と茂っている。

 背の高い木が目一杯に枝を伸ばし、その隙間から木漏れ日が射している。あちこちに光が射しているため、どことなく神聖で、穏やかな気分になれた。

 しかし木に実っている果実は見たことのない形をしているし、さっきから必死で目を逸らしていたが視界の端に映るキノコは腰かけられるレベルで巨大だ。あれは少女が知っているキノコではない。

 まだ夢を見ているのかしら、と少女は思った。

 だってあんな大きなキノコは見たことがないし、そもそも自分は昨日確かに自室のベッドで眠りについたのだ。廊下を誰かが歩いただけで目が覚めるほど眠りが浅いのに、眠っている間に運ばれたなんて考えられない。

 ここはどこなのだろう。

 今日は古典のテストだったのに、間に合うだろうか。


 寝起きの頭でぼんやりと考えていると、視界右上に違和感を覚えた。なんだかそこだけ水滴を垂らしたように滲んでいる。なんとなくぐっと睨んでみると、ピコンと音を立てて丸いアイコンが現れた。


「は?」


 なんだこれ、と手を伸ばすと、空を切る感覚はあるものの、横にスライドした動きに合わせてアイコンが動いた。すぐさまジジッと視界にノイズが走り、半透明な矩形が展開した。一番上には《メインメニュー》の文字。……いよいよ異世界じみてきたな、と少女はひくりと口許を引き攣らせた。

 すとんと座り込めば、まるで少女に固定されたように目の前から動かない。どうやら少女の身体と連動しているようだ。

 左端にはメニュータブらしきものがいくつも並んでおり、それぞれに簡単なマークが描かれている。確認のために一つずつ見ていくと、注意を引くように点滅するアイコンに気が付いた。

 マークは手紙の形、伝達を示しているのだろうが、一体こんな右も左もわからない少女に、誰が何の連絡か。

 不気味な感覚が背筋を這い、少女は警戒しながらそれをタップした。

 親愛なるアリスへ、という書き出しから、それは始まっていた。


__親愛なるアリスへ。


おはよう、或いはご機嫌よう。

お目覚めかしら、アリス? ああ、名前が違うからって人違いだと思わないでちょうだいね。私たち神々は、世界を跨ぐお気に入りの子どもをそうやって呼ぶのよ。あなたたちの世界では、不思議の国に迷い込んだ女の子の御伽噺は有名でしょう?


「神々だぁ?」


ちょっと、遮るのはよして。

兎も角、あなたは異世界で人生をリセットする権利を得たってことよ。

一目見てあなたの事を気に入ったの。だってこんなに高潔な魂は他にいないものね。

でも、あなたは家で窮屈な日々を送っていたのだから、別の世界に来ても未練なんてないでしょう。愛を知らない、哀れな仔。

だからねアリス、これからの人生は、自分の幸せの為に生きてね。



 あなたを大切に想う一柱より、で締め括られた手紙に、少女の眉が吊り上がった。この女、誰が哀れですって? 失礼すぎるでしょ。

 勝手に私を知った気になって勝手に同情してとんでもない行動を起こすんじゃない、そういうのは本人の許可を取ってから――、そこまで考えて、少女ははあ、と大きくため息を吐き出した。

 眩しい陽光を見上げる。


「……ま、いっか。どうせなら楽しんでやろ」


 燦燦と降り注ぐそれに目を細めて、少女は緩く口角をつり上げた。

 視線をウィンドウに戻してその手紙をスクロールすると、P.Sの文字が。


P.S

アリスちゃんのために役立つ《祝福》を用意したわ。ゲームでいうところの固有スキルみたいなものね。ステータスから確認できるわよ。

ちゃんと活用すれば世界だってあなたのモノよ。

それじゃ、頑張ってね♡


「ハートうざいな……えぇっと、ステータスは、っとこれか」


 魔女のとんがり帽子が描かれたそれを押してみる。

 広がった矩形は《ステータス》と銘打たれ、《体力》、《魔力》などの数値が記されていた。詳細は以下の通りである。


体力:B+/6500

精神力:A+/8263

魔力:S-/9015


属性:炎 樹

祝福:〈恋慕〉

獲得:女神の寵愛


「全体的に高いな。ていうか、魔力S⁉ やっぱりこの〈女神の寵愛〉ってやつの効果かしら……怖」


 それから《祝福》に目を滑らせる。

 これはどうやら選択すると詳しい情報が出てくるらしい。


「えーと、〈恋慕〉。誰かとイチャつくことで経験値を得ることが出来る。レベルが上がれば〈魅了〉を獲得可能……急に頭悪くなるじゃん。え、嘘でしょ?」


 なんだこれ。

 こういうのって普通、鑑定、とか農業、とかそういう一見地味で実は超有能、みたいなスキルが定番なのではないのか。なんだこのふざけたスキルは。


「だいたいイチャつくって、誰とどう絡んだらイチャつくになるのよ。手を繋ぐ? それともキス? 範囲はきちんと定義しろ‼」


 論点は明らかにそこではない。が、この絶妙にずれる主張はついぞ少女の片割れ共々完治することはなかった。

 ダンッとすぐ横に生えていた木に拳を叩き付けると、既読にしたはずの《メッセージ》が再び点滅を始めた。


「………」


 無言で選択し、内容を確認する。


__親愛なるアリスへ。


もちろんそれは私が「あ~、いちゃいちゃしてるなぁ。可愛いなぁ♡」ってなったらよ。人は何人でもいいし、恋人でも誰でも構わないわ。

いつでもあなたのことを見てるから、安心してイチャついてちょうだいね!



 ぞわっとした。

 鳥肌が立った両腕を摩って、少女はぶるりと身震いした。

 まさか冗談みたいな存在のストーカーがつくなんて思いもしなかった。


「しかも何私がイチャついてると思ったらって。判定ガバガバすぎるでしょ。神の基準なんて知らないわよ……」


 イラっとしながら《メッセージ》を閉じ、少女は事の重大さに気が付いた。

 イチャイチャ、というからには恋人やそれに近しい人物を接触し、交流を深める必要があるのだろう。そしてそれを行えば行うだけ強くなれる。そう考えれば、割と便利な能力なのかもしれない。

 

 が、しかし。

 少女はこの《祝福》を使いこなすには致命的な欠陥があった。


「男なんかと関わりたくないんですけど……」


 ——少女は筋金入りの男嫌いだった。

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