第1話 きみはだれ。

 



 幾千の星の中で、何億という人の中で、君に出会った偶然はきっと奇跡なのだろう。


 今日もいつもと同じ道、いつもの学校、かわりばえしない日々。学校は、自分に必要な知識を学ぶためだけの場所。人生の一通過点。

 そんな当たり前のつまらない日常が、今日も繰り返されるはずだった。


「は……?」


 呟いて思わず教室のプレートを確かめる。


【3-A】


 たしかに自分の教室だ。

 早朝の教室。教室には咲太郎以外には誰もいない。――いつもならば。


 新しい学年に進級してから一週間目の月曜日。見知らぬ男が教室の一番うしろの咲太郎さくたろうの席で眠りこけていた。


 転校生? そんな事も考えたが、昨日担任は何も言っていなかったし、朝一番に転校生が教室にいるのもおかしい気がする。

 大方自分のクラスを間違えたか。とりあえずどいてもらわないと咲太郎の席はない。咲太郎は嘆息すると彼の肩をひかえめに揺すった。


「……おい、ちょっと」

「う……んんぅ……」


 彼はいかにも眠たそうに、その瞳を薄っすらと開けた。

 彼に近づいた時、彼の顔立ちが端正なことには気がついたが、瞳を開くと倍も印象的な顔立ちをしていて咲太郎は目を見開く。


「……なに?」


 まだ半分はっきりしない声で問われてハッとする。


「お前、教室間違えてない? ここは3-A……」


 彼の目が咲太郎を捉えて、柔らかそうな癖のない栗毛が、朝の光に照らされてキラキラと輝いていた。形の良い薄い唇が開くのを見て何故かどきりとする。


「間違えて……ない……。俺、ここの生徒……。ご、めん……もうちょっと寝かせて……」


 そう言うとすぅっと再び夢の世界へ旅立ってしまう。


「ちょ……!」


 咲太郎は困惑してその場で呆然と立ち尽くした。



 咲太郎が自分の席にも座れずまんじりと彼を見ていると、「おはよー。成宮なりみやくんいつも早いねー」とクラスメイトの女子が二人入ってきた。


「あ、ああ……おはよ」


 未だ呆然と立ち尽くしていると、彼女達が眠っている彼の存在に気づいて声を上げた。


「あっ! ね、ねぇっ! 一ノ瀬いちのせくん来てるよ!」

「え?! ほ、ホントだ!!」


 ついで小さくきゃあきゃあと囁き合っている。咲太郎は驚いて彼女達に尋ねた。


「こいつ……知ってんの?」


 そう言うと彼女達は信じられないものを見る目で咲太郎を見た。


「成宮くん知らないの?!」


 すごい剣幕で言われて、知らないと返すと呆れた声が返ってくる。


一ノ瀬いちのせ ひかるくん。ほら、今テレビドラマに出てる……」

「『二階堂にかいどう ヒカル』って芸名の超人気俳優だよっ!」


 俳優。


 その非現実的な響きに咲太郎はどう反応していいか困ってしまった。

 普段テレビ……ましてやドラマなんて殆ど見ないから余計にいまいちピンとこない。


「ここの学校じゃ有名だよ? 二階堂くんが通ってるって!」

「時々しか学校には来ないけどさぁ……」


 そう言えば、咲太郎の通う私立 向陽台こうようだい高等学校に入学を決めた時、妹が何か騒いでいた気がする……と記憶を辿りながら咲太郎はまじまじと未だ眠る光の顔を見た。


 確かに、言われてみたらどこかメディアで観たことのある顔のような気がするし、瞳が閉じられている今の状態でも鼻筋が通っていて絶対に美形であることは確実だった。


 女子たちはきゃあきゃあと騒いで胸を高鳴らせているが、咲太郎にしてみればとりあえずそこは自分の席だし、早くどいて欲しい。そして休み時間になれば彼の周りに群がるであろう人だかりを想像して咲太郎はげんなりとため息をついた。



 結局ホームルームまで起きなかった彼のせいで咲太郎は彼の周りをウロウロとする羽目になった。朝礼にやってきた担任に起こされ席の違いを指摘された時は咲太郎に平謝りしていたが。

 

 彼、一ノ瀬 光は咲太郎の隣の席だった。


 一限目が終わり休み時間、『二階堂 ヒカル』の周りに人が群がるであろうことを予測して咲太郎は授業感の休み時間を極力教室の外で過ごし、お昼も早々に購買へ行こうと席を立った。

 しかし、予想に反して光の周りには誰も寄り付かず、皆早々にグループを作り食事を取りはじめてしまった。

 皆、気にはなっているようだが、どうやら気後れして声をかけられないらしい。確かに、芸能人とは言え想像を超えた美形ではある。どう見ても身長は高そうなのにとにかく顔が小さい。どこから足なんだよ?! と思うくらいに足の比率が長くて、男とは思えないほどに色が白くてまつげが長い。そこだけ空間が違うかのごとく光っている気がする。その名前のように。


 チラチラと向けられる視線が痛い。いや、自分に向けられているわけではないのだが、席が隣なのでどうにも視線が痛すぎる。


 落ち着かずソワソワとしている咲太郎の隣で、まるで村八分か珍獣のような状態になっている光は全く気にもとめずに昼食を取ろうとしている。この状況に完全に慣れてしまっている光に、咲太郎は胸がザワザワとした。


 教室にはこんなに人がいるのに、まるで一人きりでそこに存在しているかのような彼。


 できることなら関わりたくない。目立つことは極力避けたい。

 学校という社会の中で、自己主張をすれば面倒事に巻き込まれるということはもう嫌と言うほど学んだはずだ。


 そう、思ったはずなのに。


 光の机の上に置かれた固形の栄養補助食品に彼が手をかけた瞬間、


「おい、それで足りんの? 購買行こうぜ」


 気がついたら声をかけていた。


 声をかけられたのが自分だと気がついた光はぽかんとして、形の良い目をまん丸にしている。そんな光を見て、急に恥ずかしさが込み上げてきた。それを悟られないようにと思ったら、自然に口調がきつくなる。


「んだよ。行くのか行かないのか」


 まだ驚いた面持ちの光は咲太郎の誘いに逆らうことなく、


「あ、うん。行きますいきます」


 と席を立った。


 二人が教室を出ると、事の成り行きを見守っていたクラスメイト達はしんと静まり返っていた。



*****  *****



「……」


 ええっと? この状況は一体なんだろう?


 光は困惑していた。

 光の目の前には彼の買ったパンが積まれていて、突然声をかけてきた少年はなにかを喋るわけでもなく黙々と目の前でパンを食べている。

 元々誰かといる時に沈黙に耐えられないタイプの自分にはこの状況は気まずくて仕方がなかった。彼は日本人形のような涼し気な目をしていて、高校三年生にしては童顔で可愛らしい顔つきだと思う。しかし眉はきりりとしているので女顔というほどでもない。だが彼には何かこう、気軽に喋れない空気が漂っていた。

 光が黙って困惑していると、何も手を付けていない光に気がついた彼こと咲太郎が不思議そうに言った。


「どうかした? どうぞ、おごり」


 言われて「あ、うん」と答える。しかしパンには手をださず、光は無心にパンを食べている咲太郎におずおずと話しかけた。


「あの……さ」

「ん?」


 顔もあげずに咲太郎が返す。


「なんで……」


 続けようとしたら何か思い出したように咲太郎が光の言葉を遮った。


「ああ、そういや名乗ってなかったよな。悪い。オレ、成宮 咲太郎。よろしく」

「え? ああ、俺は一ノ瀬 光……ってそうじゃなくて!」


 やっとここで咲太郎と目があった。光は思っていたことを口に出す。


「なんで……俺に声かけたわけ?」


 不思議そうに尋ねると咲太郎の眉が寄る。


「だって……お前、あんな動物園の檻の中みたいな昼飯、うまくねぇだろ?」

「いや、それはまぁ……うん」


 光が歯切れ悪く答えると「もしかして……迷惑だった?」と咲太郎に言われて慌てて光は否定した。


「そうじゃないよ! ただ、高校入ってからこういう風に誘われたのって初めてだったから……少し驚いただけ」

「ふーん、なんで?」

「なんでって……」


 そんなこと、聞かなくても解るのではないだろうか。


「……近づきづらいんじゃないの? 一応、有名人みたいだし」


 他人事のように言ってみる。

 咲太郎はそれに対して興味がなさそうに返事を返した。


「へー、……オレはアンタが有名人ってことよりも、あの衆人観衆の中でメシ食う方がが気になるけど」


 変じゃね? 有名人だからって、飯くらい普通に食べたくね。と続ける咲太郎に、光は奥歯からじわじわと広がるような何かを感じた。


 この感情。一言で言うならそう『感動』


 たった二文字のありふれた感情。普段の生活の中に、いくつもある感情の一つだったけれど、今まで芸能人扱いしかされたことのなかった光にとっては新鮮なものだった。

 ……自然に顔がほころんでくる。


「? 食えよ?」


 もう一度促されて、


「ありがとう」


 とやっと机の上のパンに手を伸ばした。





「さてと、腹もいっぱいになったし行くか」 


 皆にチラチラと盗み見られながら食べる食事には慣れっこだった。

 ……でも、決して気分が良いものではなかった。


 今も、周りからの視線は変わらない。

 でも、彼が隣にいることで、視線はもうあまり気にならなかった。


 次は理科室だってよーと、さっさと立った咲太郎を慌てて追う。


「成宮くん!」


 咲太郎は光の声に振り向くと、少しはにかんで初めて笑った。


「咲太郎でいーよ」




 いつもと同じ道、いつもと同じ学校、いつもと同じ今日。

 何も変わらない日常。それが今日も二人に訪れるはずだった。


 それでも。


 ふとしたことで起きる偶然。


 幾千もの偶然に散りばめられた奇跡。

 これが、二人の日常を変える出会いだった。



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