誰も知らない

とかげくん

第1話 鎖を巻かれた猫





 小さな頃の私は大人になったらパン屋さんになりたいと思っていました。

かわいいと言われるはずの子供の私は、どこか物憂げに毎日うつむいていました。


新しい服なんてない

お小遣いって、なに?

自分の部屋は

もちろんありません


当たり前のことが私にはちょうどよかったです。だってその方が、人に期待しないですみますから。



家には怖い人がいます。

刃物を持って、私を待っていました。

私は玄関をそろりと開けます。

小さな声で、ただいま、を言うのです。

もちろん家の中から返事はありません。

これも、当たり前です。


私は畳の上に座ります。

六畳二間の端っこに身を寄せて、じっと身体を静止させます。

刃物人間は、隣の部屋にいます。私には理解のできない、意味のわからないことを話します。自分の頭を振って、座っている体勢から立ち上がります。

その時は、私の身体が急速に緊張します。全身全霊の防御体勢に入ります。


刃物が壁に突き刺さる時の音を知っていますか?

刃物が畳を突き抜く音を聞いたことがありますか?


かわいそうな壁と畳。


犠牲者は、物から私へと変わります。


私は蹴り上げられます。

痛い………

いたい………

イタイ…………

助けはありません


足が痛くはないのでしょうか?

きっと平常感覚ではないのですね。



ぶぉんっ!


私は宙に浮きました。

蹴り飛ばされて、端から端の壁にぶち当たります。顔を覆うと、やられます。

だから、泣いていても、涙はぬぐえません。


身体中が悲鳴をあげています。

心臓がはち切れそうに鼓動を刻みます。

苦しいので、おトイレに行きたいです。

そう思っても、こんな時は涙が先でした。


刃物の持ち手を掴むのは、誰でしょうか

私にも、きっと出番があります


でも私は刃物を握りません

もっとも強い目力で

強烈な光を、あたりにまき散らします




憎しみからは憎しみしか生まれません

恨みの悲しみなんて捨ててしまいました

残ったものは、

愛を失った悲しみと

言葉のかけら


残虐なストーリーには悪役が必要です

悪役もまた今を生きている

私は彼を憎みません



大人になった私は

愛を求め続けました

ひとりの人が

私を見つけてくれました

私は愛を探すことをやめて

自分自身の愛を

信じました



私を罵倒した彼からは

美しい瞳をもらいました


一生分の苦しみを背負い

死ぬ手前の吐き気に喘いだ彼の人生は

一番綺麗な瞳の輝きを持っています

いまの私には

彼の瞳の本質がわかります


言葉へと変換するに値する瞳

彼も私と同じく

不器用ながら

いつも愛を探していた


私は彼の美しい瞳に気付いてから

手を差しのべてきました

彼は

私の手を掴むことなく

静かに山に入りました


それが彼の生き様でした



愛は

手を差し伸べられたなら

掴めばいい


手を差し伸べることができるなら

相手の震える手を

掴んであげればいい


自分自身を愛すること

ひとを愛すること

何一つ区切りはありません


ただ、それだけなのです




私はいま

安心して生きています

おいしいと言ってもらえるように

毎日パンを焼いています



私に巻き付いていた鎖は

少しの傷跡を残して

きれいに消えました











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誰も知らない とかげくん @fool727

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