45℃の止まれない魚たちspecialedition

つきがさ あまね ばゆこ

第1話

45℃の止まれない魚たち special edition

 


回遊魚の水槽を見たことが あなたはある?

流れるように多種多様な模様の尾びれ背びれを羽ばたかせて 全身の力を後方に送り込んできらめく水面や 他の回遊魚の群れへと続く前方のアクアリウムへ向かって 舞いながら行進する魚たちの。


 杏は9センチのヒールをランウェイのステージセットから離陸させ、後ろに足を引き白いアキレス腱を伸ばした。

身体全体をカタカナの「トの字」にすることをイメージする。

しかし頭はてっぺんから吊られているので途端にぎこちなくなる。 肩幅は左右の誤差で展示する服に影響が出ないように普段からカバンの持ち方まで気を配っている。

足を交差するステップの踏み方など、レッスンのほかに何度も自主練をする。誤差の範囲まで調整しないと身につかない。


ーそう、ひとときも気を抜けないのだー


「YOUNG TOKYO COLLECTION ”GLAECE″」


 明里 杏や他のモデルやスタッフ、関係者などが立ち並ぶステージ。 


メインスクリーンに映し出されたタイトル。

東京で開催される10代20代の女性がメインターゲットとなっているファッションの展示会のそれだ。

 今日のステージ練習はショー本番を1週間ほど後に控えた一度目の通し練習だった。


通し練習は音響や照明、映像抜きの動きチェックのものと、音楽、簡単な照明付きだけのもの、そして全て込みのもので入念に行う。

通し練習自体は全二回あり、あとは本番直前にリハーサルを行い調整し、本番を迎える。

まだ今回は一回目の通しリハだった。そのせいかスケジュール調整できなかったところのモデルは仮モデルが代打で歩いていたり 照明と音響のスタッフ同士がジェスチャーしあってたりと、いつものよくある不慣れな印象だ。

 杏はそう思いながら 統括が話すモデルの動きチェックの解散を告げる挨拶や掃けの合図を聞いてからステージを後にしようとした。

オフホワイトの長袖ワンピースは刺繍が入っていて、この後の照明や映像が入る練習の為に選んだ一枚だ。


そのとき、聞きなれた声に後ろから声を掛けられた。

「お疲れ杏ちゃん。また背ぇー伸びた?それにしても今日人すくねえなぁ…」

 海棚摩耶はクリエイティブ・デイレクターだ。このショーの現場責任者であり、全ての指揮をとっている。

紺色のスーツにチーフタイ、ホログラムのタイピンをしている。「rje "ルヅエ" 」のメンズレーベルだ。

杏はふふっと笑みを零しながら摩耶に練習用のヒールのトゥを向けると別の声が入ってくる。

「二日酔いおじさんが若い子に絡まないの。杏は先週測定したけど変わってないはず。十代に安直なイメージ持ちすぎ。 それにニ回目だとちゃんとスタッフもモデルも練習終えてから集まるの知ってるでしょ」

 モデル指導の千代田粧が呆れたように海棚に向かってため息をつく。

長いワンレングスの黒髪にスキニーパンツにピンヒールで、もともと欧州で色々なブランドの展示会や東京のコレクションに参加していた経歴を持つ彼女を表したいでたちだ。

摩耶はつれないなぁという顔で左肩を崩し、ステージから会場の後方を見つめた。大きなイベントホールで数万人が入り、コンサートにもよく使われる会場だ。

 天井が非常に高く、音響のスタッフ達が配線に無線機片手に駆けずり回っている。どうやらトラブっているのは、予想以上に音が跳ね返ってくることらしい。

ダボっとした作業着の腰のベルトに無線機を突っ込み、海棚に軽く会釈して音響スタッフはすれ違いざま現状報告を済ませる。

「会場がお風呂場と一緒の状態になってますね。この会場もともと跳ねやすいって有名ですけど…後部残響音がえぐいです。今日の通しはまだてこずってます…お風呂場ってより」


ゆっくりやってよ、はじめてじゃないんだから。


と海棚が無表情でつぶやくと 作業着の男は重大な過ちを犯したように悲鳴のような吐息まじりの返事を走り去って行った。

杏と粧は照明部隊が昇るタワーとその足場の向こう ドーム状の天井を会場の内側から見つめた。

休憩の後は音楽と舞台上の照明が付いたウオーキングだ。

粧が長い髪をおおきな扇状に揺らし出口に向かう。

 つられるようにして杏が反射的にバックターンのような動きで向きを変え追おうとした瞬間、海棚に進路を素早く塞がれる。

立ちはだかる海棚に驚いた杏はかすかに声を上げた。

「海棚さん…」

「向こうの展示の話な…」

海棚が言いかけたところで照明、スポットスタッフの一人がマイクでなにか会場へとインフォメーションし、ステージ中央の強い光が消えた。

一瞬ステージにまばらに残っていたモデル達などがどよめいたが、長い休憩時間の談笑へと戻っていった。

‘‘向こうの展示”とは、杏がかろうじてオーデイションに合格したミラノで行われるプレタポルテの展示会のことだ。

暗転したステージの中、杏は海棚の方へ再び向き言葉を待った。

「杏ちゃんにまだ もうちょっとたりないものがあってさぁ

何かわかる… みんなはそれで 今のままで良いって言うんだけどねぇ」


 杏はトップ集団の集まる土地へ向かうための身体づくりやウオーキング技術のこととすぐに思い至った。

トレーニングを増やさなくてはと考えついたが、やけに海棚の言い方が回りくどいことに気が付いた。

それに粧を経由して聞かされるということもありえるだろう。

何故海棚が直接杏にそんな提案を?

「考えておいてよ」

 杏がぐるぐると考え込んでいるうちに海棚は唇を吊り上げながら背を向けて去ってゆく。

先ほどの作業着を着た音響スタッフが、無線機に向かって怒鳴り声をあげながらセットの床を蹴るように走り去ってゆくのを見て、

杏は顎を捻りながら今度こそ真っすぐに出口に向かった。


サメ マグロ カツオ。


この世の中には海中で群れになって回り続けないと死んでしまう魚が存在するらしい。

昔子供の頃家族に連れて行ってもらった大規模なガラス張りの水族館。マグロの水槽の中で一匹だけ死骸が浮かんでいたことがあった。

およそ70キロものスピードで泳ぎ続けられなかったのだろう。群れを外れて水面の上にぷかぷかと波紋を描き死んでいた。

なんでもないと思っていた光景が今はっきりと思い描ける。


そしてそ知らぬ顔をして泳ぎ続ける残りの回遊魚。


「わたしに足りないものってなんだとおもう」


明里 杏は 杏 キョウの妹の明里 弥が天然木で作られたデッキブラシを使って床のタイル清掃をしている後ろ姿に話しかけた。

大声で話しかけたので天井まで高さ10m2以上ありそうなドーム状の建物全体に音がこだました。

これはこの間ファッションショーの音響のスタッフが海棚に報告していた

後部残響音 所謂 はねっかえり というやつではないか。

と杏は天井を見上げるともなしにそう思った。


「びっくりした!急に何よ。お姉ちゃんウォーキングの練習集中してたんじゃないの」


作業に集中していた弥 ミツは驚いて声を上げた。

ここは 明里 杏の実家が経営する銭湯で、杏は脱衣所に置いてあるランニングマシンを使ってウォーキングの特訓を、弥は家業手伝いなので客入り前の清掃を行っているところだった。

ポリプロピレンの手桶がピラミッド状に入り口付近に並んでおり、同素材の同じサイズ感の椅子がそれに続く同じ形で並べられていた。


この機械は床と並行な1メートルほどの黒い走行面ベルトがグルグルと機械の台座上を回る仕組みになっており、

杏は時速3キロほどで一歩一歩走行面のナイロンベルトを踏み締めて歩いていた。


モデルのウォーキングは頭のてっぺんから吊られているように姿勢を立てる。

まず、壁にピッタリと体をつけ、一歩前に出た姿勢をキープして そのまま歩く。

腕は身体より前にだしてはならない。

ステップはとてもコツがいり、習得するまでに杏は同期入所の他のモデルより時間がかかった。

何度も何度も何度も9cmヒールの足首を挫いた。

いまではヒールは身体の一部になっている。


「そうだけど…海棚さんに言われたんだよ なにかわたしに足りないものがあるって」


「お姉ちゃんに足りないもの」


「ウォーキング下手くそかな」


「わたしその道のシロウトだからわからないけどいつも姿勢綺麗に歩けてるよ」


「それじゃ…やっぱり身体づくりかな」


「それは直接モデル指導の千代田先生に言われるんじゃない」


「わたしもそう思ってさぁ モデ指の粧先生は何もなんにも言わないの」


「じゃあなんだろうね?」


弥はデッキブラシを掃く手を止め、姉のランニングマシンの近くまで裸足で行った。

あとで耐水性の木製の床を仕上げに拭き上げる予定だ。

すぐ近くにそのためのモップブラシがある。


その間の会話はずっと天井に響きっぱなしだった。

ここも浴室と同じくらい天井の高さがある。

決して新しくはないが富士山の絵がでかでかと壁面に描いてある昔ながらの風情ある銭湯だ。


お客さんもみな互いにマナーを守って入浴を楽しんでいる。


「あんまり気に病まないで気楽にやりなよ。

ミラノでのショー本番もあるんだからさ」


「そうだね」


杏は弥に明るくそう返すと、ランニングマシーンの横にある姿見を見た。

横には古い身長測定器もある。


もっと痩せないといけない気がする。


渋谷の道玄坂にあるホテルの備え付けの液晶テレビに女性が写っている。

それは悪の組織に追い込まれて狂ってしまったヒロインがゆっくりとカメラの方面に向かいアップの顔に涙を溜める表情を大写しにしている画面だった。

画面が恐ろしく暗いのに引き込まれる映像だ。


洋画を観ながらゆっくりと海棚が口を開いた。


「人間が狂う時ってどんな時かな」


「どうしたの急に」


「ーーーいや この映画を観ていたら………ふとそう思ったんだ」


モデル指導の千代田 粧は裸にガウンを着てベッドに座っているクリエイティブディレクターの海棚摩耶の方を見やると特になんの疑問も持たずに答えた。


自分も同じような格好をして部屋の椅子に座ってコーヒーを飲んでいる。


「そうなのね よくわからないけれど………ある日急に狂うんじゃなくてある程度ゆっくりと時間をかけて狂っていくんじゃないかしら

ほら 茹でガエルってあるでしょ あんな感じよね」


海棚はそれを聞いたあと、一重瞼の目をシワを作りながら瞑った。

ゆっくりと首を上に上げ曲がった肩を平行に戻し時間をかけて息を吐きながら


「そういうものかな」


と呟いた。


画面の中のヒロインは悪の組織に銃で撃たれてあっけなく死んだ。


海棚と粧はホテルのロビーを別々の出口から出た。

安いホテルにしたのはそれぞれ別の家庭を持っているからだ。

外は霧雨が降っていいたが二人は傘を刺さなかった。


足がつかないようにする関係というのはなぜこんなにもチープでやすっぽくて そしてそっけないのだろう。


ある日の午後、粧のお尻は元祖iPhone一個分  4.5 インチしかない、

ジーンズのポケットに現代のiPhoneを入れると隠れてしまう

とモデル仲間たちが練習の時に集まってはしゃいでいた。

モデル指導の粧現役時代、ファッション五代都市のショーを周り有名下着ブランドの広告も何度か務めたそうだ。


杏は都内のスタジオで個人練習をしていたが、モデル仲間と粧の会話を聞いてふと不安になった。

所属事務所のモデルの殆どが体育館ほどの大きさのスタジオの中で鏡面の前にいる。ステップやターンやアクション、ポージングなどの個人練習を各々で行なっているところだ。


ーーー海棚がわたしに足りないと言っていたものーーー


何だろうか


BMIは15.5だったが気になり出したので主人公の名前は食事を制限することにした。


「おねーちゃん食べないの」


弥は食卓に並んだサラダと味噌汁、オムレツと漬物、茶碗に盛られたご飯を挟んだ向こう側に座る姉に問いかけた。


杏は昼ごはんのサラダと味噌汁だけを食べると、そそくさと食卓を離れ歯を磨いた。

自宅のすぐ隣の銭湯の番台を抜けると、体重計に乗った。


体重は30キロ代まで落ちていた。


味噌汁のカロリーをスマホのアプリケーションで計算し、次からはそれも抜きにしようと決めた。

ウォーキングマシンで何キロも走り抜いた後、客がはけた後の清掃前である大浴場で汗を流し、弥と共に清掃作業をした後脱水症状を起こし脱衣所で倒れた。


急いで弥が水分補給させ、大事には至らなかったがその日のウォーキングの練習は休み、

夕方4時からの銭湯の営業は遅らせることとなった。


しかし杏はそれからも栄養を摂ろうとせず、少しでも食事を摂ろうというものならば激しい運動や汗を流してそれらを帳消しにする無茶な行為をやめなかった。


弥は懲りずに何度も栄養のあるものを姉の分まで作ったが杏はカロリーのあるものは一切口をつけなかった。


杏が食事を制限し始めて二週間がすぎた頃、

海棚 摩耶が杏をスタジオの応接室に呼び出した。


昨日とは雰囲気を変えてオリエンタルな柄のワンピースを杏は着ていたが、あばら骨が少し目立っていた。

足も細く棒のようで筋張っておりひょろひょろと力がない。

杏は応接室のソファーの出入り口に近い方に座って所属事務所の最高責任者を待つ。


壁にかかったかけ時計が示す待ち合わせ時間ぴったりに海棚は入室してきた。


顧問を務めるオリジナルブランドの細身の紺色のスーツに身を包んでおり、髪をオールバックにしているいつものスタイルだ。

表情も完全に消えている。

眉毛が太く、堀が深いのでとても目が鋭く見える。迫力があって杏は海棚からただならぬ圧迫感というものを感じていた。


杏は貧血でふらつきながら立ち上がると一礼し、

要件を恐る恐る促した。

昨日は海棚から話があると聞き、あまり眠れなかったのだ。


ミラノでのショーに向けて足りないものが一体何なのか今日ようやく解るかもしれない。


そんな期待もあった。


ソファーに座る海棚に向かって目線を向け 杏は最初の一言を固唾を飲んで待った。


「いや………杏ちゃん………やっぱり………」


海棚は一瞬目を背けるように黒目を虚空にキョロっと動かした。

それはまるで目の前のとても食べられやしない食べ物から目をそらすかのような視線で…。

海棚はソファーに前のめりに座り膝に肘をつけて眉間に手をやり、眉間の皺を揉んだ。そして

絞り出すようにそう呟いた。


その表情を見て、杏は何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと

衝撃を受けた。

杏は胃から液が迫り上がってきたので応接室のドアを体当たりし廊下を走り事務所のトイレに駆け込み胃液を吐きそのままタイルの床に倒れ込んで気を失った。


杏が事務所の医務室のベッドの上で起き上がった時、海棚と粧がすぐそばに居た。


「よかった気がついた 吐き気はない?」


「…わたしどうしてここに」


「別のモデルが二階のトイレであなたを偶然発見してみんなで運んで来たのよ

ドクターは診てくれたけど異常ないって」


異常がないと聞いて喜ぶべきかーーー?


杏は少し複雑な気分で身体を起こした。

ペットボトルの経口補水液を受け取りながら

まだクラクラするのを抑えて二人の顔をじっと見た。


海棚は相変わらずの無表情でやたらめっぽうに迫力を感じる表情なので杏は目を逸らした。


そして、粧が若干不安げな表情をしていることに杏は気が付いたが

杏はペットボトルの中身をぐいと飲み込んだ。


カコーーーーン


45℃の赤い目盛ぴったりに止まった基準温度計が大浴場の壁に止まっている。


風呂桶やシャワーのお湯の音だ。こだまする大浴場の音はいつも同じような音が響くだけで代わり映えがしない。


カランに客の下駄箱の鍵がぶつかる。直接音が響くと初期反射がやってきて洗い場全体に伝わり、音が跳ね返る。


時間が経つにつれ残響した音はやがて小さくなり、活気のある客たちの笑い声が湯煙の中に消えてゆく。


ミラノでのコレクションのショーは独自に会場が設けられ、

1000人程が収容される中規模の会場だった。

ドーム状の屋根がついており、中が広く、ステージが中央にあり花道が中央に迫り出していた。

200人ほどのスタッフが出入りして会場の最後の仕上げを行なっていた。

東京のそれより機材が多く、やはり音響のスタッフが慌ただしく直前まで走り回っていたが、杏はそれどころではなかった。


「本当に大丈夫なの」

「やれます やらせてください」

「飛行機の中でも相当にしんどそうだったけど…」

「いいえあれは眠っていただけです」

「ほんとう?ならいいけど」

「本当です ………わぁ大きい会場」


粧と杏はそんな会話をしながら会場入りをした。

これからショーのチーム全体はゲネプロを行おうとしていた。


今日の今日は松葉杖でも必要なぐらい歩行が不安定だった。

とてもこれから堂々と花道を練り歩くモデルとは思えない。

粧は一歩先で会場を見てはしゃぐ杏を見て嫌な予感を打ち消せずにいた。


プロによるヘアメイクと着替えを終えたモデル達。

定刻を15分過ぎた頃、会場にインストゥルメンタルが鳴り響きイタリアでのプレタポルテの展示会が始まった。

トップバッターのモデルがニットにグルグル巻きにされた様な奇抜な格好で颯爽と歩いていく。

他のモデルたちは舞台袖で待機して出番を待っている。

このショーは順調だった。


ただ、舞台袖から遠くに見える海棚が音響スタッフに向かって何か大きく腕を振り上げている。

しばらく経ってからショーのバックグラウンドミュージックがリバーブし始めた。


杏はポリプロピレンの桶や椅子で残響する音、

湯がはねる音、壁画の富士山が脳内をフラッシュバックした。

会場のそれとよく似ている。


カコーーーーン


そして杏はその返り音を機にヘアピースの乗った頭を掻きむしり、嘔吐し、吐血し、失禁しながら舞台床に据えてある可動式の舞台照明の近くで暴れた。

履いているピンヒールを振らしながら何度も足を交差しながら暴れた。

そしてスタッフの静止を振り切ってあるものを持って再びランウェイに現れた。


それは二本の木製デッキブラシだった。


主人公はランウェイをデッキブラシを持って踊るように腰を反って前進し出した。

両手に一本ずつ持ち、それぞれ両足をかけ、絶妙なバランスで進んでいた。

枝葉のようになった身体が大の字になり、木製のデッキブラシに全体重を乗せているような格好で進んでいる形だ。

進むたびに床がザラザラと嫌な音を立ててポリエステル部分が特設舞台のベニヤ板部分に潰れてゆく。

一歩一歩、デッキブラシの柄の部分とハケの部分を利用して推進し主人公はステージ中央から花道へと進んでいった。


海棚は照明の色もあって真っ白な顔をして無関心な表情をしてそれを見ている


腕組みをし、ため息をつき、腕時計を見てまたため息をついた。


そして


ついに狂ったか


と他所ごとのようにつぶやいた。


モデル指導である粧ははすぐにショーを中止するよう海棚に叫んだが、現地の人々が熱狂していることに気がつく。


展示物のワンピースには注文が殺到し、ワンピースは在庫切れになったとブランドのオンライン部門は嬉しい悲鳴が上がり、

ネット中継は視聴者が殺到してサーバーが停止したと部門が普及作業に追われていた。


モデルとしての話題性を狙って杏を追い込んだのかと海棚を問い詰める粧。


歯を食いしばった。道玄坂のラブホテルで観ていた映画のヒロインは悪の組織に追い込まれて死んでいったことを粧は思い出して。


「あなたはおかしいわよ!」


泣きじゃくりながら海棚のネクタイを引っ張る粧だったが、

背後では鳴り止まない歓声とフラッシュ。


舞台花道では嘔吐し、腰まであるウェーブがかった長い髪を吐瀉物まみれにしながら揺らしデッキブラシ伝いに棒のような足を絡めてランウェイを前進する。

毒々しくも美しい一匹の昆虫が花の上を舞うような舞台にまた一枚フラッシュが焚かれる。

光を浴びると蓄光し、内側から光出しまた毒気を増して蠢くように展示物のワンピースからはみ出た肩がうねり、力強くデッキブラシを押し出し、それが前足を運んでゆく。

杏の眼は白く濁っていた。

どこも何も写していない。

強いて言えば、遥か遠い故郷の日本のあの場所ではないだろうか………。

後続のモデルは何事もなかったかのように展示物のプレタポルテを身につけてランウェイを歩いている。

デッキブラシの昆虫だけが異様に進む速度が遅かった。

後続のモデル何人かに追い抜かされ、花道を一周した後舞台中央部で杏はデッキブラシと共に倒れた。

「ブラボー!」

歓声と拍手、フラッシュが響き渡る。

皆口々にあの日本人モデルは誰だと会場のスタッフは言い、スタンディングオベーションになった。


「早くキョウを運んで!はやく」


粧が現地語でスタッフに指示すると4、5人の現地のスタッフが身体の薄い汚れまみれの杏を舞台奥から運び出し、ストレッチャーに乗せた。

杏は今度は口から血液を吐いた。


粧はとても後悔していた。

杏が医務室に運び込まれた時点でこのショーに出演させることを自分の権限でストップできたのではないかということを。

海棚という良心ののかけらもない男と関係を持ってしまったことを。

そして今、モデル指導として力のない自分に。


「杏!ショーは終わったわよ」


「わたしがついていながらこんなことに………」


「杏!」


救急車を呼ぶよう指示した後、杏に呼びかける。

減衰してゆく心音。


「きょう………」


気がつくとこの巨大なランウェイという水槽の中で泳ぎ疲れた魚が、45度の水面で浮いていた。


END

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45℃の止まれない魚たちspecialedition つきがさ あまね ばゆこ @tsukigasa06

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