青の隙間

とかげくん

第1話 





 もうすぐ、夏が近づく。


 季節の変化とともに、身体の奥底に沈められたひとつの生命の部分が、ゆっくりと昇っていく。泳ぎを覚えだした子供のように、真剣勝負で少々冷静。なにも騒ぐことはない。誰にも気付かれることなく、静かに胸の内まで浮上することは、たやすかった。


 しかしそれは、身体の持ち主にとっては残酷なことかもしれない。一つの人格から派生した別人格の存在を知ることは、心身に厳しさを与えることは簡単に予測できた。胸元から脳裏までの道のりは、散々だった。荒れた海に押し寄せる波しぶきのような体内の構造に辟易しながら、なんとか脳内にたどりついた。そこには静かな部屋が用意されていた。


 まるで映画館のような巨大なスクリーンに映しだされる世界には、少しだけ身に覚えがあった。体を縮めて座り込むと、コマ送りされる外界を、長いあいだ、じっと見つめていた。

 




それから約十五年以上の時が流れた。


 俺は、自分がこの肉体に宿った理由は、彼女の防衛本能の一部ではないのか、としばらく考えていた。しかし、自分には、どうしようもない感情、消せない思いがある。そして、抑えきれない衝動も持ち合わせている。彼女の人生に共感するよりも、まず自分自身を理解するように努めなければならない、と思案していた矢先だった。



 二十四年間、日常はずっと彼女のものだった。


 しかし、俺が目覚めた雨の降る朝、彼女は入れ代わりに肉体に留まった。決して表面にでることがなかった俺は割と冷静に、起きてから紅茶をいれた。気まぐれに窓を叩く夏前の雨は彼女を眠らせ、代わりに俺を現実世界に呼び覚ました。彼女は俺の存在に気付いていたか定かではないが、しばらく表面に現れない、という強気な声が遠くから届いた。いま、彼女が安心して精神の中にいることが俺には分かる。あの静かな部屋で時間を過ごしていることが想像できた。現世を諦めたわけではないだろう。きっと現在彼女にとって、休息が必要な時なのだ。俺はトーストを焼き、簡単な朝食を済ませて、やらねばならない雑務に取り掛かった。


 まず最初に、携帯電話を確認して彼女に代わって、数名に返信をした。食事の誘いがあった友人には、体調がすぐれないことを理由に断りのメールを入れる。しかし、困ったことに彼女には恋人がいた。俺は頭の内界で、二人の会話を聞いていることもあったが、身体が触れ合う時には、スクリーンの反対側を向いて、意識を逸らすように努めた。


 どう対応するか考えあぐねたが、直接会って事情を話さなければならないと思った。もしも別れることになっても、現状を考えれば、俺にはどうすることもできない。恋人の山下和志に、近々会いたいとメールをして、鉛を少し吸い込んだような苦々しい気持ちを振り払うかのようにシャワーを浴びた。肉体は女性だが、見慣れた彼女の身体には何も興奮しない。ただ、鏡越しで見ていたその身体は、思っていたより背が低く華奢で、ずいぶん幼くみえた。

 








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青の隙間 とかげくん @fool727

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ