第59話


〜・〜


現在 幸架side




ドクン、ドクンと鼓動が聞こえる。

目の前の景色が色をなくし、モノクロの世界に見える。



さらに、全てのものがぐにゃりと歪み、平衡感覚が狂いそうなほどの異様な世界。





実際そんな場所にはいないだろうし、ただ真っ直ぐ歩いているだけなのだろう。



でも、今いる場所がそういう場所に見えるのだ。












苦しい。




苦しい、苦しい。








痛い。



胸が痛い。










息ができない。













途端に殺人衝動に駆られる。


とっさに裏路地に入り、しゃがみこんだ。





自分の左腕を思いっきり噛む。

しかしそれは最早噛むと言うより、噛みちぎるという表現の方が正しい。



まるで身喰いでもしているように何度も何度も繰り返す。






痛みで衝動を押さえつけたところで、グッタリと壁に寄りかかり、空を仰ぐ。




ビルとビルの間の、細くて小さく、遠い空。










璃久は、どこまで逃げられたのだろうか。


今は何日目だ?


あとどのくらい理性を残していられる?









「………っ、……璃久、さん…」












いとしくて、愛しくて。


愛おしくてたまらない。





ずっと自分の元に囲ってしまいたくて、誰の目にもさらしたくなくて、誰にも触れさせたくなくて。



彼女の全てになりたい。

それができないなら、彼女の全てが欲しい。












グッと迫り来る衝動を必死に耐えた。












璃久の全てが欲しい。

心も、体も、それだけじゃなく、彼女の持つ全てがほしい。




でもそんなことをするわけにはいかない。

だから、必死に耐えて来た。



"献身"によって、この衝動を押さえつけて来た。










でも、今の私には"献身"はないのだ。


取引で渡してしまったから。













自分が怖かった。


人間としておかしいことも早々に気づいていたし、理解していた。





だから、"人間である"努力をしてきた。










少し衝動が抑えられたところで、ポケットから包帯を取り出し、腕を止血した。



口元についた血を袖で拭い、立ち上がる。







ふらりと通りに戻り、歩き出す。











どこか、この身を拘束できる場所はないのだろうか。


頑丈な場所がいい。





鉄格子や防寒ガラスでは、簡単に壊せてしまうから。










ふらりふらりと歩く私を、道行く人々が見て見ないふりをする。


存在するのに、あたかもここには存在していないと否定するように視線を晒される。









はぁ、はぁと息が上がる。



必死に思考を続け、理性を保つ。





何でもいい。

考え続けるんだ。



思考が止まれば、その瞬間にこの衝動に飲まれる。







必死で動かしていた足が、ガクリと崩れる。


遠のく理性と、心。





ふと苦笑が漏れた。


愛する人を失って、生きる意味も見失って、それでも死ねない体で。

湊は、弟は、どうやってこの衝動に耐えていたのだろうか。



こんなどうにもならない衝動を、よく2年も耐えきったものだ。


多少抑えられなかったようではあるが、湊は殺す人間を選んでいた。






でも俺にはそんな余裕はない。










俺に比べれば、湊は理性的な人だった。












苦しい。

つらい。


痛い。








会いたい。

















ホシイ…。
















ゼンブ、ホシイ…。


















璃久が、…













ホシイ









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