第五章 12 匿名の通報

 病棟から出ると、真帆は、研究棟に向かった。


 研究棟の自動ドアに差し掛かった時、呼び止められた。振り向くと、穴瀬と中年男性が立っていた。


 真帆は、「やはり、来たね」と、心の中で呟いた。バッグの中には、仮説を書き綴った便箋を忍ばせている。


 北風の冷たい日だった。


 真帆は、「研究室で、お話を伺います」と言って、穴瀬たちに研究棟へ入るよう促した。


 前回と同様、中年男性は、エレベーター・ホールに留まった。


 真帆の研究室に入ると、穴瀬が先に口を開いた。


「先週の月曜日にお会いしてから、随分とお痩せになりましたね。何か、ありましたか?」


 穴瀬の口調は、真帆の体調を気遣っていた。穴瀬の態度から、真帆が岸田家の防音室にいた事実は、知らないと思えた。


 岸田が話した通りだった。真帆を預かるように頼んだ人物は、警察では、ない。そう思うと、真帆は愛想笑いを浮かべた。


「先日、海外の断食療法の事例を読みましてね。断食で糖尿病が治った例があったのです。Ⅰ型糖尿病も治るかな? と試してみたのです」と、真帆は、お茶を濁した。


 首を傾げると、穴瀬は訝し気に真帆の顔を見ながら言った。


「糖尿病患者からインスリン注射を取り上げると、犯罪になります。監禁とかじゃ、ないですよね?」


 穴瀬の指摘は、鋭い。真帆は、躊躇することなく説明する。


「医師の監修の下、医療施設に入っておこなったので、大丈夫ですよ。体重と一緒に、身体から毒素が抜けて、元気になりましたよ」


 真帆は、穴瀬の挙動を見守った。真帆の発言は、嘘ではない。岸田は医師であり、岸田小児科医院も医療施設だ。


 真帆は今朝、車の中で岸田に質問をしたことを思い出した。もし、土日に一人で行動をしていたら、危ない目に遭ったのか、と。岸田は意味深に笑っていたが、実際はどうなのだろうか?


 穴瀬も、岸田とは別の角度から真帆の監禁を勘繰っている。


 真帆は、穴瀬の顔を見ると、質問した。


「どうして、私が監禁されたと思うのですか」


 逡巡した後、穴瀬がゆっくりと口を開いた。


「事情聴取に行った先で、先週から会えず仕舞いの方々がいましてね。男女一名ずつなのですが。その上、岩園さんもこの土日、お留守でしたよね。それで、もしや? と思った訳ですよ」


 穴瀬が悪戯っぽい笑みを浮かべると、「ご無事で何よりです」と、付け加えた。


 遠回しだが、穴瀬は真帆にヒントを与えていた。穴瀬が「会えず仕舞い」と言っている男女は、佳乃と笹川だ。姿を眩ましたのか?


 関係者ということなら、内科医の岡倉も湖香と面識があった。今は、台湾にいる。穴瀬の言う男のほうは、岡倉を意味しているのか?


 しかし真帆には、佳乃と笹川が、逃亡劇に出たと思えた。


 真帆は我に返ると、バッグから便箋を取り出し、穴瀬に渡した。


「手書きで読み難いと思いますが。断食療法中に書いた仮説です」


 便箋を受け取ると、穴瀬は瞬時に目を通した。


「この筆跡は、やはり岩園さんだったのですね」


 穴瀬には、予知能力でもあるのか? 真帆は、穴瀬の発言を訝しんだ。穴瀬は、小さく頷きながら「裏もあるんですね」と一枚の紙を裏返している。


 便箋の裏面を見ると、穴瀬が喜びの表情を浮かべた。真帆が今朝、明石の魚棚を思い返して、追記した文面だ。


「重要書類として、お預かりします」と、穴瀬は再び、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


すると、

「この文書、何処かで落とされましたか?」と、訊ねて来る。


 さて? 真帆は、記憶を辿った。今朝、岸田家の防音室で目覚めた時。真帆は、ライティング・ビューローに突っ伏して眠っていた。


 夜中に穴瀬宛に書いていた便箋は、床に舞い落ちていた。


 真帆は、ハッとした。「今朝がた……!」と、声を上げた。


「思い出されたようですね。ご協力、ありがとうございました」

 と言うと、穴瀬は意味深な笑みを浮かべながら、立ち去った。


 真帆は、深い睡眠に入ると、揺り動かされても起きない体質だ。前夫である岸田は、真帆の性質を知っている。真帆の様子を見に来た岸田は、床に落ちた便箋の内容を読んだのだ。


 写メに撮って、通報したのだと思われる。


――匿名で通報したのだろうか?


 岸田らしい謙虚な姿勢だと思い、真帆は、ひとり笑みを浮かべた。

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