第四章 07 四半世紀前の噂話

 なだらかな坂道を進むと、御影ラファエル病院の敷地が見えた。


 病棟の周りには、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。植え込みの椿が、可憐な赤い花を咲かせている。


 真帆は裏門から入ると、庭園内を見ながら正面玄関まで歩いた。


 病棟内に入ると、三階のナース・ステーションに寄った。倫子の病室は、個室から二人部屋に変っていた。倫子の容態が、快方に向かっているのだろう。


 倫子の病室のドアは、開いていた。遠目に真帆の姿が見えたのだろう。倫子が、横になったまま手を振っていた。


 一礼すると、真帆は、室内に入った。


 倫子の同室者は、気持ちよさそうに寝息を立てていた。内緒話をするには、都合が良い。


 真帆が丸椅子に座るのを見届けると、倫子が口を開く。


「お隣の方ね、耳が遠いから。気にしなくていいわよ。呼び立てて、ごめんなさいね」


「二人部屋に移ったので、容態が良くなったのですね?」


 倫子は、口をへの字にして、おどけてみせた。


「逆なのよ。入院は、一ヶ月半に延びたわ。昨日、誰かに呼ばれたような気がしてね。骨折した事実を忘れて、大きく身体の向きを変えてしまったの。激痛が走ってね~」


 悪戯っぽい笑みを浮かべると、倫子は昨日の状況を説明した。


 レントゲン室に運ばれた倫子は、医師から説明を受けた。


 脊椎に異常は、なかった。だが、左右の小さな外れていた骨の一部が移動し、小腸を圧迫していた。手術の必要はないが、一ヶ月半の経過観察が必要となった。


 倫子は、他人事ひとごとのように涼しい顔をして語っている。今は、痛み止めが効いているそうだ。


 真帆は、倫子の話を聞きながら、さらに不信感が強まった。何者かが、倫子を狙っている。


「部屋を移動したのは、ナース・ステーションに近いからですか?」


 倫子が布団の中で、肩を竦めながら答える。


「それもあるわね。他人様がいると、入りにくいでしょう。何となくだけどね。私が口を割るのを、恐れている人がいると思うの。でも、そろそろ善悪をハッキリさせる時が、来たようね」


 倫子の話は、抽象的だった。だが、真帆には、佳乃の過去だと察しが付いた。倫子は、身の上が危険だと承知している。


 真帆は、倫子が話しやすいように、前屈みになった。


「お話の続きがあると、仰っていましたね?」


「今日は、男子校のお話よ。教師時代の元同僚からの噂話。それも四半世紀前のね。その時の私は、もう高校教師を辞めていたけどね」


 おどけた口調だが、倫子の眼差しは、真剣だった。


 倫子が勤務していたカトリック系の女子校は、隣に同じ系列の男子校があった。両校の教師を務める者もいた。倫子の元同僚は、男子校でも古文を教えていたのだ。


 男子校の保健室では、週に一度、学校医が駐在していた。応急処置用に、点滴スタンドも完備されていた。だが、点滴を必要とする容態の場合、近隣の病院へ行く。そのため、点滴スタンドは、使用された例は、なかった。


 構内のカトリック教会では、毎週日曜日に礼拝が行われていた。生徒が参加する礼拝ではなく、近隣の信者が参加する礼拝だ。そのため、学校の門は開かれていた。


 ある日曜日、男子中学生が三名、構内に忍び込んでいた。私服のため、礼拝客と見分けが付かない。日曜日なので、教職員は登校していなかった。


 その日の夕方、二名の男子生徒が保健室で補導された。一名は、瀕死の状態で病院に運ばれ、もう一名は、後に少年院に送致された。


 構内に忍び込んだのは、三名だった。そのうちの一人が保健室から逃げ出し、交番に飛び込んだ。


 主犯格の少年は、点滴スタンドを使って、人体実験を行っていた。


 少年の父親が裕福だったため、マスコミには報道されなかった。日曜日の事件のため、他の生徒にも知られることはなかった。


 少年の父親は、学校側に多額の寄付金を贈ったので、学校側も名誉が保たれたようだ。


 教職員には、他言禁止で、事実が伝えられた。少年の父親の権力が恐ろしく、話題にする者も、いなかったという。


 倫子は語り終えると、水を求めた。真帆は、ベッド脇のテーブルから《吸い口》を取り、倫子の口元に近付けた。


 隣のベッドの老女は、まだ寝息を立てていた。


 真帆は内心、倫子の話を聞いて、偶然の一致に驚いていた。木曜日に聞いた、法務教官の事例内容と類似している。


 臨床心理士の小松の話では、少年は、医学部に進学している。実際は、どうなのだろうか? 真帆は、敢(あ)えて質問をした。


「少年のその後は、判っているのですか?」


 倫子は、残念そうに首を横に振った。


「お話は、これで終わりよ。その少年が、どうなったのか。男子校の関係者たちも知らないわ。でもね」


 言葉を切ると、倫子が真帆の眼を見詰めた。


「私の憶測だけどね。あの時の、男の子のような気がするのよ」


「何か、思い当たる事実が、ありましたか?」


「長年の教員生活でね。何となく、若い子の心理が解るのよ。少年は、わざと事件を起こして、自分の存在価値を誰かにアピールしたかったと思うの。きっと、中学生になって、育ての親に、事実を知らされたんじゃないかしら」


 真帆は、木曜日に少年院で聞いた事例を、倫子には伝えなかった。


 今の倫子には、刺激が強いと思えた。


 物事が解決に向かう時。信じ難い偶然の一致が、しばしば起こる。


 木曜日の事例と、倫子の話は、別案件の可能性もある。だが、真帆は、偶然の一致だと確信した。

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