ハイポグリセミア
久遠 三輪
序章 虚無の匂い
早朝から降り始めた雪は、午前十時過ぎには、薄っすらと積もり始めていた。
教会の門を潜る前に、真帆は坂道を振り返った。晴れていれば、遠目に六甲山脈が見える。だが、濃い霧に包まれていた。
――本当は、湖香に何が起こったのだろう?
霧に覆われた六甲山脈は、湖香の無念さを象徴しているようだ。
真帆は、重い足取りで、教会の中へと進んだ。教会の祭壇には、中央に湖香の遺影が飾られている。自信に満ちた、利発そうな笑みを湛えている。祭壇は、白い百合の花で埋め尽くされていた。
十一時の鐘が鳴ると、参列者が着席した。司祭が入場して、
厳かな讃美歌が聴こえる中、真帆は、そっと辺りを見渡した。
佳乃は、真帆が学生のころ、准教授として
真帆も佳乃が担当する授業を受けた。現在の佳乃は、母校の
――佳乃先生と湖香は、まだ交流があったのかな?
真帆は、何故か、佳乃の存在に不吉なものを感じた。真帆は葬儀の間中、佳乃の様子を観察していた。
葬儀は、死者との別れの儀に入る。焼香はなく、参列者に一輪ずつ白い百合が手渡された。
柩の中の湖香は、白衣を着ていた。管理栄養士らしい最期だ。真帆は、湖香の顔の近くに百合を添えた。不思議と、涙は出ない。
教会の外に出ると、手入れの行き届いたイギリス庭園に、雪が積もっていた。
教会の前に参列者が集まり、出入り口を見詰めている。
やがて、司祭と聖歌隊が出てきて、左右に分かれて配置に着いた。
続いて、白い布に包まれた湖香の柩が運び出され、待機していた霊柩車の中へと消えて行った。
真帆は、てっきり火葬場に案内されると思っていた。だが、湖香の柩を乗せた霊柩車は、芦岡医大へ向かった。芦岡医大は、真帆の勤務先でもあった。
真帆は、咄嗟に佳乃の姿を目で追った。雪ではっきりとしないが、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
湖香の母親が視界に入る。人前では涙を見せず、毅然としていた。真帆は、そっと近づくと、声を掛けた。
「湖香さんの死因に、何か問題でもあったのですか? 蜘蛛膜下出血だったと聞きしましたが」
「芦岡医大から電話があってね。湖香が献体に登録していたのよ」
三十三歳の若さで、死を予感していたのか? 真帆は、顔を
「湖香さんは、頭痛持ちだったので、体調に不安があったのですね」
忙しそうに動き回る母親とは対照的に、湖香の父親は、ぼんやりと霊柩車が去った方角を見詰めていた。
真帆が辺りを見ると、湖香の勤務先の者と思われる参列者が、ひそひそ話をしている。
「これで三人目ですよね。うちの工場、ヤバくないですか?」
別の誰かが、囁く。
「四ヶ月前の主任の急逝は、メタボの合併症だと思いましたけど。二ヶ月前に亡くなった子は、まだ二十三歳の新入社員でしたよね」
「最初は意識障害で倒れて、病院に運ばれた後、ご臨終……。三人とも、パターンが同じような気がしますね」
「工場内の空気が悪いのかしら? 賞味期限間際の持ち帰りチョコに毒性があるとか?」
「もしかして、消費期限の偽装だったりして」
真帆が聞き耳を立てていると、中年女性と目が合った。
「ここで、社内の話は止めしょう。続きは、お茶の時に……」
真帆は、知らぬ振りをして、通り過ぎた。
湖香は、大手チョコレート・メーカー《ソコロフ》の研究室で、管理栄養士として勤務していた。研究室は、西宮浜の製造工場内にある。西宮浜は、真帆が管理栄養士として勤務する芦岡医大とも近かった。
真帆は、佳乃の姿を目で追う。湖香の両親に挨拶をしていた。
二十代後半ぐらいの女性が佳乃に近づき、「先生、タクシーが参りました」と、声を掛けている。佳乃の助手だろうか?
真帆は、振り返った佳乃と目が合った。佳乃は、一人でタクシーに乗り込むと、窓越しから、真帆に分かるよう、小さく手を挙げた。
佳乃は、五十代になるが、美貌はそのままだった。しかし、十二年前から孤独の影があった。虚無の匂いだ。
教会の中を見詰めると、遠目に湖香の遺影が見える。
白衣を着た、柩の中の遺体。聖歌隊の白いローブ、白い百合、雪が降り積もるイギリス庭園。スノー・ホワイト。
真帆には、この白い光景が、湖香からのメッセージだと思えた。
――湖香の遺体の解剖はいつになるだろう? その前に血液だけでも調べられれば……。
湖香の遺影に向かい、本当の死因を突き止めると約束をした。
帰路に就こうと、真帆は門に向かった。先ほど、佳乃に声を掛けていた女性と目が合った。切ない表情で、真帆の顔を見詰めている。何処かで会った気がするが、思い出せない。
真帆が会釈をすると、女性も会釈を返し、その場を去った。
教会の門を潜り、駅の方角へ歩を進めると、背後から、女性の声がした。
「岩園真帆さんですね」
真帆が振り返ると、警察手帳を持った女性が笑顔で立っていた。
「上浦湖香さんが亡くなった日の晩ですが。上浦さんと、夕食のお約束をされていましたよね?」
真帆が頷いて警察手帳を見ると、警部補、
「警察が動くのは、殺人の可能性があるからでしょうか?」
穴瀬は、ニヤリとした笑みを零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます