第6話 織原一⑥

 外に出た瞬間、真夏の強い日差しが肌に突き刺さった。太陽の光がアスファルトに照り返して、空気がゆらゆらと揺れている。まるでオーブンの中に体を放り込まれたようだ。風はほとんどなく、湿度も高いせいで、今にも汗が噴き出しそうだ。部屋は冷房が効いていたので気付かなかったが、これは尋常じゃない暑さだ。正直こんな日は家から一歩も出ずに一日中のんびりと過ごしたいものだが、残念ながら今はそうもいかない。

 さっき決意を新たにして、気を引き締めたつもりだったのに、あまりの暑さに早くも心が折れそうになる。

 それに、これは環さんの体質の問題なのか、いつもより気温に敏感になっている気がする。男と女では体温調節機能や皮膚の感覚に違いがあって、同じ気温でも感じ方が違う。なんて言ってたのを昔テレビで見た気がするが、それがこの眩暈のする暑さの原因なのかもしれない。

 そんな埒が明かないことを考えながら、重い足を引きずる。


「暑すぎる…」


 それにしても暑い。暑すぎる。思わずつぶやいたその声が、いつもの自分の声ではないことにまだ違和感がある。いや、まだ起きてから二時間しか経っていないのだ。そんなに簡単にこの奇妙な状況に慣れるほうがおかしいのだが。

 それにこれは僕の体じゃない。環さんの体なんだ。今は一時的に何らかのトラブルでこんなことになっているだけで、いずれ元通りになる。慣れるなんてもってのほかだ。それまで僕が心掛けなければならないことは、ほかの人に体が入れ替わっていることがばれないようにすること、それと環さんの体を極力丁寧に扱うことだ。

僕にとってこれは、非常にデリケートな問題だ。体を扱うというのは少々表現があれだが、要はほかの人はもちろん、僕自身もこの体になるべく触らないようにするということだ。

時としてやむを得ずそんな状況になったとしても、なるべく最善は尽くすつもりだ。

 環さんからしたら、自分の体の所有権を男に奪われている状況なのだ。法的にどうなのかはわからないが、セクハラだと言われても仕方のないことだろう。

 考えても考えても、そんな心配が頭をよぎる。



 僕が住んでいる町、神尾市は人口約6万人の田舎町で、市域全体が山に囲まれた地形で、戦国時代には有名な武将の領地だったらしい。その名残で、城跡を中心として市街地が広がっている。山に囲まれた地形を活かして、現在は果樹栽培が盛んなようだ。まあ、どこの県にもある、典型的なザ・田舎町だ。

 大学生にとっての娯楽施設といえばカラオケかパチンコしかないような、つまらない場所だ。

 僕が通っている大学は、その田舎町のさらに山の上に位置している。そんな大学にわざわざ県外から入学してくるのは、大の自然好きか、相当田舎に憧れのある者しかいないだろう。

 しかし僕はというとそのどちらでもなく、ただ単に実家から遠くて受かりそう、というだけで選んだ、この町よりもつまらない男なのだ。

 実家は政令指定都市のひとつに指定されている地方都市で、こことは比べられないような都会だった。ぼくは都会が嫌いじゃなかったし、高校で仲の良かった友達の多くも県内の大学に進学していったので、できることならこんな田舎には行きたくなかったが、そんな悩みをすべて取り払うくらい、実家から出たかった。

 とにかく親が嫌いだったのだ。物心がついてからこれまで、生きてきて親を好きだと思ったことが一度もない。僕の家庭は典型的な亭主関白で、父親が絶対神だった。父親には誰も逆らえず、ときには暴力も振るわれた。「これはお前のためにやっているんだ」そんなことを何度言われただろう。

 僕には思春期がなかった。もちろん身体的な変化はあったが、一般的な子供があるような反抗期というものは全くなかった。反抗なんて、できなかったのだ。そんなことをしたら、どうなるかはわかっていたから。 

 それでも親には感謝している。父親はひどい人だが、会社の社長だったので僕の家庭は裕福だったし、中学から有名な進学校に進学して、そのままエスカレーター式に高校にも入学できた。大学進学の資金もすべて親が出してくれた。少なくともそのことだけには感謝している。

 大学は絶対に県外に行こうと決めていた。県外へ行けば、一人暮らしをしなければならない。必然的に、実家から出ることができる。親には、ここで学びたいことがあるんだと嘘をつき、興味もない大学へ入学した。その結果が今だ。大学では気の合う人と出会えずに今まで友達ゼロ人、地元の友達とオンラインでゲームをする毎日。

 大学二年になってバイトもしておらず、ほとんどニートのような生活をしている。自分はこれからどうするんだろう、ちゃんと社会人になれるのだろうか、そんなことを毎日なる前に考えながら、何も行動に起こさない自分に嫌悪感を抱いていた。

 そんな時に、こんなことが起こって、パニックになりながらも僕は、少しの高揚感を覚えたのだ。何の面白みもない日々に、突然衝撃が走ったようだった。。これはチャンスなのかもしれない。これからの自分を変える――――。



 神尾駅までの道は、家から徒歩15分ほどで、途中でこの商店街を通るのが最短ルートだ。かつては活気あふれていたであろう商店のシャッターは、ほとんどが降りており、なんだか寂しい雰囲気を漂わせていた。通りを歩いているのは、数人の高齢者の人だけだ。その光景が、寂しさをさらに増加させていた。

 駅までの道中、何度も足を止めてあたりを見回した。普段は気にも留めない光景が、環さんの体を通してだとなんだか新鮮に見えた。

寄り道をしたせいで少し遅くなったが待ち合わせ場所の神尾駅に着いた。とはいえまだ予定の時間まで5分ほどある。遥香さんから叱責されたりはしないだろう。ベンチに座り、スマホを手に取ったところでハッと気づく。


「遥香さんの見た目知らないじゃん、僕…」


いろんなことに頭を働かせていたせいで、重要なことを忘れていた。そうだ、僕には誰が遥香さんなのか分からないんだ。もしかしたら

彼女ももう駅についているかもしれないのに、これでは合流することができない。

今から電話して、「あんたってどんな顔だっけ?」なんてきいたら100パーセント怪しまれる。まずい、どうしよう。ここで待って彼女がこっちを見つけてくれるのは待つか…

そう考えたところに、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。振り返ってみると、こちらに向かって手を振りながら走ってくる女性の姿。髪は肩くらいのおかっぱ(おそらくボブ)で、服装はお腹の部分が出たTシャツにとても短いデニムを履いている。ファッションには疎いのでわからないが、とにかく肌面積の多い、いかにも活発な感じだ。

あれが遥香さんだろうか。とても明るそうな元気そうな、端的に言えば陽キャって感じだ。今から彼女の前で、環さんを演じながらうまく話さないといけないと思うと、陰鬱な気分になってくる。どうかばれませんように、そう願いながら僕は、何とか笑顔を作りながら彼女に手を振り返すのだった。


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