第4話 色彩と感情
「え、さすがに悪いですそんな……!」
最後の会計時、どう分けて支払おうかと考えていた笑美の横で、クレジットカードでまとめて全部払ってしまったセレナに少女は慌てていた。
「返させてください! 10ポンドでしたっけ……」
「いいの。奢らせて」
ゴソゴソと鞄をあさっていた彼女に、セレナはきっぱりと言葉を放った。
「私会社で働いているんだよ? 学生に払わせるわけないじゃない」
「でも……」
「いいから! 私だってイギリス行ったとき、三年生の先輩に奢られたんだよ。今度は私の番。お金はもっと大事な時に使って」
セレナは笑美の肩に手をおいて、そう諭した。彼女のまっすぐな目は、少女が何を言おうとも彼女に払わせる気はないという意志が伺えた。
申し訳なさでいっぱいの笑美だったが、歩みは止めずそのまま地下鉄に入る。来た電車はさっきと同じように熱風が吹き荒れていた。
「あつ……」
セレナは車内の環境に、わずかに顔をしかめた。笑美も頷き、ぽつりと疑問を漏らす。
「なんでこんな暑いんだろう……」
「やっぱり古いからじゃない?」
ロンドンの地下鉄は世界最古だったはずだ。この狭い空間も異様な暑さも仕方がないことなのかもしれない。
着いたのはチャリング・クロスという駅だった。ナショナル・ギャラリーはその駅のすぐ近くにあった。
「わあ、大きいなー……」
古きローマの神殿のようなデザインをした美術館を見た笑美は、思わず呟いた。ナショナル・ギャラリーの前の広場も大きく、人々が階段に座って賑やかに話していた。
少し離れたところにはライオンの像が乗った土台、そしてその土台の上の柱のてっぺんの部分に、片腕のない、軍服を着た男の像が立っていた。
笑美はその像に見覚えがあった。世界史の教科書に載っていたのだ。男はナポレオンのフランス海軍と戦い、大勝利を収めたイギリスの軍人至上最大の英雄も一人だ。
「ネルソン提督だ……」
世界史の教科書に載っている広場に、実際に今自分がいることを認識した笑美は、尊敬の眼差しで像を見上げた。セレナも静かにたたずむ石の男を見ていたが、突然口を開いた。
「あのライオンの像には乗らないでちょうだいね」
「え?」
下の土台には確かにライオンの像があり、「上に乗らないでください」と書いてある看板がかかっていた。
「前来たときは乗ろうとしてたお馬鹿さんがいたから」
ふっとセレナは呆れとおかしさが混じった笑みを浮かべた。そのまま彼女はナショナル・ギャラリーのほうに歩き出したが、その話を聞いた笑美は「なんでそんな馬鹿なことを……?」と思わずにはいられなかった。
そのまま二人は荷物検査を経て、美術館に足を踏み入れる。建物の中は外以上に美しく、世界の有名な絵画を飾るにはぴったりな場所となっていた。
黒い石でできた柱が金と白の丸い高い天井を支え、周りの壁はよく熟れたリンゴのように赤かった。多すぎない数の絵画はその壁に、それぞれ唯一のデザインを持つ額縁に静かに収まっている。
「……」
笑美がまず見たのは大きな、死を匂わせる絵だった。
「レディ・ジェーン・グレイの処刑」
それが絵の題名であった。メアリー1世によって16歳で処刑されることになってしまった若い女王、ジェーン・グレイが白い目隠しをつけ、白いドレスを着た状態で真ん中に描かれていた。それから彼女の手を処刑台へと導く男がいて、そのそばに斧を持った処刑執行人が立っている。奥には絶望した侍女たちが、それぞれの深い嘆きを表していた。
笑美はこの絵を以前にも写真で見たことがあったが、実際そのほの暗い絵の前に立つと、どこか首を冷たい指で触られたような不気味な感覚を覚えた。
セレナもどこか神妙な表情でしばらくその絵を見ていたが、人が多かったせいか、それとも以前もその絵を見たことがあったからか、あまり時間をかけず次の部屋に進んだ。
ナショナル・ギャラリーにはモネなどの印象派の画家たちによる絵が多くあった。自分の持った「印象」のままに自由に描いた鮮やかな作品は、美術館の空気をより明るくする。
「私印象派の絵が好きなんだよね」
セレナは池の上に映る桃色の夕焼けが描かれたモネの絵、「Water-Lilies, Setting Sun」を見ながらふと呟いた。
「光みたいだもの。なんだかこっちもいつのまにか雰囲気に呑まれて、気分が明るくなってくる気がするんだ。確か『科学が発展して鮮やかな絵具ができたからこそ、誕生できた芸術運動』なんだっけ」
へぇ、と彼女の知識に感心しながら、笑美は目線を作品のほうに戻した。
印象派の絵を過ぎると今度は宗教画が並んだ。笑美はキリスト教についてはあまり知らず、描かれた人物たちがいったいどんな人であるかまったくわからなかったが、無知が芸術の美しさを劣らせることはなかった。
「キリスト教って綺麗だよね」
またセレナが口を開いた。
「マイナスに捉えられることが多いし、過去にやらかしたこともいっぱいあるけれど、その音楽、絵画、彫刻というのは本当に美しいって感じる。長年積もったその芸術が人々の生活や考えを織りなしているって考えると、ただの『宗教』って片づけてしまうには惜しいと思うんだ。それよりも文化とか人々の
「うん、そうかも……」
笑美は今まで外国人に宗教アイデンティティを聞かれたときの戸惑いを思い出しながら返した。
仏教も神道も、笑美にとってどちらもいつも当たり前にあるものだった。宗教というよりも懐かしい匂いのする空気だった。
一通り絵を見終わったのは二時間後だった。もう夕方になっていたので、二人は夕飯を食べることにする。
「イタリアンでもいい? イギリスに来てイタリア料理を食べるなんて、ちょっと変な感じがするけど」
「ううん、全然! スパゲッティ好きだよ」
笑美の言葉に安心したセレナは、ふたたびスマホの地図アプリを使って目的地までたどり着いた。レストランはなかなかおしゃれなものだった。
店の主はイタリア訛りの英語で案内したが、セレナは世間話の延長線上で少しだけ彼とイタリア語で会話した。
「セレナさん、イタリア人のハーフだったの?!」
巧みな英語からてっきりイギリス人のハーフだと思い込んでいた笑美は、びっくりして思わず声を上げた。
「ううん、違うよ。イタリア語はスペイン語勉強しているときに、並行して覚えただけ。いろいろ似ているから、学びやすかったんだよね。まあちょっとしか話せないんだけど」
「すごい言語能力……」
「そこまで難しくないよ。まあ、お母さんがヨーロッパ人だったからヨーロッパ言語に慣れていたっていうのはあったけど」
「え、お母さん、どこの国なの?」
笑美がそう尋ねた瞬間、セレナの顔から微笑が消えた。周りの空気の温度がガクンと下がった。彼女の優しいはずのトパーズの目は氷のように冷たく、唇は固く結ばれた。少女は自分がセレナの「地雷」を踏んでしまったことを理解し、恐ろしさに震える。あの「処刑の絵」を見たときと同じ感覚がよみがえった気がした。
沈黙がしばらく流れてから、ようやくセレナは答えた。
「今はもうない国だよ」
曖昧な答えだったが、笑美にこれ以上聞く勇気はなかった。それ以来、セレナは二度とアイデンティティ関連の話をしなかった。
空気は美味しそうなパスタがやってきたときに、ようやく和んだ。
セレナの前にはシンプルなトマトパスタの「パスタ・アル・ポモドーロ」を、笑美の前にはバジルの効いた「ジェノベーゼパスタ」が置かれた。
「イタリア行ったことある?」
セレナはくるくるとフォークだけでパスタを器用にまきながら尋ねる。
「ないよ。ずっと行きたいとは思ってるけど……」
「私も。学生時代に行けばよかったって思うけど、お金がなかったのよね。でも社会人になると今度は時間がない。ほんと、最悪」
ぷくっと不貞腐れたように、彼女は頬を膨らませた。
「まあ、でも親に借金するとかでなんとかなるんだとしたら、絶対学生のうちに行ったほうがいいと思うよ」
「そうだけど、うーん……学生だけで海外旅行ってやっぱり危険な気がする……ヒースローでもやらかしちゃったし……」
セレナは首を傾げて、自信なさげに呟いた笑美を見つめた。
「何を言ってるの、笑美ちゃん。あなた一人旅で十分うまくやってるじゃない。ヒースローでの失敗なんて、誰だってやるものよ。英語だってペラペラだし。もっと自信持って」
彼女の茶色と緑色が混じった瞳は、笑美を励ますようにきらっと輝いた。褒められるのに慣れていなかった笑美は少し照れ臭く感じるも、同時に嬉しさを覚えた。
その後の会計でまた笑美はセレナに奢られた。
「だからー、これは付き合ってくれたお礼! 申し訳なく思わなくていいんだから」
「付き合ってくれたのはセレナさんのほうだよ!」
笑美は小さなため息をついたが、それからすぐにセレナをまっすぐ見つめた。
「でも、本当にありがとうございました。今日、とても楽しかったです」
「ううん、こちらこそね」
セレナは首を振る。彼女の首にかかっていたネックレスが、光によってきらっと光った。
二人は地下鉄で別れることとなった。
「ではまた……、ありがとうございました!」
「こっちもありがとう。また会ったらよろしくね」
「うん!」
会えたらいいな、と笑美も願うが、さすがにそんな都合のいいことは起きないだろうと思う。だが不思議と、海外では普段はあり得ないことが起こってしまうのだ。
次の日、笑美はふたたびセレナに助けられることになる。
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