ティータイムに勿忘草を
西澤杏奈
一日目
第1話 出会い
「ああ……」
20歳になったばかりの女子大学生、皆川笑美は絶望の声を漏らした。ここは日本ではない。時差が9時間(サマータイムだったので8時間だったが)ある島国、イギリスに彼女はいたのである。
ただでさえ慣れない海外なのに、日本の優しい警備員たちとは違って怖い態度でせまってきたヒースロー空港の職員らに、笑美はもう精神が大幅に削られていた。
なんとか入国手続きを完了し、スーツケースが流れてくるのを他の人と待っていたのだが、いつまでたっても来る気配はない。
もしかしてなにか不備でもあったのだろうか……。
ほかの乗客がいなくなり寂しくなった空間の中で、心細く鞄を握りながら笑美は不安に思った。周りでは重いスーツケースを大量に持った家族が、あちこち行ったり来たりしている。
「もうどうしよう……」
スタッフに言うべきだ。少女にはそうしなければいけないことがわかっていたが、さっき脅されてしまったので恐怖がずっしり体全体にのしかかっていた。
だが偶然にも彼女の漏らした言葉が、「言語の奇跡」を起こしてくれた。異国で自分と同じ言語を話す人がいると、どうも仲間意識が湧くし、大胆にもなるのだ。
「大丈夫ですか?」
ごちゃごちゃと周りに響く英語やその他の言語の中で、はっきりと日本語が耳に届いた。びっくりした笑美は、ハッとして顔を上げる。
顔を上げて目に入った人物は、とても日本人には見えない、ダークブラウンの緩くカールした髪と、緑と茶色が混じったトパーズのような目をもった、背の高い女性だった。服装は白いシャツにベージュ色のブレザー、クリーム色のスラックスで、とてもおしゃれだ。
それも併せてか、疲れ切った笑美にとって目の前の女性は救世主に見えた。
「大丈夫じゃないです……」
思わず少女は涙目でそう答える。
「スーツケース待っている感じですか?」
女性はかすかに首を傾げながら、はっきりとした口調でそう尋ねた。
「はい、そうなんです……でも来なくて……」
女性は少し思案していたが、目線をすぐに少女に戻した。
「ちょっと一回だけチケット見せてくれます?」
「え……あ、は、はい」
恐る恐る笑美は、大切に鞄の中にしまっていたチケットを彼女に手渡した。女は白い象牙のような指で紙を広げ、じっと文字を見つめた。
「ああ……」
口から小さな声が漏れた。
「ここたぶん違う場所だと思います」
「えっ……?!」
慌てて紙きれを取り、モニターと照合する。確かに便が違った。
「そんなっ……」
なんて恥ずかしいことをしてしまったのだろう。笑美はひどく落ち込んで、頭を抱えた。そんな彼女に対し、女は綺麗な微笑を浮かべる。
「もーやだ、最悪……。すみません、本当に」
「大丈夫、大丈夫。そんなことよくありますよ。海外は初めてですか?」
「いえ、家族と二回くらい行ってるんですけど……」
「まあまあ、それでもなかなか慣れないですよねー。とりあえず行きましょうか」
二人はすぐに歩き出した。柔らかい音を立てる笑美のスニーカーとは違い、女性のパンプスはコツコツと鋭く鳴る。
「あ、あった!」
笑美はぽつんと置いてあった自分のスーツケースを見つけて駆け出していった。くるっとまわして不備がないかを確認する。特に何もなさそうだった。
「大丈夫そうです!本当にありがとうございます!」
お世話になった彼女に、笑美は深々と頭をさげる。いえいえ、と相手は謙遜して首を振った。
「大学生ですか?」
顔を上げたときに彼女がふとしてきた質問に、笑美はぱちぱちと目を瞬かせた。
「はい、そうなんです」
「よろしければどこの大学か聞いても?」
笑美は眉をひそめた。だが別に名前や住所を教えるわけでもない。大学名くらいなら大丈夫だろう。
「一応、聖智大学なんですけども……」
「やっぱり」
女は少し目を輝かせてにっこりと笑った。
「その白鳩のマスコット、大学のでしょう? 私も通っていたからわかるの」
「え、そうなんですか?!」
海外で自分と同じ大学出身の人と出会えるなんて、運命であるとしか思えない。
「そう。2年前に卒業したけど、外国語学部に所属してて。あなたは?」
「国際法です!」
「あら、素敵。法学部はちょっと試験とか大変なイメージがあったなあ。今回は一人旅なの?」
「そうなんです、もともとはその予定じゃなかったんですけど……」
本当は友達と二人で行く予定だったのだが、その友達がひどい中耳炎にかかってしまい、行くことを断念したのだった。一人旅は危険であると笑美は理解していたのだが、イギリス旅行をずっと楽しみにしていたので無理やり決行することにしたのだ。
それに今回の旅には大事な目的がある。
女と笑美は歩き出した。出口に恐ろしそうな警備員が何人かいたが、今回は特になにも言われないまま通ることができた。
「さて、エクスプレスに乗るか」
「ヒースローエクスプレスですか? 私もそこに乗ります!」
「じゃあ一緒に行きましょ」
彼女はふたたびにこりと微笑んだ。日本人には見えない目の前の女だったが、その不自然のまったくない綺麗な日本語は優しく笑美の心に響き、温かい安心感を生み出した。
長ったらしいエレベーターや動く歩道を抜け、二人はやっと自動改札口にたどり着く。あらかじめ予約しておいたチケットのバーコードをかざすと、機械の扉はすぐに彼女たちを向かい入れた。
「はー、疲れたぁ」
特急に乗り込んだ笑美はすぐに席に座り、思わずため息をついた。女も彼女の向かい側にゆったりと座った。
「13時間ものフライトだもんねぇ。ほんと、イギリスって遠いな……」
そう言った彼女だったが、声にはどこか憂いが含まれていた。
「先輩も一人旅ですか?」
女はその問いに対し、三音で答えた。
「
「え?」
「
「は、はい……あ、うん」
女はそれから笑美が尋ねた質問に戻った。
「そう、私も一人旅なんだ。まともな友達がいないからね。そういえば名前、もしよければ教えてもらってもいい?」
「
「美しく笑うってことね。素敵」
ふわりとセレナは笑った。あまり名前を褒められたことがなかった笑美は、少し恥ずかしそうな顔をした。
遠く日本から離れた国、イギリスで、二人の日本人女性は自分の気持ちに決着をつけるための旅を始める。
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