第5話 記憶喪失

「ぼくには、この四月より前の記憶が、無いんだ」

 ぼくはあっけらかんと言ってみた。ぼくは、ぼくに対する残念そうな眼差しとか、居たたまれない面持ちとか、そういうものが苦手だから。


 だって今のぼくにとっては、今のぼくが一〇〇%のぼくで、何かを失ったなんて、思っちゃいない。可哀想に思われる謂れなんて、どこにもないのだ。

 そんなんだから、それは可哀想に、みたいな表情や言動をされると、ぼくは大変に困る。悲しいといえばそれは嘘だし、では悲しくないと言えば、今度は無理に元気に振る舞わなくてもいいんだよ、とこれまた更なる同情を買うはめになる。別に無理をしているんじゃない、と言ったところで聞き入れてもらえないので、そんな時ぼくは曖昧に笑うようにしている。そうして話は大体終わる。


 さあ、今回はどうだろうかと二人の様子を眺めていると、二人とも、不思議そうに首を傾げている。

「よく……分からない。凛音は普通に生活できているように見えるけど」

 ネリーが怪訝な顔で言った。ぼくは頷く。


「そうだね。日本語とか話し方、歩き方、呼吸の仕方、基本的な知識や生理的な機能については分かる。でも、ぼくが元々どんな人間だったか、どんな生活をしていたか、それは全く、もやがかかったみたいに思い出せないんだ。

 この学校に僕が通い出したのも、実を言うとほとんど四月からみたいなもので、一年生だった去年は、ほとんど入院していたから」


 長い期間入院していた、というのも伝聞でしかない。ぼくはある日、目が覚めたら病院に居た。それが、今のぼくのはじまりの記憶だ。

 ぼくは、ぼくが知る限りの情報を二人に話した。

 家族で事故に遭い、両親が死んでぼくだけが生き残ったこと。

 ぼくはその事故のせいで長い間、意識不明で入院していて、目が覚めたら記憶を失っていたこと。(ぼくが目を覚ました時には病室に耶衣子ちゃんが居て、耶衣子ちゃんという幼馴染の存在をそのとき初めて知った。ただ本人の前でその話をするのは耶衣子ちゃんが悲しむんじゃないかと思って、ぼくは耶衣子ちゃんとの出会いを黙っていた)

 母親の妹に当たるマユミ叔母さんがぼくを身受けしてくれて、ぼくは元々住んでいた家でマユミ叔母さんと一緒に暮らしていること。

 四月から学校に復帰して、一年生の教科書を行李先生から借り、一年生と二年生の内容を並行して勉強していること、そんなことをつらつらと、思いついたままに話していた。


「とまあ、こういうことなんだ。だから、ぼくはこの学校に関して言えば二人より一カ月ばかしの先輩で、あんまりお役には立てないかもしれない」


 二人はぼくが話し終わるのを、真剣な眼差しで黙って聞いてくれていた。話を終えると、ネリーがなんとか捻り出すといったように、口を開いた。

 それはぼくにとって、意外な言葉だった。


「……凛音は、辛くないの?」


 でも同時に、ぼくは何だか嬉しかった。直接そう聞かれたのは、初めてだったから。だから、思わず笑っていた。


「あはは。辛くはないよ。だってぼくは昔のぼくを知らないんだから、比べようがない」


 人は勝手に慮るのが好きだ。それはそれで素敵な事だと思う。人の気持ちになって考えなさい、そんな道徳教育の賜物なのか、思いやりがある人たちばかりだ。でもそうやって慮るうちに、人の心に触れることが、心を傷つけることになりやしないかと、及び腰になっているんじゃないかと思う。腫れ物に触る、とはよく言ったものだ。

 それはただ、遠巻きに見ているだけで、横に並び立ってなんかいないのに。


「それなら、よかった」

 ネリーはそっと微笑んだ。


 百万の同情の言葉をかけられるより、ぼくにはその小さな微笑みがぼくに寄り添ってくれているような、そんな風に感じられた。


「ふふん。それならリオンも転校生みたいなものデスね! ではでは、みんなで一緒に、この学校を学びましょう‼ ティーチャーはヤイコデス‼」

 メグはというと、元気いっぱいに笑顔を見せる。


「赤点取ったら即退学だから。心して学びなさい」

「わお!ヤイコは鬼軍曹‼」

「どこでそんな日本語を……」

「メグはよく、日本語がおかしい」

「?? 何か間違いありましたか?」

 間違ってはいないけど、独特だ。

「でも、もう昼休憩は終わりだからね。また、放課後にでも」


 耶衣子ちゃんと時々ぼく主導の学校見学はそうして、四人で放課後に開催することになり、お昼はこれで解散になった。

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