過去の爪痕

第30話

昔の話になる。


私は中学生のころ、ちょっとした嫌がらせを受けていた。



発端は何だったか。多分、うちは母子家庭で貧乏だったから、お風呂に入っていないと噂が立って不潔に思われたとか、そんな感じだろう。



嫌がらせといっても、暴力はなかったし、物を隠されることも、呼び出されて怒鳴られることもなかった。無視と、いわゆる「バイ菌扱い」くらいだ。


たいしたことはない。学校には毎日行ったし、3年間ずっとじゃなかったし、笑うことだってあった。生きることを放棄することもなかった。



でも、中2の体育祭で、手を繋ぐことを嫌がらなかった他クラスの男の子に呆気なく惚れたくらいには、私の中では「たいしたこと」だったのかもしれない。



私はそのころすでに人に触れることが怖かったから、拒絶することも、嫌がることもせず、どうでもよさそうに私に触れたことに、心が大きく揺さぶられた。


その他クラスの男の子が、崇だった。


崇は、目立つ方ではなく、1人静かに読書をしているような人で、大人っぽい印象があった。恐らく私に興味が全くなかっただけだ。でも、私にはその無関心な態度がすごく嬉しかった。



迷惑をかけたいわけじゃないから、中学の間それ以上に関わりを持つことはなかった。だけど、偶然高校が一緒になって、クラスも同じだと知ったときには、崇と話してみたいな、と思った。


恐る恐るではあるけど、ゆっくりと距離を縮めて、崇が笑ってくれるたびに、崇が話しかけてくれるたびに、その願望は形を変えた。



話してみたい。仲良くなりたい。友達になりたい。


付き合ってほしい。



好きになってほしい。




高2の秋、勇気をかき集めて崇に告白した。「好きです。付き合ってください」と半分泣きそうになりながら、定型文に思いを託した。


崇は少し考えて、やはり微塵も興味がなさそうに「いいよ」と頷いた。



そうだ、好きなんて気持ちは崇の中に元から存在しなかった。


私は浮かれたけど、ちゃんとわかってた。



大学生になって「崇はよくモテている」と聞く機会は急激に増えた。それと比例して、崇が私に触れる数は急速に減っていった。



気持ちの距離が縮まるときは、ゆっくりなうえにわかりにくいというのに、離れるときはすごい速度で、それもわかりやすく教えてくれる。


だから、あの日の崇の「いいよ」が消えていっていることは、さすがにわかっていた。



でも、頑張ったらだめとは知らなかった。


気付かないふりをして笑っていれば、わがままを言わず、困らせることもなく、いい子でいれば、また距離が戻るんじゃないかって、バカなことを思っていた。



そんな勘違いをあざけるように、初めて手を払われたとき、驚いたと同時に蓋をしていた記憶があふれ出した。


体に触れるなんてもちろん、触れた物すら払われた記憶は、私が触れることを許してくれた崇との思い出を黒で塗りつぶしていった。



ただ、そうと認めることは難しかった。綺麗な思い出を失いたくなかったんだと思う。「救世主」にさえ見放された事実を、「救世主」にさえ汚いと思われる私を、見たくなかったのかもしれない。



私は鈍感なふりをした。連絡する数はかなり減らしたし、崇の機嫌がよさそうな日にしか手を伸ばしてみないことにした。それでも何度か払われたら、ちゃんとすぐにやめた。


そして、大学1年生の秋、崇に我慢の限界が来る。



「別れよう。そういう目で見えなくなった」



私は「わかった」と答えながら、その言葉にショックを受ける反面、どこかでぼんやり「知ってた」と思った。


やっぱり私は汚いのかな、と思ったけど、手のひらを見下ろしたところで、自分では汚さがわからなかった。



私に触れてくれる人が現れたところで、私が触れることを許してくれる人に会えたところで、それはいつまでだろう。その人はいつ、私が汚いと気付くのだろうか。



「(いや、私は別に…)」



汚いわけじゃない。そう言い聞かせる。大丈夫、汚くない。何度も言い聞かせる。


でも、そこに大きく立ち塞がる、消えない記憶。



だったらもう求めることはやめよう。期待することもやめよう。そう誓った日は確かにあったのに。


崇に惚れたような一瞬ではなく、すごく緩やかに、私は茅野に惹かれてしまった。



茅野はとても優しくて、寂しいときはいつもそばにいてくれて、気が付いたら笑わせてくれていて、ああ、好きだな、とふいに自覚した。



伝える気は全くなかった。なかったのに、大学3年生の冬に初めて知った茅野の熱に、贅沢な自分が起き上がってしまったようだ。



茅野は触れてくれた。茅野の優しさは甘い錯覚をくれた。


不毛なぬかるみだとしても、私は嬉しかったんだ。



消えない記憶と、増え続ける欲求の間で、狡猾に自分の汚さを隠しながら考えた。茅野が飽きるか、我慢の限界が来るか、私の汚さに気付くか、何が先だろう。



そんな未来に怯えるのも、報われないと知りながら錯覚に酔い続けるのも、もう苦しい。


こんな恋を簡単に終わらせる方法を、私はもう知っているはずだ。



    

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