今日、情報世界の釜の底で
米田淳一
第1話 2145年、遠い未来のやりがい搾取センター
十分遠い未来はほとんどの人には異世界と区別がつかないばかりか、読み手は想像力を厳しく試されるために話として支持されることは絶望的である。だがそれは話として描けない理由にはならない。
2145年、意識のサーバ保存と感覚の通信共有が可能になって物理的な距離に意味がなくなったけれど、それでもまだ人を隔てる境界がある、と言うよりさらに厳しく増えてしまった未来。
○
調査職員・桐生がいつも願っていることがある。
それは火星に行くことでもなく、金持ちになることでもない。そんな夢を彼は持たずに生まれ育った。両親は愛してくれたがその愛はいつもズレてて、かといってそれを拒絶することもできず、結果彼を苦しませ続けた。一方的な愛は暴力と同じなのだが、それを知らない親は相変わらず多い。
そこで逃げて一人暮らしをしようとしたが、桐生はすでに心の病だったのでベーシックインカムギリギリの生活がやっとだった。障害者用の補助をかき集めてもそれはほとんどプラットフォーマーに払うしかない。
特に今はボディセンターと呼ばれる体を格納保全するかつてのデータセンターのような施設にほとんどの人間が収まっていて、その維持費やそこでの自由のための課金に追い立てられる日常が当たり前である。
だがそのおかげで不慮の事故、交通事故、病気による死からはほぼ確実に免れるようになった。もうあの忌まわしい感染症にも怯えることはない。
現実の物理世界に出るのには義体を借りて感覚を繋ぐだけで良い。遠方の義体を借りれば通信経由で一瞬で移動したのと同じになる。超低遅延大容量通信技術がそれを可能にした。もうどこに旅に出るのも一瞬となった。
とはいえこれが豊かかというと、全くそうではない。なにしろこの身体の保管はベーシックインカムと同じく福祉のために導入されたのだ。身体を保管して情報の身体になれば食事の用意もいらない。面倒な生体への医療もいらない。場所と費用のかかる住居もいらない。福祉予算が一番無駄なく使える!というので導入されたのだ。
それゆえ情報の身体で生きてるものは皆極端に貧しく、物理の体で生きるものは富裕層である。その結果、ただの隣町へ物理的に自転車で移動するのがとんでもない富裕層のみの贅沢になった。途中で飲む物理のコーラも贅沢だし、タイヤが途中でパンクして途方に暮れるなんてイベントも極めて贅沢なのだ。
普通に貧しい人間は物理の世界に出ていけない。だから隣町へは通信で意識だけ飛ばしてその先で義体を借りる。一瞬で済むがこれは旅でも移動でもない。
これが豊かなのか?というと、理想郷ではあるがとんでもない貧しい世界だ。でも人々はそれに抵抗できなかった。はじめ身体の不自由な患者のために作られた技術が貧しいものへの福祉に応用されたのだから、その途中途中で疑問に思っても誰も抵抗できなかったのだ。
だから桐生は願う。
物理的な旅をいつかしたい。
でもその前に、死んでしまいたい……。
もう押し付けられる福祉も愛も勘弁してほしい。その押し付けは暴力と言うものもいるけど、僕にはそれに応える力もないから、ただただ申し訳なくて生きていくのが辛い。
そう願いながら眠りにつく。とはいっても情報世界の話で、身体の眠りとは別なのだ。
どこまで行っても情報化された仮想世界。
かつてそれを夢見てまだ高かったヘッドセットや端末を使っていた人たちは、今のこの状態を見てどう思うだろう。
確かに夢の世界だけど、ここはどん底もいいところだ。
「そんな顔しないで。こっちが申し訳なくなるから」
線の細い女性の判事が言う。
ここは横浜初等情報審判院という、情報犯罪やトラブルを解決するための組織だ。名前だけはやたら立派だが、実際は指定管理者制度で役所からカスみたいな額の予算をもらって臨時職員やボランティアが働くやりがい搾取もいいところの職場である。本邦はどこで間違えたのか、中抜きとやりがい搾取が主要産業になってこの未来ではさらに悪化している。
だから桐生も最低時給だし、判事も呆れるほどの低賃金である。法曹資格を持ち実務経験もある人間をヘーキで低賃金重労働の悪条件で募集する役所もひどいが、仙台地裁の判事をやめてそれに応募してしまった判事もどうかしている。なぜせっかくの地裁判事をやめたのか?というと、判事は言葉を濁して答えない。
だがこの判事は桐生を救ってくれた。貧乏のため料金滞納で通信が止められた時、それでも緊急通話が30秒だけできる仕組みがあるのだが、それで桐生の声を聞いて助けてくれたのが司法修習生研修で緊急通話センターにたまたまいた判事なのだ。
周りはそんなのやめとけ、と散々言ったらしいのだが、判事はその後、知り合いの刑事に桐生を預からせた。そこで初歩の情報スキルを身につけ、そしてこのやりがい搾取センター、横浜情報審判院の調査職員になった。
と言っても最低時給しかもらえず、仕事の準備や後片付けの時間や課された責任を考えると最低時給割れする。でも労基署はいつも見て見ぬ振りしかしない。
ただ、この仕事をやめたら困る人がいるから辞められない。それだって図々しく当たってくることもあるのだが、辞められない。まさにやりがい搾取である。
「ごめんね。また片付けさせちゃって」
判事はそう申し訳なさそうに言うが、桐生は「そんなことないです!」と答える。桐生にとって判事はまさに「特別」なのだ。
判事は片付けが苦手で、この没入空間では物の整理と検索は自動的に機械がやってくれるのに、判事の周りには本や書類がうず高く積もっている。機械の処理が追いつかないほど散らかすのだ。
もし機械がなかった時代に生きてるとしたらどうなってると思います?と桐生が聞くと、「多分近所メーワクなほどの酷いゴミ屋敷にしてるでしょうね。文明ばんざい」と答えるのだった。
「整理作業中ですが、判事の起草した文書のミスを21334箇所発見しました」
小さな武装少女の姿をしたAI、シリウスが判事に声をかける。
「めんどいから後回しにして」
「昨日も一昨日も判事はそうおっしゃってました」
シリウスは冷たく言う。というかシリウスが怒っているように聞こえてしまうのはどう言うことなのか。シリウス、例によって感情機能はないはずなのだが。そんな高価な高級AIがここにいるわけがない。
「言ってたかなあ」
桐生はこの調子で判事が務まっているのと頭が繋がらなくて不思議な気持ちになる。
その時、呼び出しが鳴った。判事が「どうぞ」と言うと、「神奈川県警港署です」と女性刑事が現れた。
え、港署?ってことはあのあぶない二人組の刑事の?と思うと、彼女は確かにその時代の肩パッドが入ったスーツ姿である。おいおい昭和って今から何年前?と桐生は思いながら応接セットに案内する。
シリウスもコーヒーを持ってくるが、これもただの論理アイテムで実際の物理コーヒーではなく感覚のみのものである。それならコピーすればいくらでも飲めて安いのだ。
そう、そのうちこの世界は人間もこう扱うだろう。
「今報道されてる漫画家の自殺事件がちょっと面倒なことになってしまって」
刑事がホログラフィパネルを見せると、判事は眉を寄せて首を傾げた。
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